地球儀を自転車にのせて 第一回「オレンジ」
木村太郎
第一回 「オレンジ」
このあいだ、マイアミパーティのさくらい君と神宮辺りを散歩した。
病的に真っ白な本屋の地下で、彼が読みたがったサリンジャーと、俺が好きなジョイスの短編集を買ってあげた。彼は川上未映子と森絵都をくれた。蛍の光が流れるレジで、今日もいちにち暇だった学生風の店員は、存外愉しそうに4冊分のカバーを付けてくれた。1冊は端が折れていた。
さくらいは、ありがたいことに昔から東京パピーズを大好きでいてくれて、最近は「オレンジ」が特に好きらしい。春に弾き語りが流行ったときにはカバーもしてくれた。らしい。
「ともだちのうただよね」と彼は言う。きっとそうだと思った。ある人は失恋、ある人は失った家族だと言った。どれもそのとおりだと思う。感じ方はひとそれぞれ、なんて、安っぽい話はいらないのです。
この曲を作った時の気分は覚えている。二年くらい前だと思う。俺は、どうにもぜんぶが悲しかった。25にもなると一通り失うものは失い、残るものが残った。
当たり前が悲しかった。卑しい自分が悲しかった。当たり前の街で、当たり前に誰もが悲しそうな顔をしていることにやっと気づいた。そういうときだった。
ぜんぶ丸ごと、なんとかできないか。悲しみの一つ一つと向き合うことには疲れていた。きっとみんなそうだろうし。だから、ぜんぶ丸ごとじゃなきゃ、だめだ。
火のついたような夕景に半べそをかきながら、ふと思いついた。そうだ、この馬鹿でかい街を、丸ごと棺桶にしてしまおう。「虚空に愛を 街に花束を敷き詰めて」夕空の火の中で、丸ごとぜんぶ弔ってしまえたら。そんな空想をした。
そして数分で書き終えた曲の仮題は「フューネラル」。葬礼、それじゃちょっと物騒なので、後に「オレンジ」と改題することになる。
テーマを決めて、それについて書く、なんてのはきっと馬鹿げた行為で、ときに表現のだいじな力を骨抜きにしてしまう。もっと、ただ書かされるままに書けばいいはずだ。少なくとも僕らは音楽家だから、その特別な数分を、やっぱり大事にしなきゃいけない。
たとえば失恋が苦しいときに無心で書いたものは、それがハワイ旅行の曲でも、プロ野球の曲でも、ちゃんと失恋のうたになるんだろう。あのとき俺は色んなことが悲しくて、ぜんぶ丸ごと、えいっと書いたから、色々に寄り添える曲になってくれたんじゃないかなあと思う。うれしい。
親バカでしょうか。でもね、自分の曲はやっぱり、出来のいい子もわるい子も、かわいいものです。あなたも親になればわかるわよ。
だけど、産んだのは自分でも、一度手を離れてしまえば、作品は勝手に生きていく。いつまでも自分の所有物ではいてくれない。現に「オレンジ」は僕の手を離れ、監督の谷中さんのもとで、海辺に居場所を見つけた。完成したビデオをみて、なるほど、と思った。
渚は生命のうまれた場所だ。生と死、存在と不在の境界線は、きっちり引かれてなどいなくて、満ち干きする波打ち際のように曖昧にたゆたうものだと思う。人間のオレンジがめくれるのは、きっとそういう場所、そういう瞬間だ。
たまに、めくれたあっち側から声が聞こえたら、「そっちはどうだい」と話しかけてあげてください。ちゃんと繋がってるからね、と。
そして涙があふれても、心をぎゅっと確かめて、あっち側に飛び込んでしまいたくなる気持ちを堪えて、ちゃんと生きていけば、大人になってまた会える。たまには。ね。
まあ俺もいつもそんな強くあれるでもなし、今年はとくに困ったもんなのだけど、テレビ電話とテレワークのテレ時代に、テレパシーとテレポーテーションがだいじだよって、誰かが言ってた。そういうことをやっていこうと思います。こつこつと、だけど、丸ごとぜんぶ、です。