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グノーシス主義を考える(2)

〔第二部〕グノーシス主義とはどのような思想なのか(その1)

二元論とグノーシスとは、あんなにも頻繁な拒否と断罪にもかかわらず、実際には西欧のキリスト教における〈悪〉の概念に濃い影を投げかけてきた。それらのものである二極的思考(神とサタン、光と闇、善と重さの霊など、大いなる闘争、根源的で執念深い或る種の悪意)は、われわれの思考にとって無秩序の秩序というものを組織してきた。西欧のキリスト教はグノーシスを断罪してはきた、けれどもその軽やかな一つの形、和解を約束する形を保ってきたのだ。(「アクタイオーンの散文」ミシエル・フーコー〔著〕/『フーコー・コレクション2』ちくま学芸文庫P217)

『ナグ・ハマディ文書』を読む

『ナグ・ハマディ文書』の概要

 拙稿〔第一部〕で紹介したグノーシス文献のうち、とりわけ世界の研究者が注目した『ナグ・ハマディ文書』を荒井献、小林稔、筒井賢治とともに日本語に編訳した大貫隆は、同文書の文庫本発刊に伴い、その解説を冒頭に付した(『ナグ・ハマディ文書抄 新約聖書外典』岩波文庫/P5~7/以下「前掲書⑥※」という。)。以下にその要旨を示す。

(1)ナグ・ハマディ文書については、〈グノーシス主義文書〉と〈非グノーシス主義文書〉にわけることができる。
(2)ここでいう「グノーシス主義」とは、思想史的には初期ユダヤ教の周縁で、歴史的にはキリスト教の誕生と前後して、ただしそれとは独立に成立したと推定される神秘主義的思想運動のことである。
(3)その思想上の特徴をひと言でいえば、人間の本来的自己(「霊」)をすなわち「至高神」と考える点にある。
(4)それは本来の居場所(超越的な光の領域)から、可視的世界(星辰界と物質界)へ下落し、心魂と身体に拘束されて、蒙昧な造物神の支配下に置かれている。
(5)人間がその支配を脱して、本来の居場所へ救出されるためには、そこから訪れてくる啓示に照らされて、本来の自己を「認識」(グノーシス)しなければならない。
(6)ナグ・ハマディ文書の中の圧倒的に多く(とくに主要文書)は、明らかにこの基本概念を共有するグノーシス主義文書である。
(7)そうでない文書、つまり〈非グノーシス主義文書〉とは呼びがたい文書も少なからず含まれている。
(8)文学ジャンルで括っていえば、「ヘルメス文書」がある。「ヘルメス文書」とは、もともとギリシア神話に由来するヘルメス神がエジプトの神と融合した姿で現れて、人間の魂に神と宇宙の神秘を啓示し、その体験へ誘導する。
(9)その他、旧約聖書の『箴言』やヘレニズム文化圏の「賢者の訓言」の類型に連なる「知恵文学」、正典新約聖書に登場する使徒たちを主人公にして、彼らがイエス・キリストを宣教する途上で行った言動を大衆小説風に物語る読み物(外典使徒行伝)も含まれている。 

※「第一部」における前掲書は次のとおり。
・前掲書①『『グノーシス主義の思想 〈父〉というフィクション』大田俊寛〔著〕
・前掲書②『古代オリエントの宗教』青木健〔著〕
・前掲書③『古代都市』フェステル・ド・クーランジュ〔著〕
・前掲書④『古代末期の世界 ローマ帝国はなぜ、キリスト教化したか?』ピーター・ブラウン〔著〕
・前掲書⑤『グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉』筒井賢治〔著〕

『ナグハマディ文書』とキリスト教

 グノーシス主義文書の中には、〈キリスト教グノーシス主義文書〉-キリスト教の影響下にある文書と、〈非キリスト教的グノーシス文書〉-キリスト教の影響が認められない文書がある。前出の通り大貫隆の見解では、そもそもグノーシス主義はキリスト教の誕生とは独立に、初期ユダヤ教の周縁に成立したという。
 ところがその後の歴史的展開の比較的早い時期に、誕生後間もないキリスト教と接触したものが〈キリスト教的〉となり、接触しなかったものが〈非キリスト教的〉となった。しかしながら、後者が文書(実物資料)として発見されたのは『ナグ・ハマディ文書』がいまのところ、最初にして最後だというのである。大貫は『ナグ・ハマディ文書』の価値について次のように書いている。 

 ナグ・ハマディ文書はグノーシス主義者自身の筆にさかのぼる直接資料である。さらに加えて、キリスト教グノーシス主義のみならず、キリスト教の影響を示さない非キリスト教的グノーシス主義の文書も含んでいる点に、この文書群がグノーシス主義の研究上有する画期的な意義がある。「前掲書⑥」P8)

ナグ・ハマディ文書抄

「ヨハネのアポクリュフォン」

 前出の解説を踏まえたうえで、『ナグ・ハマディ文書』を読んでみる。前掲書⑥におさめられた文書は、▽イエスの知恵、▽ペテロの黙示録、▽ヨハネのアポクリュフォン、▽トマスによる福音書、▽エジプト人の福音書、▽ユダの福音書 --の6文書であるが、なかで注目すべきなのが、「ヨハネのアポクリュフォン」である。
 「ヨハネのアポクリュフォン」に登場するヨハネとは使徒ヨハネであって、洗礼者ヨハネではない。またアポクリュフォンとは、ギリシア語で「秘められた教え」のことである。
 〝アポクリュフォン″の概念についての予備知識としては、前掲書⑥の「はじめに」における大貫隆の解説が参考になる。大貫によると、新約聖書の正典の編纂は紀元2~3世紀、アレキサンドリアのオリゲネスとエウセビオスの両者で進めら、その過程において彼らによって公認されたものと採用されなかった外典(のちの典外書)とが発生した。彼らは典外書を「疑わしきもの」「偽書」といった等級を付して分類した。しかし実際には彼らの分類以前の初期教会史の中では、正典の一部に匹敵する権威を認められていたものもあった。
 その後、4世紀のアレキサンドリアの神学者、アタナシウスが正典27文書を選定し、その選からもれた文書は公式に「典外書」の扱いを受けた。その後、正典研究が進んだ17世紀以降、アタナシウスの選からもれた文書の多くが『使徒教父文書』と呼ばれるようになった。
 現在の新約聖書研究で『新約聖書外典』と呼ばれるものは『使徒教父文献』を含まない。その根拠となっているのは、前出のオリゲネスとエウセビオスが定めた「偽書」「異端のもの」といった等級分類である。アタナシウスは「偽書」「異端のもの」を「アポクリュファ」の概念の下に一括化した(アポクリュフォンはその単数形)。であるから、「ヨハネのアポクリュフォン」は当然のことながら、異端を表すとともに、蔑称でもある。
 なお、「ヨハネのアポクリュフォン」の構成は以下のとおりである。

  1. プロローグ(§1~5)

  2. プレーローマ界の生成(§6~25)

  3. 中間界の生成(§26~43)

  4. 心魂的人間の創造(§44~57)

  5. 肉体的人間の創造(§58~69)

  6. 終末論(§70~75)

  7. 補論・模倣の霊について(§76~79)

  8. プロノイアの自己啓示(§80)

  9. エピローグと書名(§81)

「ヨハネのアポクリュフォン」

(1)プロローグ(§1~5)

§1まえがき
救い主の教えと言葉。彼は沈黙の中に隠されたこれらの奥義を啓示した。すなわち、イエス・キリストが。そして彼はそれらをヨハネに教え、ヨハネはそれに注意を払った。

§2ファリサイ人とヨハネ
・・・(ヨハネが)宮に上り着いたとき、アリマニオスという名のファリサイ人が近づいてきて、こう語りかけた。--「君が付き従っていた君の主人はどこかね。そこで彼(ヨハネ)は答えて言った、「彼がそこからやって来られた所、そこへ再び帰ってゆかれました」。するとそのファリサイ人が彼(ヨハネ)に言った。そのナザレ人は君たちをだまして迷わせたのだ。そしてまた彼は〔・・・・〕。また、君たちの心を閉ざして、君たちの父祖の言い伝えから、君たちを引き離してしまったのである。

§3ヨハネの疑問
私はそれを聞いたとき、神殿を立ち去って、あの山へ、とある荒涼たる場面へ向かった。私は心に深く悲しんで、こう言った。でもなぜ救い主は立てられたのか。また、なぜ彼は彼の父によってこの世へ送られたのだろうか。彼を遣わした父とは誰のことなのだろうか。また、私たちがやがてそこへゆくのであろうあのアイオーンとは、どのような性質のものなのか。というのも、彼は私たちに、「この滅びゆくアイオーンは不朽のアイオーンのかたちを受け取っているとは語ったが、かのアイオーンがどのようなところなのか、このことはまだ何も説明してくれなかった。

§4三重の像の出現
さて、私が心にこう思いめぐらしていたとき、突然諸々の天が開けて、全被造物が天の下〔・・・・〕照り輝いた。そして、世界全体が揺れ動いた。私は恐ろしくなって、倒れ伏した。すると光の中に一人の子供を見た。その子供は私の前に立っていた。しかし私は一人の老人の像を見た時--それ(像)は大きな姿のようであった。そして、それはその形を変えて、私の前で、同時に見るも小さな姿であった。そして、その光の中に多くの形をした像があった。そして、それらの形は互い違いに現れていた。(--その時、私は不思議に思った、)それ(像)は一つなのにどうして、三重の姿をしているのかと。

§5救い主の自己啓示
すると彼が私に言った、「ヨハネよ、ヨハネよ、なぜ君は疑うのか。また、なぜ恐れるのか。(中略)私はいつでも君たちと共にいる。私は父であり、私は母であり、私は子である。私は汚し得ざる者であり、穢れに染まぬ者である。さて今や私は君に告げるためにやって来た。現に今在るものが何であり、かつて在ったものが何であり、やがて成るべきことが何であるかを。それは君が明らかならざるもの、明らかなるものについて知るためであり、完全な人間について、君に教えるためである。〔中略〕私が今日君に語って聞かせることを理解して、君自身がそれらをさらに君とおなじ霊の仲間、とはすなわち、完全なる人間に属する揺らぐことのない種族からの者たちに宣べ伝えるためである。それで私は彼に言った、私がそれを理解することができるよう、どうぞ語って下さい。

ナグ・ハマディ文書抄

 これらのセクションは〝ヨハネへの啓示″ともいわれる。ヨハネが神殿から山へ向かって行ったとき天が開き、三重の像が現われ、救い主に告げられる。救い主が多様な姿で自己を啓示するというのは、初期キリスト教の周辺である程度定型化しえていたものという。
 また、救い主は自分を父であり母であり子であると言う。これに似た『新約聖書』における記述は、以下のとおりである。

マタイによる福音書
28-16~20 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

新約聖書

 マタイによる福音書では父・子・聖霊の3つが順に列挙されているが、「ヨハネのアポクリュフォン」では聖霊のかわりに母が第二項に入っていて、「三位一体論」の前段階を成すものとされ、「三体論的定型」と呼ばれる。

「ヨハネのアポクリュフォン」

(2)プレーローマ界の生成(§6~25)

§6 至高神について
彼は私に語った。
単一性は単独支配のことであるから、さらにその上には何者も存在しない。彼は真の神、万物の父、見えざる霊であり、万物の上に在る。不滅性の中に在る者であり、純粋なる光--すなわち、いかなる視力でも見つめることができない光の中に在る者である。

§7 至高神について(つづき)
彼は見えざる霊である。彼を神のように考えることも、また、何かその種の性質をしていると考えるものも適当ではない。なぜなら、彼は神々よりも偉大であるから。彼の上には何者も存在しない。なぜなら、彼の上に支配する者は誰もいないからである。
彼はいかなる欠乏の中にもいない。なぜなら、彼に先立って存在する者はいないからである。ただ彼一人が永遠なる者である。なぜなら、彼は生命も必要としないのであるから。なぜなら、彼は全く完全であるから。彼はそれによって完成されることになるような物を何一つ必要としなかった。むしろいつでも光の中で完全なのである。彼は限定不可能である。〔中略〕彼は目に見えざる者である。何人も彼を見たことはないのだから。彼は永遠なる者であり、永遠に存在する。彼は記述し難き者である。何人も記述しようとして彼を把捉することができなかったのだから。彼は命名し難き者である。彼より先に在って、彼に名前を付けた者はいないのだから。

§8 至高神について(つづき)
彼は測り難き光であり、潔められ、聖なる、純粋なる光である。彼は記述し難き者であり、不巧さにおいて完全なる者である。彼は完成ではなく、至福さでもなく、神性でさえもなく、むしろそれらよりもはるかにすぐれている。彼は身体的でもなければ、非身体的でもない。〔中略〕いかなる被造物でもない。〔中略〕彼は存在するものの内の何かではなく、むしろそれらよりもっとすぐれたものである。しかし、それは本当は彼がそれ自身としてすぐれたものであるかのような意味ではなく、むしろ彼自身の固有のもの(本質)はアイオーンたちの一部に与ることがなく、時間に与ることもないからである。なぜなら、あるアイオーンの一部に与る者がいるならば、彼こそまずもって準備されたことになるから。〔後略〕

§9 至高神について(つづき)
・・・彼は大きさであるから。彼は測り難き大きさを備えている。彼はアイオーンを分け与えるアイオーン、生命を分け与える生命、至福を分け与える至福なる者、認識を分け与える認識、善を分け与える善なる者、憐れみと救いを分け与える憐れみ、恵みを分け与える恵みである。それは彼がそれを備えているからではなく、むしろ彼が測り難く不朽の憐みを分け与えるからである。

ナグ・ハマディ文書抄

 ここで用いられるアイオーンの原義はギリシア語で(ある長さの)「時」「時代」「世代」の意であるが、グノーシス神話では至高の神的「対」から流出し、「プレーローマ」の中に充満する、擬人化された神的存在のこと。§9では「至福」の代替に用いられている。ほかの箇所では「流出」の代替として用いられている。
 また、プレーローマとは、ギリシア語で「充満」の意。至高神以下神的存在によって満たされた超越的な光の世界を表現するために、グノーシス主義の神話が最も頻繁に用いる述語である。
 上述の§6~9までの4セクションで示された至高神は否定神学的叙述方法が導入されている。あらゆるもののはじまりであり、すべてを超越し、その起源、定義、規定、描写、命名等ができないもの。見ることもできない光の中に在り、大きさも身体性も超越した不滅の霊。至高神という呼び方も、便宜的仮称といえる。

§10 救い主(語り手)の自問自答(略)
§11 至高神について(続き)

彼のアイオーンは不朽である。彼は安息の中に在り、また、沈黙の中に在って、安らいでいる。彼はあらゆるものに先立って存在する者である。彼は全アイオーンの頭である。彼は彼の善によって彼らに強さを与える者である。なぜなら、われわれが彼を知ったのではなく、測り難き事どもを認識したのでもない。彼の中に現れた者を除いては(認識した者はいない)。これはすなわち、父である。なぜなら、それをわれわれに語ったのはこの者である。

§12 至高神の自己分化
なぜなら、彼は自分を取り囲んでいる彼の光の中で彼自身を見つめる者、とはすなわち、生命の水の泉である。そして彼はすべてのアイオーンを与え、また、あらゆる形でそうする。彼は霊の泉の中に彼の像を見るとき、それを認識する。彼は彼の水の光、すなわち、彼をとり巻く純粋なる水の泉の中へ意志(欲求)を働かせる。すると彼の思考が活発になって現れ出た。それ(「思考」)は歩み出て、彼の光の輝きの中に彼の前へ現れた。

ナグ・ハマディ文書抄

§13 バルベーローの生成
--すなわち、これが彼らすべてより先に存在する力であり、彼の思考の中から現われ出たものである。これがすなわち万物のプロノイア、彼女の輝く光、光の似姿、完全なる力である。それは見えざる、処女なる、完全なる霊の影像である。それは力、 バルベーローの栄光、アイオーンの間の完全なる栄光、啓示の栄光、処女なる霊の栄光である。これが彼の影像の最初の「思考」である。彼女は万物の母胎となった。というのも、彼女は彼らすべてに先立つからである。母父、第一の人間、聖なる霊、三倍男性的なる者、三つの力、三つの女男(めお)なる名前、そして見えざる者たちの間にあって永遠のアイオーン、そして第一の出現である。

ナグ・ハマディ文書抄

 彼、すなわち至高神はすべてのアイオーンを与える(=生み出す)者であるが霊の泉に映った自分の姿を見つめることによって、そこから自分の姿を初めて認識する。それは人間の似姿であった。そして至高神が霊の泉の中へ意志を働かせると、バルベーローが現れる。バルベーローとは至高神の最初の自己思惟として生成する神的存在のこと。すなわちバルベーローは至高神によって生み出された最初の神であり、その存在はアイオーン(永遠性)と呼ばれる。これが最初のプロノイアすなわち「第一の人間」「万物の母胎」「母父」「聖なる霊」である。
 なお、それに続く「三倍男性的なる者、三つの力、三つの女男(めお)なる名前」という表現は、「三倍」「三つの」「三重」という〈3〉のモティーフとして、当該文書と同時代における地中海世界に広く流布したヘルメス文学に用いられている表現だという。また、三つの男女(おめ)なる名前とは両性具有のこと。バルベーローは両性具有の存在という意味で母父と表現される。

§14 「第一の認識」の生成
それは見えざる、処女なる霊--これはすなわちバルベーローのことである--に請い求めた。彼女に第一の認識を与えてくれるようにと。すると、その霊はそれを承認した。彼が承認したとき、第一の認識が現れてきた。彼女はプロノイア--とはすなわち、見えざる、処女なる霊の思考から出た者である--と共に立ち、彼と彼女の完全なる力、すなわちバルベーローを賞め讃えた。彼女は彼女(バルベーロー)によって在るようになったからである。

§15 「不滅性」の生成
それから再び彼女は自分に不滅性を与えてくれるよう請い求めた。すると彼は承認した。彼が承認したとき、不滅性が現れてきた。彼女は「思考」および「第一の認識」と共に立ち、あの見えざる者とバルベーローを賞め讃えた。この(バルベーロー)のゆえに彼女らは在るようになったのである。

16 「永遠の生命」の生成(略)
§17 「真理」の生成(略)


§18 「第一の人間」の五個組
これが父--とはすなわち、「第一の人間」のことである--のアイオーンの五個組である。--すなわち、見えざる霊の影像--とはすなわちプロノイア、とはすなわちバルベーローと「思考」のことである--「第一の認識」、「不滅性」、「永遠の生命」、および「真理」である。これが男女(おめ)的なるアイオーンの五個組であり、すなわちアイオーンの十個組であり、これがすなわち父である。

ナグ・ハマディ文書抄

 §14~17において、処女である霊に求めた結果、プロノイアすなわちバルベーローは、①思考、②第一の認識、③不滅性、④永遠の生命、⑤真理の5つの神格をえる。それらが五個組であることは了解可能だが、十個組になる論理については読み取ることができない。両性具有からか。

§19 「独り子」の生成
それから彼は見えざる霊を取り巻く純粋なる光と彼の輝きをもって、バルベーローを見つめた。すると彼女は妊娠した。そして彼は、至福なかたちの光の中で、光の火花を生み出した。しかし、それ(花火)は彼の偉大さに等しくはなかった。これが母父の独り子であった。それが今や現れてきた。これがすなわち、彼の唯一の生み出したものであり、父の独り子であり、純粋なる光である。

ナグ・ハマディ文書抄

 §19~21までは、「独り子」すなわちアウトゲーネスすなわちキリストの出現から完全なる者にいたるまでの叙述である。完全なる者にいたる最初の行いは塗油である。そしてそれによって叡智が現われる。ここまでは沈黙と「思考」の中で成立したのだが、彼の思考は見えざる霊の「言葉」によってあることをなそうと欲すると、「意志」が叡智を、そして「言葉」が続いた。神的アウトゲーネスであるキリストは「言葉」ゆえに万物を創造したのである。

§22 万物の頭アウトゲーネス(独り子)
それから聖なる霊が神的なる「アウトゲーネス」、すなわち彼とバルベーローの御子を完全なる者としたので、彼(アウトゲーネス)、は大いなる、見えざる、処女なる霊のもとへ神的アウトゲーネス、すなわちキリストとして歩み出た。これこそ彼(見えざる霊)が大いなる声で讃えた者である。彼はプロノイアによって現われてきたのである。そして、見えざる処女なる霊は神的アウトゲーネスを万物の上にかしらとして任命した。そして彼はあらゆる権限と真理--これは彼の中に在るものである--を彼に従わせた。それは彼--とはつまり、あらゆる名に優る御名によって呼ばれた者--がすべてのことを認識するようになるためである。なぜなら、その御名は彼にふさわしい者たちにだけ語られることになるであろうから。

§23 四つの大いなる光
なぜなら、その光--とはすなわち、キリストのことである--と「不滅性」から、霊の神によって、4つの輝く者が神的アウトゲーネスから現れてきた。彼はそれらが自分のそばに立つように注視した。
 さて、3つのものとは「意志」と「思考」と「生命」であり、4つの力とは「賢明」と「恵み」と「知覚」と「思慮」である。さて、「恵み」はアイオーンの輝くアルモゼール〔注1〕、とはすなわち、第一の天使のもとにある。さて、このアイオーンと共に他の3つのアイオーンが在る。すなわち、「恵み」と「真理」と「かたち」である。さて、第二の輝く者はオーリエール〔注2〕で、第二のアイオーンの上に立てられたものである。それと供に他の3つのアイオーンが在る。すなわち「エビノイア〔注3〕」「知覚」「想起」である。さて、第三の輝く者はダヴェイタイ〔注4〕であり、第三のアイオーンの上に立てられた者である。それと共に他の3つのアイオーンが在る。すなわち、「賢明」「愛」「現象」である。さて、第四のアイオーンは第四の輝く者エーレーレート〔注5〕の上に立てられた。それと共に他の3つのアイオーンが在る。すなわち、「完全」、「平安」、「知恵」である。これらが神的なるアウトゲーネスのそばに立っている4つの輝く者である。これらが大いなる者の御子、アウトゲーネス、すなわちキリストのそばに立っている12のアイオーンであり、見えざる霊の意志と贈与によるものである。これら12のアイオーンは御子、すなわちアウトゲーネスに属する。万物が聖なる霊の意志により、アウトゲーネスによって堅くされた。

〔注1〕アルモゼール;ヘブル(ヘブライ)語で「確固として立つ光」、「支配する光」という説がある。
〔注2〕オーリエール;ヘブル語で「神の光」の意
〔注3〕エビノイア;配慮
〔注4〕ダヴェイタイ;ダビデ王との関連があるという説がある。
〔注5〕エーレーレート;ヘブル語で「明けの明星」あるいは「月」の意と推定される。

ナグ・ハマディ文書抄

§24 原型アダムの生成
さて、「第一の認識」および完全なる「叡知」から、見えざる霊の意志の啓示により、また、完全なる人間としてのアウトゲーネスの意志により、第一の啓示と真理が現れた。それを処女なる霊はピゲラアマダン〔注6〕と呼んだ。そして彼は彼を大いなるアウトゲーネス、すなわちキリストと共に、第一のアイオーンの上へ、第一の輝く者アルモゼールのもとに置いた。そして彼の力が彼と共に在る。そして見えざる者は彼に凌駕し難い精神の力を付与した。すると彼(ピゲラアマダン)は語り、見えざる霊を賞め讃えて言った。『万物はあなたのゆえに在るようになったのです。そして万物はやがてあなたへ向かうことになるでしょう。私はあなたとアウトゲーネスとアイオーン、すなわち父と母と子の三つ、および完全なる力を賞め讃えるでしょう』。

〔注6〕ピゲラアマダン;固有名詞と解釈されている。(前掲書⑥ P211)

ナグ・ハマディ文書抄

 比較の意味で、旧約聖書 創世記を読み直す。

〔創世記1〕
1 はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見みて、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
5~25〔略〕
26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従がわせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ。」

〔創世記2〕
1~6〔略〕
7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
9~19〔略〕
20
それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手てが見つからなかった。
21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。
24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

〔創世記3〕
1~15では、女はヘビに誘惑され、食べてはいけない禁断の果実を食べてしまうという話が語られる。
16(主なる神は) つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。
17 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
20 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。

旧約聖書

 主なる神がすべての自然と人(ひと)をつくり、人(ひと)から女をつくり、エデンの園で暮らし始める。ところが、女がヘビに誘惑されて禁断の実を食べてしまい、エデンの園を追放され、永遠の生命を奪われ、地上においてひと(男女)としていきることを強いられる。ちりからつくられた人(ひと)はちりに帰る、つまり死ぬ。
 エデンから追放のきっかけをつくった女はエバと名づけられ、ひとの〈母〉となる。だれもが知っている『失楽園』の逸話である。旧約聖書 創世記における〈主なる神〉はきわめて機能的であり、造物に特化されているように読める。なおかつ、ひとの誕生と楽園追放の物語も世俗的である。女には出産に伴い苦痛を、そして、地上で労働(一生、苦しんで地から食物を取る、野の草を食べる、顔に汗してパンを食べる)という苦役を背負わせる。
 その一方、「ヨハネのアポクリュフォン」における(ここまでの)「ヨハネの啓示」「至高神」「プレーローマの神々」の叙述はいわば思弁的であり、神格の生成は抽象的である。グノーシス主義が造物神を一段下に置くという基本原則が了解されるところであろう。 

§25 セツ、セツの子孫、他の生成
それから彼は彼(ピゲラアマダン)の息子セツを第二のアイオーンの上、第二の輝くオーロイエールのもとに置いた。さて、第三のアイオーンにはセツの子孫が置かれた。第三の輝くダヴェイタイの上には聖徒たちの魂が置かれた。第四のアイオーンにはプレーローマのことを知らず、直ちに悔い改めず、むしろしばらくの間ためらい、その後初めて悔い改めた者たちの魂が置かれた。彼らは第四の輝く者エーレーレートのもとに在ることになった。これが見えざる霊を賞め讃える被造物である。

ナグ・ハマディ文書抄

 セツとは旧約聖書創世記4の25、26に出てくるセツ(セト)のことである。そこにはこうある。

〔創世記4〕
25 アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代わりに、ひとりの子をわたしに授けられました」。
26 セツにもまた男の子が生まれた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。

旧約聖書

  続いて、同5にはこうある。

〔創世記5〕
1 アダムの系図は次のとおりである。神が人を創造された時、神をかたどって造り、
2 彼らを男と女とに創造された。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられた。
3 アダムは百三十歳になって、自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み、その名をセツと名づけた。
4 アダムがセツを生んで後、生きた年は八百年であって、ほかに男子と女子を生んだ。
5 アダムの生きた年は合わせて九百三十歳であった。そして彼は死んだ。
6 セツは百五歳になって、エノスを生んだ。
7 セツはエノスを生んだ後、八百七年生きて、男子と女子を生んだ。
8 セツの年は合わせて九百十二歳であった。そして彼は死んだ。

旧約聖書

 唐突にセツが神格に加えられた感があるのだが、前掲書⑥の補注によると、セツに神話論的あるいは救済論的に重要な役割を負わせ、自分たちをその子孫と見做したグノーシス主義グループが存在した可能性があると説明されている。ただし、セツ派グノーシス主義者の歴史的実態はよく分からないという。
 なお、〈§56 光り輝くアダム〉 から〈§69 セツとその子孫〉のセクションにおいて、アダムとエヴァ及びセツについてグノーシス主義的解釈が示されているので後述する。(続く)

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