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コロナ新型ウィルスと共棲する日々

週初というのは、前から打ち合わせが多かった。月曜日に多くの打ち合わせがあり、週の方向性を決めて、各自動き出す。

緊急事態宣言が出てから、決定、判断の量が増え、内容も複雑化したので、従来よりも、打ち合わせ回数が増えた。

三人寄れば文殊の知恵的なことの意味が大きくなっている。特に、なんらかの判断をしなければならないので、できる限り、短時間で、違った意見をぶつけあうことが必要だからだ。

ということで、あっという間に、一日が終ってしまった。

最終的に、僕たちの判断が正しいかどうかは別として、会議の参加者が情報を共有し、意志決定まで持って行った件数が多いので、とりあえずは、充実した一日だったといっていいだろう。

こういう状況になると、間違うことより、何も決めないことの方が大きな罪だからだ。

相変わらず、カミュの「ペスト」を読んでいる。

以前読んだ時とは全く違う印象だ。

以前は、その背景にあるカミユの哲学の表現として、どう読むのかというようなことばかり気にしていた記憶がある。きわめて抽象的な関心だったのだ。しかし、今回は、全体の流れとか構成とかいうことではなく、小説のそこここに埋め込まれた僕たちの現在の実存を抉るような言葉に呼びかけられる。

筋を追うのではなく、一つ一つの文章にひどく引き付けられているのだ。

以前読んだ時にも、多分、アンダーラインを引いたはずの文章に出会った。

今回は、尋常ならざる衝撃だった。今回は、その部分だけを書きぬいて、はりつけるだけでも良かったぐらいだった。

「同じ理由でまた、この疫病からも、僕はなんにもあらためて知るところはないし、あるとすれば、君たちのそばで、そいつと戦わねばならぬということだけだ。僕は確実な知識によって知っているんだが(そうなんだ、リウー、僕は人生についてすべてを知り尽くしている、それは君の目にも明らかだろう)、誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ。なぜかといえば誰一人、まったくこの世に誰一人、その病毒を免れているものはないからだ。そうして、引っきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。自然なものというのは、病菌なのだ。そのほかのもの、健康とか無傷とか、なんなら清浄といってもいいが、そういうものは意志の結果で、しかもその意志は決してゆるめてはならないのだ。りっぱな人間、つまりほとんど誰にも病毒を感染させない人間とは、できるだけ気をゆるめない人間のことだ。しかも、そのためには、それこそよっぽどの意志と緊張をもって、決して気をゆるめないようにしていなければならんのだ。実際、リウー、ずいぶん疲れることだよ、ペスト患者であるということは。しかし、ペスト患者になるまいとすることは、まだもっと疲れることだ。つまりそのためなんだ、誰も彼も疲れた様子をしているのは。なにしろ、今日では誰も彼も多少ペスト患者になっているのだから。しかしまたそのために、ペスト患者でなくなろうと欲する若干の人々は、死以外にはもう何ものも解放してくれないような極度の疲労を味わうのだ。」(宮崎嶺雄訳)

僕たちが感じている奇妙な負債感が見事に表現されているじゃないか。今回のコロナウィルスは決して一過性のものなどではない。

僕たちは、今後、ウィルスと共棲を試みるしかないのうなのだ。

このうんざりするような宿命がもたらす極度の疲労感を味わうことになるはずの一週間がまた始まる。


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