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電子書籍は精読に向いていると思う
歳を取るということは、90%ぐらいは身体の機能が劣化することと定義してもいいだろう。実際、やけに病院に通うことが多くなる。身体の機能が以前に比べて落ちていくことに対しては、さほど、落胆することはない。多分、若いころから、身体能力を自分のアイデンティにしたことがないからだろう。
僕は、全くの運動音痴ではなかった。しかし運動会のHeroというタイプの子供でもなかった。球技は案外得意だったし、体力だけの勝負じゃない、一種の戦略性のあるカテゴリーについては、自分で言うのもなんだが、マシな方だった。
でも運動会のHeroにして、大学の体育会系の颯爽とした青春など望むべくもなかった。
だからそれほど自分の運動能力が落ちることを、自分の人生のピークが終っっていくことととらえることも、それに自己憐憫を感じることもなかった。
運動能力を誇りにして生きてきたわけではないからだ。
だからオリンピックの選手たちの苦衷は、ある意味、他人事である。それぞれに選択した人生の中で、それぞれの苦境に直面するのは当然のことで、そこで、何を諦め、何を諦めないかが結局は人生なのだ。
今日は、そんなことを書きたいわけではなかった。
自分の身体の中でも、もっとも酷使してきたのが目だ。スポーツというわかりやすい目標を高校のあたりで諦めたあたりから、物事を読む、視ることに多くの時間を注いできたのだから、当然の結果だ。
ここ数年、紙の本から、電子書籍にシフトしているのは、別に、デジタル的神に心から帰依したわけではない。単純に紙の本の文字の大きさの中に、自分の現在の視力に適さないものが増えてきたからだ。文庫本が読みづらくなってきた。
何十年も紙の本を読むというフォーマットに慣れ親しんできたのだから、それがもっと効率的なことはまちがいない。
しかし、紙の本が読みにくくなったのだから仕方がなかったのだ。人生の大半、一番通ったし、一番好きだった紙の本屋さんを見捨てる気もなかった。でも仕方がなかったのだ。
いまだに本というものを読むのが自分の生活の大半を占めている。だから、必然的にフォント調整のできる電子書籍にシフトせざるを得なかった。
とはいえ電子書籍が完璧なわけでもない。多読には向かないのだ。キンドルの方が、PCやiPadよりもはるかに目に優しい。しかし、昔の様に、文庫本上中下を一気に読むというような勢いは電子書籍では難しい。
読む量は激減した
そのことはさほど悪いことだとは思わない。
ある年齢までに、どんな分野でも多読、乱読を経験していれば、読むという思考の型のようなものはできあがるので、のべつまくなしに、多読する必要はない。
特に、人生の後半、終盤に入ってきたわけだから、勝負はインプット量というよりはアウトプットの質にシフトすべきだとも思う。
結局、年齢が上がってきたら、精読が適切だといえるのではないかというのが今のところの結論だ。
長いこと英語の文献を読んできた。
英語のミステリーや、経済関連のポップジャーナリズムを乱読した時期もあある。
でも仕事関連や、本当にしっかりと理解したい時は、昔から、ほぼ、翻訳に近い精読をしてきた。
最近感じるのは、日本語でもそれは同じことじゃないかということだ。
自分の考えをアウトプットすることが重要な年齢に達したとするならば、速読などさほど意味はない。
結局、言いたいことは、目が悪くなってきたのだから、速読、多読ではなく、精読しかできなくなってきたことは案外悪くないということだ。
でも今日、書きはじめた時に、本当に書きたかったのは、最近話題のカミュのペストを読んでみようということだったのだが、そのマクラだけで、長くなってしまったので、今日は、これまでにする。
今日のBGMは安室奈美恵の「Baby Don't Cry」。この軽やかな明るさが好きだった。安室は今頃どこで、どんな暮らしをしているんだろう。