【エッセイ】父と読書
最近、父とよく話す。もう実家を出て10年を超えるし、よく実家に帰る方でもない。電車で20分ほどの距離なので「いつでも帰れるしな」と言う心理を働かせて、用事がある時に年に数回程度しか顔を見せないことが常態化している。
コロナ禍の影響もあり、最近の方が頻繁に電話で連絡を取るようになった。最近のスマホは使いやすく作られていて、70歳を超える父でも少し教えたらテレビ電話機能の使い方を覚えた。
20代のころは父と面と向かって話す気恥ずかしさみたいなものがあったが、30歳を超えて自然にコミュニケーションが取れる様になってきた。大人になり親を「模範」ではなく、「ひとりの大人」として見れるようになったのも大きい様に思う。
父と話していて思うのは「嗚呼、この父の影響を受けているなぁ」と言う事。血縁というより、育ち方なんだと思う。
筆者と父の会話はちょっと変わっていて、
ある時は原田マハの小説『美しく愚かものたちのタブロー』の話から、昭和の大総理である吉田茂の話になり、
またある時はジャーナリストの池上彰と作家の佐藤優の話から、コロナ禍後の日本の政治思想の話になる。
いわゆるまともな「親子の会話」ではない。
こんな会話を親子でする様な父に育てられたから、こんな会話を親子でする様な筆者になるのだ。
筆者は思えば父以外とこの手の会話をする事なんてほとんどないが、父とこの手の会話をするのは楽しい。
子供の頃から、うちの実家の本の量を超えるは友人宅はなかったし、実家に戻る度に実家の本の量は増えていった。小説から新書まで多種多様な本があり、お気に入りの本なんて個人用で同じ家の中に同じ本が複数冊あったりした。
この読書量が父との会話につながっているのだと思う。筆者は比較的遅くに生まれた子なので、父とは30歳以上離れている。
きっとテレビや音楽の話題だったら、世代を超えた話なんて中々出来なかったんではなかろうかと思う。
読書から生まれる、文学や政治や哲学の話は世代を超えやすい。流行り廃りが少ない分野だからだ。
父とこうして友人の様に話せるのは、間違いなくお互いの読書量があるからだと思う。父から「本を読め」なんて強要されることなんて一度もなかった。ただあの環境で育ったことそのものが、筆者の読書量に繋がっていると思う。
父も「息子が読書する環境をつくろう」なんて意識せずに自然体に本を買ってきていただけだろう。その自然体が良かったんだと思う。
読書は世代を超えていく、最近そんな事を考えたりするのだ。