受け入れられない老化現象
最近とみに老化を受け入れざるを得ないと感じ、かなり気分が落ち込んでいる。中でも聴力の衰えは泣きたくなるほどで、屋外を歩いていると反響音を聴きとれずに、電信柱はおろか、建物内の壁にまで正面からまともにぶつかる始末。
以前は、白杖を持たずに歩いても、停まっている車はお手の物、電信柱も、看板を支える金属の棒も、その辺に立っている人も、ほとんどのものを触れる前に認識することができた。酔って電車や居酒屋に白杖を忘れることはあっても、それでもけが一つせず、むしろ晴眼者気分でさっそうと街中を歩けることにちょっとした誇りさえ感じたものである。
先天的な視覚障がい者である私は、自分で言うのもなんだが、慣れた場所であれば、聴覚をフル活用して、自分一人でも実に見事に自由自在に動くことができた。新宿駅や池袋駅のような人通りの多いところでも、とまでは言わないが、多少の人通りのある通りや駅くらいなら、人にぶつかることはほとんどなかった。
しかしそれが…、である。
屋外で停まっているトラックや車や、建物の塀にぶつかることがあっただけでも1日ブルーなのに、最近では、慣れた屋内でも、閉まっている扉にまともにぶつかったり、戸棚までの距離を測り間違えて取ろうと思ったものに手が届かず、その手が空を泳いでしまったり…。
歩きたいように歩けない、動きたいように動けない現実を実感する日々。不自由極まりなく、生きていくうえでの大きな障害となってきている。
このような聴力の変化を初めて感じたのは、出産後間もないころであったように思う。
赤ん坊という授かりものの代わりに、生きていく上でもっとも大切なものの一つといっても過言ではない聴力が失われてしまったのか、はたまた赤ん坊に奪われてしまったのか…。
以前一時期点字の本での読書から離れたら、再び読もうとしたとき、1時間も読み続けることができなくなり、このまま点字での読書ができなくなってしまうのではないかと恐怖を覚えたことがある。ただ、これについては、その状況にめげずあきらめずに日々点字を読み続けていたら、その感覚はもとに戻ってきて、今では、20代の時と同じように点字を読み続けることができるまでにその感覚を取り戻すことができた。これには本当にほっとした。
人間はあるのに使わないでいると、その能力は衰えていくと聞いたことがある。使えば使うほど、細胞は目覚め、発達するのだそうである。友人によると、それは聴力も同じだというが、果たしてどうなのか。
何かのテレビ番組でだったろうか、耳鼻科医が、聴覚だけは衰えていく一方で、それを鍛えたりもとに戻したりする方法はないのだと話されていたのを聞いたことがある。
20代のころには1メートルで十分だった白杖の長さが年々長くなり、50代になった今では115センチになった。お気に入りの短いIDケーンを、たいして振ることもなく、持つだけで十分に歩けたのに、今では、長い杖をしっかり振って歩いている。
雨の日は傘に当たる雨音で、反響音どころか、車の音まで聞こえにくい。電気自動車が多くなってきている昨今、車の音が聞こえにくいのはそのエンジン音の小ささもあるとは思うが、信号のない横断歩道での横断は命がけに近くなってきた。
同行援護の制度をフル活用して安全に歩くという選択もあるとは思うが、私としてはまだまだ一人で自由気ままに歩き回りたい。
であれば、衰えを素直に受け入れ、改めて今一度、年齢に合わせた歩行訓練を受けるべきかと、真剣に悩んでいるところである。
文:美紀
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