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チェ・ゲバラの死体を見た日本人「おばぁ」は語る。

私はこの話はしないの。
嘘つきと言われるからね。
でも私は見たのよ。
チェ・ゲバラが死んでいるのを見たのよ。
嘘じゃないわ。

ある老婆は語る。

5月だというのに沖縄の昼間はすでに関東の夏のようだ。

肌を焼く日光と生臭い湿気で、くらっと来る。そんな日の夜のことだった。
私と南米妻は興味深い昔話を語る
この老婆が経営するスナックでミミガーをつまんでいた。

スナックで飛び出たボリビアの酒。

破れかけ、しかもタバコのヤニと
サラダ油で茶色く染まったポスターには
「うちなーんちゅ大会」という言葉が
キラりと光っている。

沖縄から外国に移民した日系人たちの大同窓会みたいなイベントだ。

だいぶ年季が入った店だな…とか
思いながら周りを見渡していると

シーミー帰りで小料理をあまり作ってないの。ごめんね」と言いながら
老婆はカウンターに座った。

ここは沖縄那覇市、
隠れた南米人たちのオアシスである。

沖縄:南米人の故郷

妻曰く、このコンクリートが朽ちた感じが
南米そのものとのこと

沖縄には南米料理屋が多い。

理由はかつて南米に渡った日系人の中で
沖縄出身者が非常に多いからだ。
そして日本の経済発展と共に、その一部は沖縄に再定住して今に至る。

この老婆もまた家族と一緒に第二次世界大戦が終わったタイミングでボリビアに移住した。その後農業支援にやってきていたJICAの日本人と現地で結婚。そして日本に帰ってきたのだという。

老婆の見た目はそのまま普通の沖縄人という雰囲気だが、たしかに口を開くと日本語に若干スペイン語のアクセントが混じる。分かる人には移住者だと分かるだろう。

旦那さんが亡くなってからは東京から沖縄に帰ってきて、ここ那覇でスナックをやっているのだが、本当の実家はすでにない。

沖縄にいる間近未来フォルムの
オスプレイはそこら中にいた。

今は普天間基地になっている。彼女は終戦直後のドタンバで、出ていけと追い出されてしまった住民の一人とのことだった。

「でも、立ち退きした住民には地主料として結構な借地代が入るんじゃないですか?」

どこかで聞きかじった沖縄ローカルネタを投げ込んでみると、老婆はニヤッとして

「あの頃はそんなものなかったよ。第一私のお父さんは小作人だったんだ。高台の上に引っ越すか?とアメリカ軍に言われて、それなら村のみんなでボリビアに行こうってなったんだよ」

なるほど、そういうわけか。

私達が店にやってきた日はちょうど、
うちなーんちゅ大会も終わった頃だし、
まさか南米人がやってくるとは思わなかったようで、老婆の舌は饒舌だった。

東京なんてブエノスアイレスより田舎だったわ

1962年のブエノスアイレス

どうやら彼女はボリビアに住んでいる頃は
親戚を頼ってアルゼンチンをよく旅行したらしい。地続きの南米において、海外旅行はそれほど特別なことではない。

ましてやどちらも同じスペイン語圏だ。

例えば60年前、彼女は当時世界で10本の指には入る金持ち国と言われたアルゼンチンの首都、ブエノスアイレスに行ったことがあるらしい。

どうやら、その後旦那さんになる人とのデートだったのだが、(もっともその頃旦那さんは30代、本人は10代で私は口をつぐんだ)彼女はボリビアから出てきた貧乏な農民の娘だったので、タンゴを見たり小洒落たレストランを探すなんてことは出来なかった。
そんなわけで、毎日公園のベンチに座って未来の旦那の仕事が一段落するのを待っていたらしい。

「ゴミは一つも落ちてないし、泥棒もいない。
みんなスーツを着てるのよ。ボリビアとは大違いだったわ。汚らしい先住民もいないしね」

南米妻は、ふんふんと興味深げにうなずいていた。
アルゼンチンが最後の豊かさを残していた
あの時代は中道右派の妻の郷愁を誘いやすいのだろう。

しかし、流石の妻も「汚らしい原住民」という言葉には、うっ!と眉をしかめた。公然と先住民が差別されていた50年前ならいざ知らず、今の南米でそんなストレートな差別発言は許されない。


南米最南端にいるマプーチェ族。
誇り高さで知られるが一部は人さらいをしていると噂も…

しかも一番原住民に顔が似てる東アジア人がそれをいうのは滑稽ではある。きっと彼女の南米の記憶は数十年前で止まっているのだろう。人間タイムカプセルだ。

ちなみに、その後旦那さんと結婚して東京に移り住んだ時、憧れの祖国日本の首都「東京」に行けると大変楽しみにしていたそうだが、結局ブエノスアイレスの方がよっぽどきれいだと思ったとか。

東京は埃っぽかったのよ。がっかりしたわ。

「埃っぽい東京」
「泥棒のいないブエノスアイレス」
どうにもパラレルワールドに
この人はいたんではないかと錯覚する。
しかしそれが50年前の常識だったのだろう。

こんな光景か…ブエノスアイレスの方がいいかもな

その後も彼女の昔話は続いた。
彼女はチェ・ゲバラの死体も見たというのだ。

チェ・ゲバラは喘息で死んだ?


確かにチェ・ゲバラはボリビアで革命闘争中にCIAの援助を受けた政府軍と戦闘になり、
最後は殺されたと聞いていた。

だが老婆曰く、それはボリビア政府の
でっちあげらしい。彼女は語気を荒げながら私達に語った。

ゲバラが好きなやつなんていなかった

彼女がまだ10代の乙女の頃、突如村に噂が流れてきた。なんと隣村に、あのゲリラの親玉のチェ・ゲバラが潜んでいて死んだらしいのだ。

暇をしていた彼女は数人の友人とゲバラの死体見物ピクニックを企画。
そして行ってみるとあばら屋根の掘っ立て小屋に死んでいるゲバラの死体があったというのだ。

「そもそもボリビア人はゲバラを好きじゃなかったんですか?」私が聞くと、またか、という雰囲気の老婆。

あんな革命家気取りのインテリ、誰が好きなんだい?
私たちの農作業を邪魔するし、そもそもあいつはアルゼンチン人じゃないか。
人様の国で正義ごっこする前にお前の国をどうにかしろよと思ってたね。

その後、政府がやってきて、
あっという間にその場は封鎖された。
そしてその村もゲバラで一儲けしようと最後の地を観光地化してしまったので今や誰もそんな話はしないが、真実は確かにこうなんだと言い張る老婆である。

なんとも信じがたい。私は妻と目配せしてしまったが、それでもロマンはある話だ。

いや、逆に社会主義者の英雄が寂しく喘息で死んだらロマンもへったくれもないか…

移民は人より努力しなきゃ、でも幸せになりすぎたら殺されるよ。


老婆の話には私の記憶に強く残る話がもう一つあった。日系移民の政府による誘拐事件だ。

これも、アルゼンチンの話だが独裁政権の頃
左翼青年達が片っ端から不当逮捕されて最後帰ってこなかったという話は有名だ。

中には飛行機からそのまま落とされた若者もいる。

だが、その中にはなんと同胞に日系移民もいたという。

これまた彼女の説だが、「あれは政府が金持ちになった日系移民から金を搾り取ろうとして誘拐したんだ」とのこと。

事実ド貧乏のままだった農民の日系人達はターゲットにされず、成功した金持ちの子弟がやられたと語っていた。

そして最後に一言、

「私達移民はね、人より努力しないとだめだ。
成功できない。
でも、人より幸せになってもだめなんだ。
嫉妬される。
そうすると元々住んでた白人にこうやって殺されてしまうのさ」

うーむ、つらいが移民の真理だ。

アメリカ大陸では多くの新移民が努力をして地位を築いて来たが、その度に旧移民に差別されてきた。

幸せになりすぎては行けない。
嫉妬を買っては行けない。
という言葉はなかなか他の移住ブログなどでは聞かない話だ。
さぞマイノリティとして苦労してきたのだろう。

非常に勉強になる訪問になったが、ぬるっとした感情がそこに残った。

成功を臨んで海を渡った移民たちが最後に持った感想は「成功しすぎたら殺される」

あんまりじゃないか?でもそれが新移民を搾取して旧移民が更に成功していくアメリカ大陸の宿命なのかもしれない。

移民たちの明るいハッピーエンドの先にあったバッドエンドを見た気持ちになってしまった。


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