〔第二部〕グノーシス主義とはどのような思想なのか(その1)
二元論とグノーシスとは、あんなにも頻繁な拒否と断罪にもかかわらず、実際には西欧のキリスト教における〈悪〉の概念に濃い影を投げかけてきた。それらのものである二極的思考(神とサタン、光と闇、善と重さの霊など、大いなる闘争、根源的で執念深い或る種の悪意)は、われわれの思考にとって無秩序の秩序というものを組織してきた。西欧のキリスト教はグノーシスを断罪してはきた、けれどもその軽やかな一つの形、和解を約束する形を保ってきたのだ。(「アクタイオーンの散文」ミシエル・フーコー〔著〕/『フーコー・コレクション2』ちくま学芸文庫P217)
『ナグ・ハマディ文書』を読む
『ナグ・ハマディ文書』の概要
拙稿〔第一部〕で紹介したグノーシス文献のうち、とりわけ世界の研究者が注目した『ナグ・ハマディ文書』を荒井献、小林稔、筒井賢治とともに日本語に編訳した大貫隆は、同文書の文庫本発刊に伴い、その解説を冒頭に付した(『ナグ・ハマディ文書抄 新約聖書外典』岩波文庫/P5~7/以下「前掲書⑥※」という。)。以下にその要旨を示す。
(1)ナグ・ハマディ文書については、〈グノーシス主義文書〉と〈非グノーシス主義文書〉にわけることができる。
(2)ここでいう「グノーシス主義」とは、思想史的には初期ユダヤ教の周縁で、歴史的にはキリスト教の誕生と前後して、ただしそれとは独立に成立したと推定される神秘主義的思想運動のことである。
(3)その思想上の特徴をひと言でいえば、人間の本来的自己(「霊」)をすなわち「至高神」と考える点にある。
(4)それは本来の居場所(超越的な光の領域)から、可視的世界(星辰界と物質界)へ下落し、心魂と身体に拘束されて、蒙昧な造物神の支配下に置かれている。
(5)人間がその支配を脱して、本来の居場所へ救出されるためには、そこから訪れてくる啓示に照らされて、本来の自己を「認識」(グノーシス)しなければならない。
(6)ナグ・ハマディ文書の中の圧倒的に多く(とくに主要文書)は、明らかにこの基本概念を共有するグノーシス主義文書である。
(7)そうでない文書、つまり〈非グノーシス主義文書〉とは呼びがたい文書も少なからず含まれている。
(8)文学ジャンルで括っていえば、「ヘルメス文書」がある。「ヘルメス文書」とは、もともとギリシア神話に由来するヘルメス神がエジプトの神と融合した姿で現れて、人間の魂に神と宇宙の神秘を啓示し、その体験へ誘導する。
(9)その他、旧約聖書の『箴言』やヘレニズム文化圏の「賢者の訓言」の類型に連なる「知恵文学」、正典新約聖書に登場する使徒たちを主人公にして、彼らがイエス・キリストを宣教する途上で行った言動を大衆小説風に物語る読み物(外典使徒行伝)も含まれている。
『ナグハマディ文書』とキリスト教
グノーシス主義文書の中には、〈キリスト教グノーシス主義文書〉-キリスト教の影響下にある文書と、〈非キリスト教的グノーシス文書〉-キリスト教の影響が認められない文書がある。前出の通り大貫隆の見解では、そもそもグノーシス主義はキリスト教の誕生とは独立に、初期ユダヤ教の周縁に成立したという。
ところがその後の歴史的展開の比較的早い時期に、誕生後間もないキリスト教と接触したものが〈キリスト教的〉となり、接触しなかったものが〈非キリスト教的〉となった。しかしながら、後者が文書(実物資料)として発見されたのは『ナグ・ハマディ文書』がいまのところ、最初にして最後だというのである。大貫は『ナグ・ハマディ文書』の価値について次のように書いている。
「ヨハネのアポクリュフォン」
前出の解説を踏まえたうえで、『ナグ・ハマディ文書』を読んでみる。前掲書⑥におさめられた文書は、▽イエスの知恵、▽ペテロの黙示録、▽ヨハネのアポクリュフォン、▽トマスによる福音書、▽エジプト人の福音書、▽ユダの福音書 --の6文書であるが、なかで注目すべきなのが、「ヨハネのアポクリュフォン」である。
「ヨハネのアポクリュフォン」に登場するヨハネとは使徒ヨハネであって、洗礼者ヨハネではない。またアポクリュフォンとは、ギリシア語で「秘められた教え」のことである。
〝アポクリュフォン″の概念についての予備知識としては、前掲書⑥の「はじめに」における大貫隆の解説が参考になる。大貫によると、新約聖書の正典の編纂は紀元2~3世紀、アレキサンドリアのオリゲネスとエウセビオスの両者で進めら、その過程において彼らによって公認されたものと採用されなかった外典(のちの典外書)とが発生した。彼らは典外書を「疑わしきもの」「偽書」といった等級を付して分類した。しかし実際には彼らの分類以前の初期教会史の中では、正典の一部に匹敵する権威を認められていたものもあった。
その後、4世紀のアレキサンドリアの神学者、アタナシウスが正典27文書を選定し、その選からもれた文書は公式に「典外書」の扱いを受けた。その後、正典研究が進んだ17世紀以降、アタナシウスの選からもれた文書の多くが『使徒教父文書』と呼ばれるようになった。
現在の新約聖書研究で『新約聖書外典』と呼ばれるものは『使徒教父文献』を含まない。その根拠となっているのは、前出のオリゲネスとエウセビオスが定めた「偽書」「異端のもの」といった等級分類である。アタナシウスは「偽書」「異端のもの」を「アポクリュファ」の概念の下に一括化した(アポクリュフォンはその単数形)。であるから、「ヨハネのアポクリュフォン」は当然のことながら、異端を表すとともに、蔑称でもある。
なお、「ヨハネのアポクリュフォン」の構成は以下のとおりである。
プロローグ(§1~5)
プレーローマ界の生成(§6~25)
中間界の生成(§26~43)
心魂的人間の創造(§44~57)
肉体的人間の創造(§58~69)
終末論(§70~75)
補論・模倣の霊について(§76~79)
プロノイアの自己啓示(§80)
エピローグと書名(§81)
「ヨハネのアポクリュフォン」
(1)プロローグ(§1~5)
これらのセクションは〝ヨハネへの啓示″ともいわれる。ヨハネが神殿から山へ向かって行ったとき天が開き、三重の像が現われ、救い主に告げられる。救い主が多様な姿で自己を啓示するというのは、初期キリスト教の周辺である程度定型化しえていたものという。
また、救い主は自分を父であり母であり子であると言う。これに似た『新約聖書』における記述は、以下のとおりである。
マタイによる福音書では父・子・聖霊の3つが順に列挙されているが、「ヨハネのアポクリュフォン」では聖霊のかわりに母が第二項に入っていて、「三位一体論」の前段階を成すものとされ、「三体論的定型」と呼ばれる。
「ヨハネのアポクリュフォン」
(2)プレーローマ界の生成(§6~25)
ここで用いられるアイオーンの原義はギリシア語で(ある長さの)「時」「時代」「世代」の意であるが、グノーシス神話では至高の神的「対」から流出し、「プレーローマ」の中に充満する、擬人化された神的存在のこと。§9では「至福」の代替に用いられている。ほかの箇所では「流出」の代替として用いられている。
また、プレーローマとは、ギリシア語で「充満」の意。至高神以下神的存在によって満たされた超越的な光の世界を表現するために、グノーシス主義の神話が最も頻繁に用いる述語である。
上述の§6~9までの4セクションで示された至高神は否定神学的叙述方法が導入されている。あらゆるもののはじまりであり、すべてを超越し、その起源、定義、規定、描写、命名等ができないもの。見ることもできない光の中に在り、大きさも身体性も超越した不滅の霊。至高神という呼び方も、便宜的仮称といえる。
彼、すなわち至高神はすべてのアイオーンを与える(=生み出す)者であるが霊の泉に映った自分の姿を見つめることによって、そこから自分の姿を初めて認識する。それは人間の似姿であった。そして至高神が霊の泉の中へ意志を働かせると、バルベーローが現れる。バルベーローとは至高神の最初の自己思惟として生成する神的存在のこと。すなわちバルベーローは至高神によって生み出された最初の神であり、その存在はアイオーン(永遠性)と呼ばれる。これが最初のプロノイアすなわち「第一の人間」「万物の母胎」「母父」「聖なる霊」である。
なお、それに続く「三倍男性的なる者、三つの力、三つの女男(めお)なる名前」という表現は、「三倍」「三つの」「三重」という〈3〉のモティーフとして、当該文書と同時代における地中海世界に広く流布したヘルメス文学に用いられている表現だという。また、三つの男女(おめ)なる名前とは両性具有のこと。バルベーローは両性具有の存在という意味で母父と表現される。
§14~17において、処女である霊に求めた結果、プロノイアすなわちバルベーローは、①思考、②第一の認識、③不滅性、④永遠の生命、⑤真理の5つの神格をえる。それらが五個組であることは了解可能だが、十個組になる論理については読み取ることができない。両性具有からか。
§19~21までは、「独り子」すなわちアウトゲーネスすなわちキリストの出現から完全なる者にいたるまでの叙述である。完全なる者にいたる最初の行いは塗油である。そしてそれによって叡智が現われる。ここまでは沈黙と「思考」の中で成立したのだが、彼の思考は見えざる霊の「言葉」によってあることをなそうと欲すると、「意志」が叡智を、そして「言葉」が続いた。神的アウトゲーネスであるキリストは「言葉」ゆえに万物を創造したのである。
比較の意味で、旧約聖書 創世記を読み直す。
主なる神がすべての自然と人(ひと)をつくり、人(ひと)から女をつくり、エデンの園で暮らし始める。ところが、女がヘビに誘惑されて禁断の実を食べてしまい、エデンの園を追放され、永遠の生命を奪われ、地上においてひと(男女)としていきることを強いられる。ちりからつくられた人(ひと)はちりに帰る、つまり死ぬ。
エデンから追放のきっかけをつくった女はエバと名づけられ、ひとの〈母〉となる。だれもが知っている『失楽園』の逸話である。旧約聖書 創世記における〈主なる神〉はきわめて機能的であり、造物に特化されているように読める。なおかつ、ひとの誕生と楽園追放の物語も世俗的である。女には出産に伴い苦痛を、そして、地上で労働(一生、苦しんで地から食物を取る、野の草を食べる、顔に汗してパンを食べる)という苦役を背負わせる。
その一方、「ヨハネのアポクリュフォン」における(ここまでの)「ヨハネの啓示」「至高神」「プレーローマの神々」の叙述はいわば思弁的であり、神格の生成は抽象的である。グノーシス主義が造物神を一段下に置くという基本原則が了解されるところであろう。
セツとは旧約聖書創世記4の25、26に出てくるセツ(セト)のことである。そこにはこうある。
続いて、同5にはこうある。
唐突にセツが神格に加えられた感があるのだが、前掲書⑥の補注によると、セツに神話論的あるいは救済論的に重要な役割を負わせ、自分たちをその子孫と見做したグノーシス主義グループが存在した可能性があると説明されている。ただし、セツ派グノーシス主義者の歴史的実態はよく分からないという。
なお、〈§56 光り輝くアダム〉 から〈§69 セツとその子孫〉のセクションにおいて、アダムとエヴァ及びセツについてグノーシス主義的解釈が示されているので後述する。(続く)