〔第二部〕グノーシス主義とはどのような思想なのか(その2)
『ナグ・ハマディ文書』を読む(2)
「ヨハネのアポクリュフォン」
(3)中間界の生成(§26~43)
この単元から、「ヨハネのアポクリュフォン」(『ナグ・ハマディ文書』)の叙述に大きな転換が訪れる。それまでは、プレーローマにおける上位の神格が階層的秩序のもとに整えられ、神霊界の秩序が形成されたかのように思えたものが一転する。かくして、カオス的様相を呈するのである。それまで見られたキリスト教との接点がなくなったわけではないが、希薄となり、異界の物語が繰り広げられるようになる。その発端となったのが、ソフィアという女性的神格をもったアイオーンの独断からであった。ソフィアは、異形の子ヤルダバオートを生みだし、彼がプレーローマの中間界を形成しそれを支配するようになる。
エピノイア(というアイオーン)すなわち「ソフィア」は、「第一の認識」と共に、霊の意志もえないばかりか、伴侶である男性性の同意もえず、ただただ「凌駕し難い力にまかせて」、いわば勝手に、自分の影像を出現させようと思い、そう(出産)してしまった。それは不完全な業であり、その姿は母親(ソフィア)に似ていなかった。
§28 ヤルダバオート
原文を省略して主意を示せば次のようになる。
ソフィアが自分の意志によってもたらした産物を見ると、それは彼女とは異なった、ライオンの姿をした竜の形をしていた。その者の目は稲妻の火のように光っていた。彼女はその者を自分のそばから外へ投げ捨てた。アイオーン(不死なる者)たちの誰にも見られないようにするためであった。なぜならば、彼女はそれを無知の中に造り出したからである。投げ捨てられた天使長は中空を翼で飛び回る悪霊(堕天使)たちの頭になるという異文もあるという。そして次のように結んでいる。《彼女は彼に光の雲を巻き付けて、その雲の真ん中に玉座を置いた。それは聖霊ーーこれは「生ける者の母」と呼ばれるーーの外には誰も彼を見ることがないようにするためであった。彼女はヤルダバオートと名付けた。》
冒頭の〝第一のアルコーン″のアルコーンとは、ギリシア語で「支配者」の意である。造物神ヤルダバオートを「第一のアルコーン」として、その支配下に多数のアルコーンが存在し、地上の世界を統治していると考えられている。なお、「権威」「諸力」と並列的、交替的に現れることが多いという。(前掲書⑥「補注・用語解説・索引」/P477)
さて、次の§30~§43は、ヤルダバオートが造物した者とそれらの名前が列挙される。彼らは二重、三重の名前をもっている。なお、§30 三百六十人の天使群は§36に転写されているので前掲書⑥では省略されている。
§31 黄道十二宮(獣帝)
まず、黄道および黄道十二宮についての予備知識を『日本大百科全書(ニッポニカ)』から得ておく。
§31 黄道十二宮(獣帯)を要約すると以下のとおりとなる。
ヤルダバオートが生み出した第一の者の名は、アトート。代々の者たちが読んでいる名前があるようだが、当該文書では、不鮮明なためか破損したためなのかはわからないが読み取れない。アトートとは黄道十二宮の白羊宮(おひつじ)に対する隠語表現。語源については不明。二番目がハルマス(同じく金牛宮)、すなわち欲望の目。三番目はカリラ・オイムブリ(同じく双子宮)、第四がイアベール(同じく巨蟹宮)、第五はアドナイウー(同じく獅子宮)で、サバオート(ヘブル語で「万軍」の意)、第六がカイン(同じく処女宮)、第七はアベル。代々の人間たちが「太陽」と呼ぶ者。第八の者はアプリセネ(同じく天蝎宮すなわち「暴力の父」)、第九の者はイョベール(同じく人馬宮)、第十の者はアルムピエエール(同じく磨羯宮、「呪詛定式「神の面前での残酷」を考える説があるという)。第十一の者はメルケイト・アドネーン(同じく宝瓶宮すなわち「悪しき王」の意)、第十二の者はベリアス(同じく双魚宮(旧約聖書、外偽典、新約聖書、ラビ文献に広く現れる悪の天使長ないしサタンの別称)、すなわち下界の深淵の上に立つ者である。
カインとアベルについては、前出の旧約聖書 創世記4-1~15において記述されている。
§32 二重の名前
このセクションを要約すると以下のようになる。
前セクションで命名された者たちはすべて、欲望と怒りから由来する別の名前があることが告げられるが、それぞれの名称の具体的記述はなく、サクラスというのが、ヤルダバオートの別名であることのみが記されている。なお、ヤルダバオートにはサクラスのほかにサマエール(盲目の者)、パントクラトール(万物の支配者)という名前をもっている。パントクラトールの語源はアラム語ないしシリア語で「馬鹿な」を意味する。ヤルダバオートの名前は、§35にて正式に命名される。
これらの命名は、グノーシス主義における造物神の位置づけを如実に物語るところである。また、十二の者たちは、時を経るに従い遠ざかり弱くなるが、時によって力を得て大きくなるが普通であるという。
§34 週の七個組(略)
§35 ヤルダバオートの三重の名前
§32で叙述されたヤルダバオートの二重の名前(サクラス)のほかにサマエール(盲目の者)が加えられる。そして、ヤルダバオートは〔無理解〕のゆえに不遜な者であると規定される。なぜならば、彼が「われこそは神である。われの他に神はいない」と言ったからであると。彼は無知であるからとも。
このセクションの「週の七個組」の解説として、前掲書⑥の「ヨハネのアポクリュフォン注/P214」および巻末「補注・用語解説・索引/P497」から引用する。
§38 ヤルダバオートの多面相
このセクションを要約すると次のようになる。ヤルダバオートは無数の顔お持ち、どのような顔でもすることができた。そして彼らすべての上に住み、自分の火を彼らの上に分け与え支配した。その栄光は彼の母親(ソフィア)からの光として彼のなかに備わったものであるそれゆえ、彼は自分自身を神と呼んだ。しかし、彼は彼がやってきた場所に服従しなかった。
「彼がやってきた場所」とはヤルダバオートがいる中間の場所をさす。グノーシス主義の神話では「あの場所」「この場所」という表現で超越的な光の世界と地上界を指し、「中間の場所」でその中間に広がる領域を表現する。
ここで登場する「プロノイア」は§13に記された「プロノイア」とは別物。プロノイアの意味はギリシア語で「摂理」。ストア派では宿命(ヘルマルメネー)と同一。「ヨハネのアポクリュフォン」では前出(§13、23)のとおり、プレーローマ界に二つのプロノイアを、そして当該セクションにあるように中間界にもう一つのプロノイアを、さらに§77〔後述〕では、地上界に宿命を配している。なお、異文ではプレーローマ、中間界、地上界のそれぞれに一つずつプロノイアは配し、中間界と地上界については宿命と同一視しているする叙述もあるという。
なお、グノーシス主義のプロノイア、「摂理」並びにストア派の「宿命」の関係については、同じく巻末「補注・用語解説・索引」に以下の解説がある。
ヤルダバオートによって造物された者たちは、上なる栄光に従って名付けられ名前のもとでは滅ぼされ、ヤルダバオートによって名づけられた名前のもとでは力を発揮する。だから、彼らは二重の名前をもっている、また、ヤルダバオートは彼の母親(ソフィア)から受け取った力によって、第一のアイオーンの像(不朽の型)に従って彼が造物した者たちを整えることができたのであって、ヤルダバオートが不朽の型を見たからではない、とうことであろう。
「ヨハネのアポクリュフォン」
(4)心魂的人間の創造(§44~57)
この単元では、§47から人(ひと)の創造について記述される。さきまわりしていえば、「ヨハネのアポクリュフォン」では、人間界及び人間はソフィアの過失によって生まれた造物神ヤルダバオートによって造られた、劣後するものであるとされる。つまり、造物神が至高神より劣後する〈神〉であることが説明されるのである。
留意すべきは、グノーシス主義の本質を示す用語が(筆者のような浅学の徒には読み飛ばしてしまいそうに無造作に)散りばめられていることである。このことについて、前掲書⑥補注・用語解説に従い整理する。
その第一は霊である。グノーシス主義では人(ひと/ミクロコスモス)を霊・心魂・肉体(物質)の3つから成るとみることに対応して、宇宙(マクロコスモス)も超越的プレーローマ、中間界、物質界の三層に分けて考える。
霊はグノーシス主義の世界観における最高の原理及び価値である。物質的世界に分散している霊は滅びることはあり得ず、終末においてプレーローマに受け入れられる。グノーシス主義における終末とは、プレーローマの中に生じた過失の結果として物質的世界の中に散らされた神的本質(霊、光、力)が、再び回収されてプレーローマに回帰し、万物の安息が回復されることである。その際、霊的なものはプレーローマに入るが、心魂的なものは「中間の場所」に移動し、残された物質的世界は「世界大火」によって焼き尽くされる。『ナグハマディ文書 写本2 この世の起源について』§116、142-150(前掲書⑥には未収録)は終末論を黙示文学的な表象で描いているという。
一方、このような宇宙万物の終末について論じる普遍的終末論とは別に、個々人の死後の魂(霊)の運命について思弁をめぐらす個人的終末論があり、チグリス・ユーフラティス河の下流域に現存するマンダ教などを含めてグノーシス主義全体について見れば、頻度的には後者の方が多い。『ナグハマディ文書 写本1 真理の福音§32』(前掲書⑥には未収録)では「終わりとは隠されていることの知識を受けること」、とあるという。オカルトとは隠されたものを語源とする。このような霊に関する思弁の深化が後年、〈オカルトティズム〉として発展したように思われる。
〈霊〉もしくは〈霊的なもの〉と対比されるのが〈心魂〉であり、心魂は中間界に該当する。心魂については§47にて叙述される。
なお、ソフィアが留めおかれた「第九の天」とは、ヤルダバオートの支配する「第八の天」とプレーローマの間の領域を指す。
人(ひと)の創造についての叙述である。§45にある「人間」は「第一の人間」と同じ意味で、プレーローマ界の至高神のこと。必ずしもすべての神話が至高神にこの呼称を与えているわけではないが、「人間即神也」というグノーシス主義の一般に共通する根本的思想を最も端的に表現するもの。至高神は前出のとおり「人間」または「不死なる光の人間」、「真実なる人間」、「不朽なる者」、「生まれざる方」、「生まれざる父」、「不死なる父」、「存在しない神」、「万物の父」など多様な呼称で呼ばれる。「ヨハネのアポクリュフォン」では、至高神と同時にバルベーローも「第一の人間」と呼ばれることがある。バルベーローについては§13を参照。繰り返せば、至高神の最初の自己思惟として生成する神的存在であり、神話の隠れた主人公の一人。後述の§80において自己自身を啓示する。「完全なる人間は」は終末に到来が待望される救済者、すでに到来したキリスト、あるいは人類の中の「霊的種族」の意味でも使われることがある。(前掲書⑥ 補注・用語解説・索引P493)
また「人間の子」とは、至高神とバルベーローから生まれた「独り子」あるいは「アウトゲーネス」(キリスト)のこと。『旧約聖書ダニエル書7‐13』《「 わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた」》以来のユダヤ教黙示文学の終末論に定着している「人の子」の叙述をグノーシス主義的に大筋をまね、細かい点を造り変えたものだという。(前掲書⑥「ヨハネのアポクリュフォン」注61)
§46にある第一のアルコーンとはヤルダバオートの別称であり、一方、聖なる母父、完全なる者、完全なるプロノイア、見えざる者の影像、万物の父、万物がその中に成った者、第一の人間と列挙された呼称は、前出の通り至高神のこと。至高神が影像として姿を現したとき、第一のアルコーンすなわちヤルダバオートが属する中間界と下界が揺れ、至高神の影像が光り輝き、水の中に至高神のかたちが認められ、§47において、ヤルダバオートはその影像すなわち神の像に従って人を造ろうとする。この部分は、旧約聖書1-26〝神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう“の叙述と対応する。
ヤルダバオートが配下の諸力に命じて造物した人の形は、外形的には神の影像と同一だが、言うまでもなく偽物である。最初の人はアダムと名づけられる。
§48~53において、人(ひと)がいかにして造られたかが詳述される。
§49~51は多数の天使が人の身体の各部位、知覚、心象、衝動等を造る心魂の詳細に関する叙述である。
§49では頭から始まり、頭蓋骨、脳髄、顔の各部位(右目、左目、鼻・・・)、さらに下部でる咽頭、うなじ、脊椎・・・左肩・・・指・・・乳房・・・各内臓、血管、性器・・・脚の各部位を経て爪で終わる。
§50では肢体の中で働く悪霊が、§51では認識を支配する者が紹介される。認識は「知覚」「受容」「心象」「合致」「衝動」の5つに分類される。
〈物質〉に注目しなければならない。前掲書⑥補注・用語解説によると、ギリシア語の「ヒューレー」(hyle)の訳語。中期プラトン主義は、「ヒューレー」(hyle)を「神」「イデア」と並ぶ三原理の一つ、「質料」の意味で用いるが、グノーシス主義は肉、肉体、あるいは泥などとほぼ同義の否定的な意味合いで用いることが多いという。ヴァレンティノス派では、三段階のソフィアの中間の位置にあるアカモート(エンテュメーシスの別称)の陥った情念から派生する。また、ナグ・ハマディ文書写本Ⅱ「この世の起源について」(前掲書⑥未収録)では「垂れ幕」の陰から二次的に生成し、カオスの中に投げ捨てられて、やがてヤルダバオートの世界創造の素材となる。
前掲書⑥注(71)によると、「快楽」、「欲望」、「悲嘆」、「恐怖」はストア派の情念論において四大情念とされるもの。さらにそれぞれが下位情念に分類される点もストアの情念論に並行するという。
筆者の解釈は以下のとおりである。
365もの天使が動員されて造られた人、すなわちアダムの身体(ただし情念を除く)だがなぜか動かない。そこでヤルダバオートを生み出した母親すなわちソフィアは万物の母父すなわち至高神に助けを願い、至高神は5つの輝く者を第一のアルコーンすなわちヤルダバオートの天使たちのもとに送り込んだ。5つの光り輝く者はヤルダバオートに向けて「あなたの息をアダムの顔に吹き込みなさい」と助言した。それはヤルダバオートの母親ソフィアの力を抜き、それをアダムに吹き込むためであった。ヤルダバオートがそうすると、アダムすなわち心魂的身体、すなわち至高神の影像に倣って造られたものの中にその息が入り込み、動くようになった。
なおここで強調されているのが、ヤルダバオートが造った人(ひと)は不完全な偽物で動きもしないということ。この記述が意味するところは、前掲書⑥注(76)によると、旧約聖書創世記2-7《主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった》を揶揄したものだという。なるほど、〈息〉を技巧的に象徴化している点で納得できる。旧約の造物神ヤハウェは、グノーシス主義の無知傲慢なヤルダバオートと同定され貶められる。
「ヨハネのアポクリュフォン」(3)(4)の叙述全般はグノーシス主義を理解するうえで重要な部分だと思われる。人(ひと)はグノーシス主義においては下層に位するヤルダバオートという異形で愚かで傲慢な造物神によって、至高神の影像に基づいて造られる。そのヤルダバオートは、プレーローマの調和を乱したソフィアを母として誕生した者である。ソフィアとは何者なのか、なぜ、プレーローマの調和を乱し、それに欠損を与えたのかーーについては何も語られない。説明できない人(ひと)の誕生は、人(ひと)が生まれるべくして生まれたわけではないことを強く暗示する。
また、人(ひと)の造物の過程をふりかえると、〈肉体〉からではなく〈心魂〉から始まる。物質である肉体があっても、人(ひと)は人(ひと)として機能しない。手足も動かなければ、感覚もない、脳があっても考えられないし内臓も動かない。人(ひと)を人(ひと)たらしめるのは、心魂ゆえであり、心魂はヤルダバオートという不完全な中間界を支配する者の配下にある天使たちによって造物された。人(ひと)はそれゆえ、邪悪をさ本来的に埋め込まれた者なのだ。一方、その上位にあるのが〈霊〉である。霊は後年、発展的に形成されたカルト宗教に強い影響を与えている。霊の力によって、人(ひと)はプレーローマに回帰することができることが示唆される。〔後述〕
さて、そこから誕生した初めての人(ひと)すなわちアダムだが、彼は動くことができない。それを救ったのが、万物の母父すなわち至高神によって遣わされた者によるヤルダバオートへの助言であった。その助言とは、ヤルダバオートに注入されている母ソフィアの力、すなわち至高神の威力をヤルダバオート自身が抜き取り、それを息にしてアダムに吹き込みなさい、というものであった。ヤルダバオートがそうするとアダムが復活し、アダムを造ったヤルダバオートより光り輝くことになった。それを見た彼の支配下にある者たちは、アダムを捕らえ物質界の底へ投げ込んでしまう。前述のとおり、ヤルダバオート=造物神=ヤハウェであり、グノーシス主義では造物神は貶められた神的存在なのである。
物質界の底に投げ込まれた最初の人(ひと)すなわちアダムを憐れんだ母父すなわち至高神は、ヤルダバオートの勢力の企てに逆らってプレーローマから地上のアダムに啓示(いわゆる「原啓示」)をもたらす女性的啓示者である光のエピノイア(ゾーエーの呼ばれる)を送り込んで、アダム及び全被造物を救う。エピノイアはアダムをプレーローマへと向かうよう導く。。ゾーエーはギリシア語で「生命」の意。『新約聖書 ヨハネの第一の手紙』にある「永遠の生命」というときと同じ単語である。
また、種子(人の子孫)に、向かうべき道についても教える。それは帰昇の道であり、アダムがやって来た道のことでもある〔前述〕。
そして、光のエピノイアはアダムの中に隠れている。それはアルコーンたちが気付かずむしろエピノイアがあの母親(ソフィア)によってもたらされたプレーローマの欠乏(不調和)を立て直すためでもある。原啓示によって人類の進むべき道程が確定されたかに思えたのだが・・・(続く)