何かを始めたり続ける時の落とし穴の話
ハロー、こちら東京メタルシティ。秋に入ったと見せかけてどっこいまだまだ暑い9月のお昼です。
新幹線で大阪に向かっているところ。
そちらの天気はどうかな?秋晴れだと良いですね。アイスコーヒーでも飲みながら少しお話ししましょう。
今日は、何かを始めたり、続けたときに我々が陥りやすい問題の話しをしようかなと思います。きっとヒントになります。
例えば、ギターを始めたとしましょう。何が起きるかっていうと、それまで全体で聴いていた音楽のギターだけが聴こえてくるようになります。
パートごと聴くような感覚になることが多いですよね。ベースはじめたらベースだけ聴くようになるだろうしドラムも鍵盤もそうなるはず。
そのうち、『うまいってなんだ?』なんてことを考え始めます。大事なことだとも思います。
自分の好きな物事に、『きっと好きな理由があるはずだ、好きになる価値があるはずだ』と思うわけですね。
そしてギターとかだと好きなギタリストの研究とかしはじめてね。自分の好きなものには正当な価値や理由があると思い始めますね。厄介なのがほぼ無意識的に、なんです。
そしてそのうち、テレビや飲食店で流れる音楽に対して、好きだったら良いんですけど、自分の好きじゃないパターンのものが出てきた時に、今度は『好きじゃない理由』を探したりしますね。
それは自分が好きな音楽に対して、正当だと思ってるから自然なことかもしれません。
やれ音程が動きすぎ、とか、転調しすぎ、とかギターだけ聴いてギターは上手いけど、みたいなこと思ったり言っちゃう訳です。
みんな大なり小なりそうなっちゃう。
なんでかっていうと、自分が好きで聴いてたり取り組んでることに対して、価値を感じたいわけです。なので、出来るだけ細かく『要素』にわけて採点して、点数が高いとそれは価値がある、と思いたいんですよね。
でも、それって、最初にシンプルに好きだった頃の自分の感情や情熱とずいぶん座標ズレてるんじゃない?と思うんですよね。
丸っと頭や心にいれて、どーんと響いてたころと違って、全体を食べる前に細かく切り分けて品定めして、適合すると思ったら食べて美味いか不味いかの話をする、みたいな。
その美味い不味いみたいなことが自分だけの感覚なのに一般的なものと思い込んじゃうパターンもありますね。
音楽を聴く前に音色やリズムが自分の『価値』に適合するか、というような聴き方をしてしまう。
測ってからじゃないと取り入れない、というやり方をするし、要素から全体を推察しようとしてしまう。
しかしながら、全体を構成するものが要素ではあるわけだけど、要素を積み上げただけでは『全体』というものは作られない訳ですね。
本当に大事なのは全体なのに、要素を先にジャッジするようになってしまう。
Twitterとかで音楽とかギターに対する種々の議論や論争みたいなのの根っことかも全部そういう、要素に価値を持たせすぎという部分に繋がってるかなと思います。全体の話にならない。
難しいんだけどね。一回知ってしまうと戻れない部分あるし、物差し持ったら周りのものぜんぶ測ってみたくなるのは人間のシステムだと思うし。
だからこそ、要素を取り出して価値があるかないかを考えるのを意識的にやらないようにする時間とか丸っと食べて飲み込んでみる機会をちゃんと作っていくのが、健全かなと思うんです。
人生、特に先が短くなってくると自分がやってること、やってきたことに意味や価値があるの思いたいものだと思うし、自分でもそういう部分絶対にあるんだけど、要素だけに囚われちゃうと進まないといけない道を見失っちゃうし、まだまだ知らない美しい景色や美味しい食べ物(音楽もそこに含まれるよね)があるわけだし、自分だってもっと沢山のことが出来ると思うんですよね。
無意識的にやってることをどうコントロールするか、という話でもあるんだけど、自分の体験や感覚を鮮やかに保つためにもとても大事なことなんじゃないかなと思ってます。
雑談でした。
東京メタルシティより愛を込めて
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