ブラオケ的吹奏楽名曲名盤紹介~吹奏楽の散歩道〜 #5「全日本吹奏楽コンクール課題曲の歴史【前編】」
今年も吹奏楽コンクールの季節がやってきた。
しかし、吹奏楽コンクールというとその性質上、どうしても好き嫌いが分かれる。
きっとこれを読んでくださっている方もコンクールが好きな人、そうでない人はいるだろう。
私個人的な感覚は言うまでもないがコンクールは”好き”だ。
吹奏楽コンクールというものを通じて、色んな演奏で感動したし、色んな曲も知れたし、自分がこれだけ吹奏楽の魅力を知ることができたのはコンクールとNSB(※前回の記事をご参照あれ)があったからと言っても過言ではないだろう。
かと言って、今ここでコンクールがどれだけ素晴らしいものかと語るつもりもないし、そもそもコンクールとはみたいなことを語るつもりもない。これから語らんとする課題曲だって、本当に名曲かと言われたら何とも言えない。
あくまで、コンクール好きの一吹奏楽ファン(ヲタク、マニアと呼ぶ人もいるが。。)の一感覚、一意見として、これはいい曲だよねというのをご紹介するまでである。
全日本吹奏楽コンクールは、今年で70回目を迎える。
戦前、1940年に今に続く吹奏楽コンクールの第1回目が開催されるが、1942年を最後に途絶え、戦後、1956年に第4回大会として再度吹奏楽コンクールの歴史がスタートすることになる。
戦前も課題曲は存在したようだが、現代のコンクールとは形式も内容も全く異なるもので、現在のコンクールにつながるのは戦後の第4回から。
その戦後第4回から現在に至るまで、課題曲として採用された曲は全256曲。
面白いことにそれぞれの年代の推移によって、選ばれる課題曲の変遷や特徴を色々見てみると、実は当時の吹奏楽事情を反映するいわば鏡のようなものになっていたり、人気作曲家の出世作が課題曲だったりと、日本の吹奏楽の歴史の一端を課題曲で垣間見ることができることがわかった。
今回はこの60余年にわたる課題曲の歴史を2回にわたって紐解いていくことにする。
各時代の特徴や名曲、作曲家等々、様々な切り口で紹介していこう。
1. 戦後〜【吹奏楽といえばマーチ!】
この頃はまさに日本の吹奏楽黎明期。
課題曲の一覧を見ると、戦前から1964年までは全て「行進曲」という冠がついている。つまりマーチしかなかったわけだ。
今でこそ課題曲は全て全日本吹奏楽連盟から新曲として発表されるが、1970年代までは主に既存の曲が課題曲として採用されていたのだ。
中にはこんな曲も課題曲として採用されていた。
1956年(第4回):行進曲「エル・キャピタン」〜J.P.スーザ〜
1957年(第5回):行進曲「マンハッタン・ビーチ」〜J.P.スーザ〜
1958年(第6回):行進曲「ウェリントン将軍」〜ツェーレ(編曲:吹奏楽連盟)〜
1959年(第7回):祝典行進曲 〜團 伊玖磨〜
これらはもはや”課題曲”としてではなく、マーチの名曲として身近で今でも演奏される曲たち。
よく”課題曲の名曲”として色んなところで紹介されるが、これらの曲もまさに”名曲”ではないだろうか。
このような曲が”吹奏楽コンクールの課題曲”であったこと自体が驚きである。
第9回までは、上記の祝典行進曲以外は全て海外のマーチで、日本人が作曲した曲は(戦後)採用されていない。
そして、10回目にしてようやく日本人作曲家による課題曲がお目見えする。
1962年(第10回)中学 :行進曲「若人」〜片山正見〜
他部門:行進曲《鬨の声》〜須摩洋朔〜
第10回の節目だったからであろうか。まさに日本人作曲家による”課題曲第一号”と言える作品であるが、これも既存の曲からの採用である。
ここまででもお分かりのように、当時は吹奏楽といえば=マーチ(行進曲)だったのだ。
2. 1960年代〜【吹奏楽オリジナル曲の台頭】
戦後、吹奏楽といえばマーチ!行進曲!という風潮から、1960年代に入ると、吹奏楽のオリジナル曲が海外作品を中心に広がり始め、1964年、第4回から
長らくマーチしかなかった課題曲も第12回、ついに初めてマーチ以外のオリジナル曲が登場する。
1964年(第12回)中学 :序曲「廣野をゆく」〜石井 歓〜
他部門:バンドのための楽章《若人の歌》〜兼田 敏〜
兼田 敏と言えば、日本の吹奏楽オリジナル作品の草分け的な存在で、
「シンフォニックバンドのためのパッサカリア」「わらべうた」等の名曲を残し、課題曲もその後3回採用されている。
1967年(第15回)吹奏楽のための「ディヴェルティメント」
1973年(第21回)吹奏楽のための寓話
1986年(第34回)嗚呼!
「バンドのための楽章《若人の歌》」はイントロも終わり方も「パッサカリア」に
似たところがあり、往年のファンには懐かしさを感じる曲なのではないだろうか。
そしてその翌年には、吹奏楽関係者では知らない人はいないと言ってもいいくらいの大作曲家の作品が、課題曲として採用された。
1965年(第13回):シンフォニック・プレリュード 〜A.リード〜
A.リードの日本デビューは実は全日本吹奏楽コンクールの課題曲であったのだ。そして5年後の1970年にはA.リード人気を決定づける名曲が登場する。
1970年(第18回):音楽祭のプレリュード 〜A.リード〜
この曲は世代を超えて演奏され続けているまさに吹奏楽の名曲の一つとなっているが、まさかかつてのコンクールの課題曲だったとは・・・!私がそれを知った時のは高校生の時だったが、ものすごい衝撃だったことを覚えている。
吹奏楽コンクールの課題曲は現在では公募、または全日本吹奏楽連盟からの委嘱による未発表の曲に限定されているが、先に述べた通り、当時はまだ既存の曲を課題曲として採用していた。
ところがついに1966年の第14回、吹奏楽連盟の委嘱による”課題曲のためのオリジナル曲”が誕生することになる。
1966年(第14回)中学 :学園序曲 〜佐藤長助〜
他部門 :吹奏楽のための小狂詩曲 〜大栗 裕〜
”東洋のバルトーク”と称され、吹奏楽界でも「吹奏楽のための神話」や「大阪俗謡による幻想曲」等の名曲を残した”大栗 裕”の登場である。
「吹奏楽のための小狂詩曲」は今でも演奏され続けられているこれも”名曲”にふさわしい曲の一つだ。
大栗 裕は後の1977年 第25回にて「吹奏楽のためのバーレスク」でも採用されている。
余談だが、私の中学2年の時にこの「バーレスク」を自由曲にしてコンクールに出場した、思い出の”課題曲”でもある。
こうして、かつては「吹奏楽といえばマーチ」と言われていたが、吹奏楽オリジナル曲の台頭により、1964からしばらくは課題曲から「行進曲」は鳴りを潜めることになるが、、。
3. 1970年代〜【吹奏楽にポップスを!】
課題曲は今でこそⅠ〜Ⅳの中から自由に選曲できるが、かつては部門ごとに課題曲が決まっており、選択の余地はなかった。
それが、1974年の第22回大会からは複数の曲から選択できるようになった。
とは言っても、最初は部門ごとの垣根はまだ取り払われることなく、現在のように全部門共通で選択ができるようになったのが1976年の第24回のことである。
1964年から始まった吹奏楽オリジナル曲のみの課題曲は、”ある年”を除いて、1976年まで続くことになるのだが、1971年、この年だけなぜか行進曲のみ2曲が採用された。
なぜこの年だけ行進曲だったのだろうか。。。しかしそのインパクトも手伝ってかこの年、その後名曲として語り継がれる曲が採用されたのである。
1971年(第19回)中学:行進曲「輝く銀嶺」〜齋藤高順〜
ついに出ました!名曲「輝く銀嶺」!
この曲は元々はカワイ楽譜が積極的に吹奏楽曲を普及させようと新作の出版に力を入れ始めたシリーズ「カワイ吹奏楽曲選」の中の1曲であるが、1970年に北海道で行われた冬季国体の入場行進曲に制定され、翌年、吹奏楽コンクールの中学校の部の課題曲として採用された。
ドラムマーチから始まる6/8のマーチで、現代ではあまり演奏される機会は少ないものの、かつての行進曲らしさや、国体で演奏されたということもあってか、根強いファンが多く、今でも課題曲を超えた吹奏楽の名曲に挙げられる1曲だ。
この曲は当時の名門中学校の一角に挙げられる、西宮市立今津中学校の演奏が大変有名である。
翌年からはまたオリジナル路線に戻されるのだが、行進曲のあり方が見直されたのか、1977年「行進曲「若人の心」」が採用されてからその後大きな変革を迎える1993年に至るまでは毎年行進曲(マーチ)が最低1曲は採用ようになった。
そんな変革の激しい1970年代の課題曲の中でも大きな特徴と言えるのが、吹奏楽の新しいジャンルへの拡充の一つ、”ポップス”である。
前回のコラムで”ニュー・サウンズ・イン・ブラス”(NSB)について少し触れたが、第1集の発売が1972年のこと。
時を同じくして、NSBの父である”岩井直溥”氏によって、課題曲が作られている。
1972年(第20回)中学:シンコペーテッド・マーチ「明日に向かって」〜岩井直溥〜
その名の通り、シンコペーションが多用されている行進曲であるが、これまでの行進曲とは全く異なる雰囲気の新しい形の行進曲で、ジャズコードも多く使われているため、ポップス寄りな課題曲になっている。
更にその2年後にはポップス要素を取り入れた課題曲、いわゆる”ポップス課題曲”が本格的に採用されるようになる。
1974年(第22回)B:高度な技術への指標 〜河辺公一 〜
この曲も課題曲の名曲の一つに数えられる曲で、ドラムの入る課題曲としては最初の曲になる。
曲名の通り大変高度な技術が求められ、さらに作曲者曰く「スイング・ジャズの原型のいくつかを組み合わせて作った曲」であり、場面によって変わる曲調をいかに表現できるかというセンスも必要になってくるため、課題曲の名曲であると共に、難曲の一つとしてあげられることも多い。
当時のコンクールでは先の西宮市立今津中学校、阪急百貨店が名演として挙げられている。
近年では佐渡 裕×シエナ・ウインド・オーケストラが2005年に爆速で演奏して話題となり、広い世代に知られる楽曲となった。
翌1975年はなんと課題曲4曲中2曲がポップスの課題曲になっている。
1975年(第23回)B:ポップス・オーバーチュア「未来への展開」〜岩井直溥〜
D:吹奏楽のためのシンフォニック・ポップスへの指標 〜河辺公一 〜
これらの曲の大きな特徴は、2曲ともドラムに加えてベースが使用されていること。
今でこそコンクールでベースの使用は禁止されているが、コンクールでベースが使用された初めてが実は課題曲であったのだ。当時は河辺公一氏の曲名に使われている”指標”が示す通り、
「吹奏楽でポップスを!」という風潮が強く、コンクールであってもベースが使用されることは至極当然なことでもあったのだ。
先の話ではあるが、1990年代、NTT中国(NTT西日本)吹奏楽団がNSBの曲を自由曲にしたり、ベースが必要なオリジナル曲もある中、一律に禁止するのは吹奏楽の可能性を狭めているようにしか思えず、是非とも改善していただきたい点の一つである。
1976年には岩井直溥氏による2年連続となるポップス課題曲「ポップス描写曲《メイン・ストリートで》」が採用。
この曲は佐渡裕氏が中学生の時にコンクールで演奏し、ラストのフルートソロを吹いたのだそう。
この曲も岩井直溥ワールド全開の楽しい楽曲になっており、今でも根強いファンがいるのか演奏会のセットリストに見かけることも少なくない。
そして1977年、吹奏楽コンクールの課題曲として広い世代に愛され、後世に残る名曲が誕生することになる。
1977年(第25回)C:ディスコ・キッド
吹奏楽人なら言わずと知れた名曲中の名曲がついに登場!まさにポップス系課題曲の代表作である。
ドラムのハイハットのリフをきっかけにピッコロソロから始まり、ディスコのリズムが終始心地よく踊り、途中にはクラリネットのソロもあり、最後のドラムの見せ場なんかテンション爆上がり。今改めて聴いても、「これは本当に吹奏楽コンクールの課題曲なのか?」と疑いたくなるくらいの楽しい曲で、現代でも過去の課題曲という垣根を超えて、課題曲から誕生した吹奏楽の名曲の一つに数えられる曲だ。
この曲の名物として、イントロ終わりに「ディスコっ!!」と叫ぶのが最早定番化しているが、参考音源には当然その掛け声はない。
私が知る限りでは、当時の大学吹奏楽界の東の雄、駒澤大学と職場部門の名門ブリヂストン吹奏楽団久留米(当時の名演としては一番有名。)が全国大会でやっているのだが、最初にやり出したのは一体どこのバンドなのだろうか。。
こうして最高潮を迎えたポップス課題曲は翌年の1978年の岩井直溥氏による4度目の作品「ポップス変奏曲《かぞえうた》」を最後に一区切りを迎えることになる。
前回、ディズニーメドレーからNSBの歴史に触れながら、吹奏楽のポップスの歴史の一端をご案内したが、吹奏楽におけるポップスの歴史は吹奏楽コンクールの課題曲も深く関わっていたということなのだ。
さて。今回はここまで。次回は1980年代から。
1980年代には、現在の課題曲のスタイルが確立されるが、90年代にまた一つ大きな転換点を迎えることになる。
さらには、現在活躍中の作曲家の出世作も多く登場する。
(文:@G)