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【FUCK②③】生活支援員が観た映画「月」評~後編~

※【前編】はこちら
※クソ長くなります

FUCK①振り返りと補足~ほんとうの支援の現実を教えてやるよ~

物語は新人支援員・堂島洋子(宮沢りえ)の視点で進む。かつて有名小説家だった洋子には3歳で亡くなった息子がおり、息子にも障害があったことがほのめかされる。夫(オダギリジョー)は売れないアニメーション作家で、ふたりとも息子の死を克服できないでいる。洋子は森の奥にある障害者施設で働きはじめるが、そこで障害者支援の「現実」を知りショックを受ける。特に「きーちゃん」と呼ばれる寝たきりの入所者は意思疎通が困難で、洋子は「人間とは」という問に苦しむことになる。そこで出会った男性職員の「さとくん」(磯村勇斗)は、最初は入所者に親身に接していたが、同僚のハラスメントや虐待行為、上司の無理解から追い詰められ、やがて優生思想を口にするようになる。そんななか、洋子は妊娠が発覚。高齢出産に伴うリスク回避のため出生前診断を受けるか夫婦で悩む。そしてその結論を回転寿司屋で話し合おうとしたそのとき、店内のTVで「さとくん」が事件を起こしたことを知る。

映画「月」あらすじ


こんばんは。東京ニトロです。知的障害者の自立に向けた支援を行う生活支援員をしています。いま仕事から帰ってきて、きのう書いたあの記事を再読し、また怒りが湧いてきている(ここで敬語をやめる)。幸い、うちの職場であの映画を観たのは施設長と自分だけで、施設長は「支援員として得るものはなにもない」と評していた。そりゃそうだ。何度もいうが、映画「月」は問題提起の形をとったドチャクソ差別映画だからな。

この批判に、おれは正直めちゃくちゃ救われた。ほんとうにありがとうございます。まさに「詐術」みたいな映画で、この映画はまず「障害者の実態」(汚い・気持ち悪い・コミュニケーションができない)を描いて、つぎに「障害者を殺傷した容疑者の主張(優生思想)をおまえは否定できないだろ?」「だってお前も障害者は人間じゃないと思ってるもんな?」という論を張るんだけど、そもそも、その「実態」自体が間違った情報・極度に一般化されたレアケースを基にしていて、かつそれをホラー映画の演出で表現しているため、事情を知らない観客はこの詐術によって騙される。この極度に一般化されたレアケースというのは、要するに、こんなことがあったらその施設には警察の捜査が入って、マスコミ報道され、職員は逮捕起訴され、運営法人が消失するレベルの話であって、こんなのが一般的でたまるかという話なのだ。そして、この論の出発点にあたる「障害者は実際汚いし意思疎通できないじゃないか」という前提そのものがクソ差別なんだよな。ざけんなよ。

ほんとうの障害者支援の実態を今から教える。まず職員は出勤したら生活棟に向かう。この生活棟は男女完全に別れていて、食事も男女別に行っている。特に夜間帯は、職員が異性の居室はおろか生活棟自体に勝手に入るなんてことはありえない。映画だと、宮沢りえが男性棟にずかずか入っていたけどな。おれの職場には男性利用者が二十数名いるんだけど、ほとんど全員が、言葉を話すことはできない。でも話すことはできなくても、こちらの言うことはほとんど理解されている。だいたい、意思疎通の方法は話すことだけじゃないのだ。ある利用者はイラストの描かれたカードを使って、これからの予定を把握している。何人かの利用者は自力でトイレに行くことができないため、時間を決めて声掛けをしたり、付き添ったりしてトイレ支援を行う。トイレ以外での失禁はほとんど起きない。うちの施設ではできるかけ紙パンツの仕様を減らせるよう、チームでトイレ支援を行っているほか、ご自身でトイレに足が向くような取り組みを継続している。

そもそもが、映画のなかに出てくる施設のレベルは極めて低い。他者に暴力を振る利用者を長年居室に監禁しているような施設だ。それを、「でもこれを非難するのは実態を知らないアホですよ」と映画は言うんだけど、アホか。スキャッタープロットぐらい取れ。利用者の問題行動には時間的・環境的な特徴がある。たいていの場合、施設での規則正しい生活の継続や、職員・他利用者との関係性の構築(要は慣れ)によって問題行動自体は減少する。条件が分かれば、相性の悪い利用者との距離を保てるような支援(食事席の変更など)や、事前に予定がわかるような取り組み、問題行動が起きやすい時間帯に自立課題を提供するなどの対策を取ることができる。

事件を起こす「さとくん」自体も低レベルな支援をしている。さとくんは映画冒頭で、ハーモニカを吹きながら花咲かじいさんの紙芝居を利用者に披露しているが、映画はこれを、さとくんが「良き職員」だったことの象徴のように扱う。もし同じことがおれの職場であったなら、ほかの職員からどういう反応があるだろうか。

「どの支援目標に照らしてやっているのか?」「紙芝居という方法は、利用者を子供扱いしていないか」「どうして自分で作ったのか?色は他の利用者に塗ってもらうなどの取り組みは考えなかったのか?」「朗読できる利用者を探さないのか」「なぜ自分で朗読してしまうのか。利用者が紙芝居を発表するような機会を設けようとは思わないのか」

おそらく、さとくんがあの紙芝居を他の職員に見せた瞬間にそういう反応が返ってくるだろう。ちなみに今、うちの職場で問題になっているのは衣類の柄についてだ。あるアニメの絵柄が好きで、ご家族もその着用を認めている利用者がいる。でもそれを「本人が好きだから」という理由で着用したままにすることは、とくに公共の場においてふさわしいのか?本人が落ち着くことを理由にTPOと異なる衣類を提供すること、そして「TPOに則していて、かつ本人が好む衣類を用意する取り組みを怠ること」は不作為による虐待に肉薄していないか?衣類に基準を設けるか?基準を設けるとディズニーなど一般的に(大人の着用が)容認されている衣類にまで対象が拡大しないか?そもそもTPOを理由に、アニメのようなサブカルチャーにふれる機会を奪うことは障害を理由にした差別ではないのか?

やばい、前回の補足だけでもう2000字も書いている。要するに、ほとんどのまともな施設においては、職員は、映画のさとくんや宮沢りえみたいに「こいつら人間なんですかね」みたいな中学生レベルのクソ愚問をしている暇なんかなくて、なにをしたら利用者の自立やQOL改善・社会性の向上につながるのかだけを考えているんだよな。だから「きーちゃん」みたいな寝たきり胃ろうの重度障害者がいたとしても、映画みたいに暗い部屋に置き去りなんてことは絶対にしなくて、毎朝毎晩のカーテンの開けしめや照明の点灯は普通に行われるだろう。

というわけで、この映画がさんざん繰り返す「障害者の現実」なるものが存在しないことが第一のFUCKということになる。(あと、この映画のレビューで「福祉の現場の事実を言ってくれてありがとう」と言っている福祉関係者は自分の無能さを恥じて全員辞職しろ。お前のスキル、マジでヤバいから)

FUCK②賛同している観客層がクソすぎる

ここまで、映画の事実誤認・差別的な前提条件を長々書いてきたわけだが、一方でこう思う方もきっといるはずだ。
「でもさ、それは制作陣が無知だっただけで、差別したいと思ったり、差別を煽ろうとしているわけじゃないんじゃないの?」
「映画の動機やメッセージは、社会に反差別を訴えるものなんじゃないの?」

じゃあ、この映画にどういう人々が賛同しているか見ていこうな。

終了です。

西村博之:元2ちゃんねる管理人
『人の命は平等』と嘯く人も、自分の手は汚さず、誰かに負担を押し付ける社会。そして、見て見ぬふりをしてるのは貴方も一緒ですよね、、と、観客まで立場を問われる映画。

フィフィ:タレント
私達は障害者の気持ちに寄り添っているようで、見たくないものは見ないし、聞こえない声には耳を傾けない。綺麗事ばかりで嘘つき、この世の中こそが普通じゃない……そう何度も問われて、本心が抉(えぐ)られていく。

https://filmaga.filmarks.com/articles/276609/

すごいですね!「見てみぬふり」「綺麗事」「あなたも同じ」…これって劇中の「さとくん」が言っていた言葉そのままなんですよ。でも、もし、この作品が、ほんとうに反差別を訴えるもので、「さとくん」の優生思想を否定して、相模原の事件の再発を避けたいという思いを持っているなら、「あなたも同じ」のあとに、まだまだ言葉が続くはずなんだよな。でも、「あなたも同じ」で終わる。だから、観客のなかに残るはずのなにか…それはつまり「命」であり「人間」であり、そして、そして「さとくん」の主張を否定する唯一の言葉…つまり、「人権」が否定されたままで映画は終わっている。

見てみろよ!こいつらのコメントには「人権」なんて言葉、ひとっことも出てこないんだよなあ!!!

そもそも人権って言葉が大嫌いな連中にコメントされて喜んでいることがマジで終わっているんだが、もっと言うと、こういう連中に絶賛されるのって、要するに観客が「論破」されているからなんだよな。ひろゆきもフィフィも、(人権とか公平とか平等とかの)綺麗事を並べてるやつらが、この映画によって論破されるから、この映画を絶賛してるだけなんだよな。で、この映画はどういうふうに観客を論破したかって言うと、何度も言っている通り、障害者を本来的に汚くて有害なものとして描写し、実態とはかけ離れた支援を一般化することで、「ほら、おまえも障害者を汚いと思っただろう!誰も優生思想に逆らえない!」ってやってるわけ。

でも、この映画や、ひろゆきやフィフィが「論破」したがっている綺麗事のおかげで、社会そのものは確実に向上してきたんだよな。例えば、路線バスが低床化されてニーサスがついて、スロープで車椅子ごと乗れるようになったのも、そもそもが「青い芝の会」のゲリラ的な運動があったのは有名な話で、「障害を理由に(介助者がいなければ)移動が制限されるのはおかしい」という彼らの主張は、当時のバスの設備を見ればまるで綺麗事だったんじゃないのか。だってそんなこと、実情に合わない。でも彼らはその綺麗事から始まり、川崎バス闘争を起こし、暴力的な手法の運動を行った。その結果の延長線に国交省のノンステップバス標準化やバリアフリー法があるわけなんだけれど、ひろゆき周辺の言説を見ると、今でも散発的にある身体障害者たちの交通機関への抗議を「わがまま」だとバッシングしながら、同じ口で平然と「日本のバリアフリーはすごい」みたいな話をしたりする。(もっと言うと、障害者総合支援法に至る法改正自体が、国連の「障害者権利条約」、そしてそれに至る世界の障害当事者たちの「われわれのことを我々抜きで勝手に決めるな!」という綺麗事からスタートしている)

だから、こういうひろゆき的な人間に絶賛される・そしてその絶賛コメントを見て映画に来る観客層ってのは、要するに「左翼的な"正しさ"が嫌いで」「でも現実に正面から対峙する勇気はなく」「それでも誰かに勝つことで自分を保とうとする」「そのためなら他人の人権を嘘で踏み台にすることも厭わない」ような論破大好きお子様人間ってことで、そういう連中に向けて作られた映画なら、差別についての悪意があって当然なんだよなあって思います。

だって、優生思想に対抗する「人権」という言葉を、自ら「論破」することで放棄しているんだから。

FUCK③ 人間の「営み」「生活」を全無視しているクソバカ映画

いよいよ最後のFUCKとなった。ここまでもう4600字書いているが悪口が止まんねえ。もう結論から言うと、この映画は人間の生活や営みってものに全然価値を置いていないのでクソです。

例を挙げると、施設の描写では、宮沢りえが利用者の生活を支援する描写はほとんどない。というか利用者の一日の生活がわかるような描写は全然ない。なんか、おかゆを食事介助するシーンはエクスキューズ的にあったけど(あれもなんであの利用者に食事を全介助しているのかほんとうに意味がわかんなかったが)、そのかわり、思い詰めた顔の宮沢りえや「さとくん」が「人間とは~~」みたいにぶつぶつ言って映画は終わる。もっと言うと宮沢りえ・オダギリジョー夫妻の生活についての描写もほとんどない。冒頭で、「家族ゲーム」みたいに並んで飯食っているシーンや、なんかオダジョーがスーパーのカートで爆走しているシーンはあった(もしかしてジャッカスのオマージュだったのか?)が、基本的には宮沢りえかオダギリジョーが苦しむための設定にすぎなかった。

なんでこの映画が、登場人物たちの生活描写、つまり登場人物たちの嗜好がわかって、リズムがわかって、より観客が共感できるような描写を排しているか当ててやろうか。そんなことしたら障害者が人間になってしまうもんな!?もしこの映画が、障害者をよりリアルに描こうとして、ひとりひとりの障害や、その生活にきちんとフォーカスを当てたとしたら、その障害者が何によって苦しめられているかとか、それでもなにに喜びを見出しているのかとか、全部明らかになってしまうもんな!?例えば、好きな食べ物がわかるだけでその障害者はオレたちと同じ人間になってしまうもんな!?!?そんなの許されねえよな!?!?!?!だって障害者はおれたちと違う「気持ち悪い存在」でいてくれないと、そもそも観客を論破できなくなっちまうもんな!?!?!?!?

そのかわり、この映画は人間の「本質」を、「死刑囚の首の骨が折れる音」や「死刑囚が処刑時に流す汚物」のような浅~~~いモンに求めようとする。かつてインターネットでグロ画像を見て喜んでいた中学生そのままの世界観が当然のようにそこにある。だから障害者を、一生懸命汚いもの(=人間の本質)だと描写する。それに対抗しようとする宮沢りえは、全盲寝たきりの利用者「きーちゃん」を題材に小説を書こうとするが、そこには「きーちゃん」が、なにか健常者には気が付かない神秘的なものを持っているような、神格化された描写がされる。結局これも、宮沢りえ(というか制作陣)が「生活」「営み」そのものに価値を見出していないので、障害者に神秘性を付与しないとその存在を肯定できないという結果の現れでしかない。

これは余談なんだけど、ワナビの同僚・陽子が酔った勢いで宮沢りえのデビュー作をディスるシーンがあって、そこで陽子は、自分が311の被災地でアダルトグッズを見つけた話をして、「しょせん人間の本質は汚いんですよ!それを隠すなんて偽善者だ!」と宮沢りえにダル絡みする。ここでおれは同じワナビとして言っておく。でも陽子おまえ、そのアダルトグッズが擬人化され、震災で死んだ持ち主の「生活」を思い出して、それによって津波で死んだ彼女の人生の価値を再現するような小説を書いたら、おまえ、直木賞だろ!?!?!?!?だからおまえはワナビなんだ!!!!!だって浅えからな!!!!!!!!!

だから宮沢りえが、かつて障害のある子を3歳で失ったことについて、延々と苦しめられているのも必然である。そもそもこの制作陣には、生活や営みに価値を置くことで当然のように帰結するはずの答え / かつ、ふたりを救う唯一の考え方:「失った子供との、あの3年間はかけがえがないものだった」っていう発想が最初から生まれようがない。自分たちの生活そのものに価値を見出して、だから自分自身や他人の存在そのものを大切にすること、それ自体を排している。だから宮沢りえも、オダギリジョーも、同僚のワナビも、そして「さとくん」自身も、生活そのものに目を向けられないから、その代わりに社会に認められる=何者かになることばかりに価値を見出して、何者にもなれない自分たちに苦しみ、あげく「障害者は人間なのか」みたいなクソ愚問に翻弄され、最後に破滅する。宮沢りえたちは一時的に、夫オダギリジョーのよくわからんアニメが賞を取ったこと=社会に認められたことで救われるが、これは障害者に対する制作陣のクソ愚問のクソ根拠として機能している(おまえらだって社会に認められて生かされてるじゃねーか=だったら社会に認められない障害者は死ぬべきだ)。だけどこれは詐欺映画なので、「生活の価値」を意図的に隠蔽しているからそうなっているにすぎない。

なんで「障害者は人間なのか(社会の役に立っていないのに)」という問いがクソバカ愚問なのか教えてやる。そもそも人間は「生活」しているから人間たらしめられるんだよ。

映画に出てくる全盲の重度障害者「きーちゃん」は暗い部屋に放置されているが、もし毎朝毎晩、あの部屋のカーテンを開け締めする職員が現れたら、そのとき彼女は人間になる。冒頭で、デイルームで笑う利用者の、その笑顔の理由が、午後に窓から漏れる陽の光にあったなら、彼は人間になる。好きな食べ物が分かれば人間になる。画用紙に無造作に色を塗る利用者の、その理由が色ではなく手触りにあったなら、彼女もまた人間になる。その利用者の暴力の原因が周囲の喧騒にあったなら彼は人間になる。繰り返される意味不明な独り言に、母親を呼ぶかつての習慣の名残を見い出せば彼女も人間になる。

かつて小児麻痺の車椅子ユーザーがバスを占拠したことは、どこでも自分の好きな場所に行くことで、彼ら彼女らが人間になるためだった。それは法的には移動の自由と呼ばれ、それは憲法で、法の下の平等によって障害者にも保証されていなければおかしかった。

なぜなら、それは人権だったから。

人権が生活を守り、生活が人間を人間にする。だからおれたち生活支援員は利用者の「生活」を「支援」している。この、あって当たり前の考え方が欠落している「さとくん」が破滅するのは必然だった。でも、映画は詐術によってこの答えを巧妙に隠蔽する。

人間の本質は、死刑囚が死際に流す汚物などではなく、暖かく清潔な部屋にこそあるんだよな。

なんで優生学が否定されるのか?それは優生学が科学的に間違っているからでも、「自分が年取って寝たきりなったら殺されるから」でもない。それは優生学を恐れる理由にはなっても、その存在そのものを否定する理由にはならない。優生学が存在できないのは、この「生活によって人間は人間たらしめられる」という前提条件によって、その存在そのものが根本から否定されるからだ。そこには遺伝の優劣なんてまがいものの価値が介在する隙間はない。人間を人たらしめる「生活」は、遺伝ではなく社会そのものによって成り立っているからだ。

この映画には「生活」は存在しない。「社会」は生活を良くするものではなく、なんとなく自分たちをジャッジするものとしてのみぼんやりと存在する。翻って、この映画を絶賛するひろゆきの考え方はこうだ。

ひろゆきは「人間は、じぶんの手の届く範囲のことしかできないから他人を助けることはできない」という。そして優生思想を否定するふりを見せながら、結局、積極的にはそれを否定できない。

でも実際には、「青い芝の会」の話のように、これまで社会を変えてきたのは、彼らの大嫌いな「人権」「生活」そして「団結」だった。

もし、もっと多くの人々が、この映画で覆い隠されている「生活の価値」に気づいたらどうなるだろうか。例えば、道路の白線が消えかけている状況で、何カ国出展してくれるのかわからない万博に税金をつぎ込む府政や、子ども食堂がフル稼働するなかで、よくわからないベンチャーのロケットに国の税金が使われる状況の、その異常さに気づいてしまったらどうなるのだろうか。かつて三里塚で、そしていま辺野古で失われゆくものに気づいたらどうなるだろうか。

自分たち家族の「生活」を破壊した宗教団体に、元首相が支援されていたと知った男が最後に何をしたのか、もう誰も覚えていないのだろうか。

生活を破壊する国家、人権を蹂躙する政府と、社会なき個人の間にあるのは結局、テロだけだと思う。

そして、それはきっと、地獄のような世界観だ。

さいごに ~地獄の住民の皆さんへ~

もう7900字になってしまったので、このへんでおわりする。

最後に、この最低クソバカ差別映画を見て、なにかすご~~~く深いものを考えた気になったクソバカ観客たちに、ハリウッドが成し遂げたことを教えてやろう。ハリウッドは1988年、つまり35年前にもう「障害者は人間なのか」という問にとっくに答えを出している。「レインマン」では計算の才能があるギフテッドの兄を描いたが、一方でその弟トム・クルーズはその計算能力ではなく、障害者の兄が繰り返す「メイプル・シロップは右に置く」という言葉にこそ、その愛を見出していた。2002年・今から21年前の「アイ・アム・サム」では、親子の愛が障害の有無に関わらずその人間性を担保することを語る。「500ページの夢の束」「ピーナツバター・ファルコン」では知的障害者が自分の夢を実現することの意味を堂々と語り、そして、「チョコレート・ドーナツ」では、過去の自分達がしてきたことを断罪する。

あなたたちはこうしたものをポリコレだと笑い、より露悪的で差別的なものを好む一方で、つまり、死や排泄物が人間の本質だと冷笑する傍らでいま、あなたの価値を決める「生活」そのものが政治によってゴリゴリ削られていくのを、その恐怖から直視できず、だからひろゆきたちに言われるがまま(これまで社会を守ってきた)団結や運動を左翼的でダサいものと笑い、自分と世界をつなぐ社会は幻想だったと自分に言い聞かせ、だから陰謀論やヘイトのようなクソみたいなナラティブにすぐに飛びつくし、すべてをミームで消費する間にあなた自身が消費されていくことに気が付かないままで、ああもうこのままではきっとすぐに破滅するでしょうが、でも安心して、あなたたちは私達と同じく、人権や民主社会の偽善性や「人間の本質」に気づいている"論破する側"の人間ですよ、でも"わたしたち"に貢献できなければ、この障害者たちと同じく、あなたは殺されますが当然ですよね。この映画は繰り返し繰り返し、観客をそう洗脳する。

こんな映画が無批判で放置されていること、そして、この映画にエキストラとして障害当事者を(おそらくなんのケアもないまま)尊厳を傷つける形で出演させていることについて厳重に抗議することで、この映画評を締めたいと思います。

映画「月」は、クソ差別冷笑詐欺映画です。

<おわり>

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