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『お洒落だよね』の憂鬱

今回は、ひときわ曖昧でデリケート(だと考えている)「お洒落」という言葉について書いていこうと思う。

そもそもお洒落とはなんなのか?
よく「あの人お洒落だよね」という言葉を聞くが、これは必ずしもポジティブな意味ではないと考えている。

人が「お洒落だよね」と言う時には大きく分けて次の状況がある。

①本心でお洒落だと思っている場合
②皮肉を込めて言っている場合

文字で表すと「お洒落だよね」と「お洒落だよね(笑)」という感じだろうか。

①に関しては、一般的な認識で問題ない。
多少の「畏敬の念」的なニュアンスは含まれているものの、そこにネガティブな感情はない。

問題は②だ。
この場合、「お洒落」という言葉は「奇抜」あるいは「違和感がある」という意味を含んでいる。
つまり、ここでの「お洒落」は「ダサい」と紙一重なのだ。

僕はこれに関して引っかかる時がある。
それは「ダサい人(A)がお洒落な人(B)を理解できずに『お洒落だよね(笑)』と言う場合」である。

大概の場合、こういうときは「AがBをいじっている」という構図になることが多く、またお洒落な人は数が少ないので不利な立場に陥りやすい。

そして、お洒落な人はその"粋さ"ゆえに言い返すこともほとんどない。
僕がここで我慢できずに「これはこうこうこういう理由で本当にお洒落なんですよ」と言ってしまうことは簡単なのだが、これこそ無粋であり、Bの器の大きさに水を差しかねない。

そもそもBが不快な思いをしていないのなら僕が出る幕は1ミリもないのだが、本来センスで上回るBがAにマウントを取られているこの状況が気持ちの良いものではないのだ。

ここまで個人的な憤りを書いてきたが、正直のところ本質的な解決策は見つかっていない。

ただ一つ言えるのは、こんなことを考えている僕は決して「抜きん出たお洒落」になることはできないということだ。
そしてこれらのことを踏まえて、僕自身のお洒落に関する目標は「一般人が理解できるレベルの最高」になった。

ともすれば人は、自分の理解の範疇にないものは否定したり理解しようとしないが、これは罪深いことだと考えている。
何事もまずは肯定的に捉える寛容さと、そもそもこんなことを考えない器の大きさを手に入れたい。

"お洒落は我慢"とはよく言ったものだ。