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社会は窓の向こう側で、世の中を外側から見てるみたい

少し前から感じていた「世の中を外側から見るような感覚」が日に日に強くなっている気がする。
あなたがどこか旅行へ行った時のことを思い出してほしい。初めての土地に遊びに来て、15:00くらいにホテルにチェックインして部屋に入り、荷物を下ろして、大きな窓から駅前や大通りをいそいそと歩いてゆく人々を見た時の、あの感覚。

わたしが社会というものを考える時、それと似たような感覚がそこにはある。

でもそれは居心地の悪いものじゃない。むしろ、快適。
わたしはそうして生きるものだと身体がわかっているような安心感。

わたしからはみんなが見えているけど、あちらからはわたしという存在に気づきすらしないという構図。
(ここで誤解をうみそうだから補足すると、その行為自体に人を高いところから見下すだとかいう気持ちは一切ない。現に私はその世界と私とを隔てる、まさしく窓ガラスのようなものをいつも感じているし、それゆえに繋がりが感じられないから優越感とかはない。)

わたしが駅とかカフェとかショッピングモールを利用する時は、社会に一時的に入り込んで、用が済んだら出ていく(=家に帰る)みたいな感覚がある。

そういえば学校のロッカーにあまり私物を置かなかったなぁと思い出す。
ここはあなたのスペース、と与えられているのだから、使わない教科書や、なんとなく拾ってきた小石とかを置けばよかったのに、置かなかった。
ランドセルとか学校側からロッカーに置くよう指示があったものしか、置けなかった。

大人になった今でも、連泊するホテルの洗面所や、大学の共有スペースの机に私物とかを置いておけない。

わたしの持ち物―わたしの遺伝子が組み込まれたような感じがする―を、色々な社会の場所に置いてくることは、なんだか自分の身体を分解して世界中に少しずつ散らしてしまったような、でも、自分の身体だから常に気を配っていなくちゃいけないような気持ちになって落ち着かない。

社会は一時的にしかとどまっていない場所で、用を終えたらまた別の場所へ帰るのだから。

そんな感じで来てしまったので、今、おしごとさがし(過去note「就活の波に乗れない話」も見てね)をしている大学生だけれど、社会に参入して働くということが、わからない。
わたしにとって一時的な滞在場所に肩書きを持つということがよくわからない。

でも、働いたら、わかるようになるのかなぁ。
もしかして、そんなことわからなくなるくらい、働くのかしら。

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