いちスワローズファン目線で中西太氏を偲ぶ
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西鉄ライオンズの中心選手として活躍するとともに、監督・コーチとして様々なチームのユニフォームを着て指導された中西太氏が亡くなられたことが報じられた。
そこで、いちスワローズファン目線で中西太氏について記してみたい。
自分は中西太氏の現役及び兼任監督時代(西鉄ライオンズ時代)は知らない世代である。プロ野球に興味を持つようになり、1956年から3年連続日本一を成し遂げた三原脩監督が率いる野武士集団の中心選手であることを知った。
自分が応援しているスワローズ(アトムズ)のコーチには、2回就任している。1971年から1973年と1983年から1984年半ばまでである。中西太氏がスワローズ(アトムズ)のユニフォームを着た時の共通点として、球団史の中でも非常に弱かった時代という点が挙げられる。
ヤクルト本社が100%球団経営に携わるようになったのは1970年だが、この年のヤクルトアトムズは33勝92敗5分けで勝率.264という結果で球団史の中でも最低勝率である。セ・リーグ記録を更新する16連敗を喫するなど、散々な成績だった。
この年のオフに、西鉄ライオンズや大洋ホエールズを率いて日本一に導いた三原脩監督が就任し、中西太氏がコーチで加わった。中西太氏にとって、三原脩監督は現役時代の監督であり義父である。自分はリアルタイムで知らないからかもしれないが、年間勝率が3割未満の弱小チームからの監督就任オファーを名将と称される三原監督が良くぞ受けてくれたと思う。
幼過ぎた自分には当時の記憶がない。だが、中西コーチが後のミスタースワローズとなる若松勉選手や名伯楽の系譜を辿ることになる内田順三選手を指導して、両選手の礎を築いた。個人的には若松選手と中西コーチが巡り合わなければ、スワローズの歴史は全く異なっていた可能性が高いと思う。
三原監督の3年間は5位(勝率.419)、4位(同.472)、4位(同.488)と全てBクラスだったが、前年には勝率3割未満のチームを率いて最下位を脱出するなどチーム作りを進めた。三原監督が退任した翌年に就任した荒川博監督が就任初年度に13年ぶり2度目のAクラス(3位)となったのは、三原監督・中西コーチなどがチームを作り変えた成果が出たのではないだろうか。
三原監督は退任後に日本ハム球団の社長兼球団代表となり、中西太氏を新監督に招聘した。中西監督は1974年から1975年まで2年間チームを率いたが、自分がリアルタイムで初めて中西太氏を知ったのは、この日本ハムファイターズの監督としてである。
もっとも、ファイターズ時代の中西監督に対して、個人的には何の印象も浮かばない。だが、この時期に交換トレードで大杉勝男選手をスワローズに放出し、中西監督がコーチ時代に指導した内田順選手と小田義人選手を獲得する1対2のトレードを成立させたことは覚えている。その為、自分がリアルタイムでプロ野球を観戦し始めた時期にはスワローズの大杉選手、ファイターズの内田順選手と小田選手という状態だった。
いちスワローズファン目線では、スワローズ時代の中西コーチが指導した若松選手とファイターズ監督時代に放出した大杉選手が打線の中軸となり1978年の初優勝を成し遂げた為、直接的かつ間接的に中西太氏がスワローズの初優勝に関与していると思っている。
そして、いちスワローズファン目線では初優勝に貢献したヒルトン選手も中西太氏を思い出させる存在である。ヒルトン選手は1980年にタイガースに入団し、当時のブレイザー監督は二塁手で起用した。だが、在阪メディアや多くのタイガースファンは期待が高かったドラフト1位ルーキーの岡田選手(現タイガース監督)の起用を求めた。その結果、不調で岡田選手とポジションが被ったヒルトン選手は早期退団となり、ブレイザー監督も解任されたことを覚えている。ブレイザー監督の後を継いだのが、中西コーチだった。当時のエース格だった江本孟紀投手が首脳陣批判をして退団したのは、中西監督の時代である。
中西太氏が再びスワローズのコーチに就任したのは、武上監督が率いて最下位に転落した1982年のシーズン終了後である。前回同様に最下位のチームを指導することになったのだから不思議なものである。
スワローズは翌年の1983年も最下位に沈み、1984年も4月終了時に最下位と低迷し、5月初旬に武上監督に代わり、中西一軍ヘッド兼打撃コーチが監督代行に就任した。だが、中西監督代行となってもチーム成績は好転せず、18試合を率いた後に辞任した。中西監督代行の後任には土橋正幸投手コーチが就任し、1年間で監督が2回交代する年となった。
2度目のスワローズコーチ(代理監督)時代は、1度目の三原監督が率いていたコーチ時代とは異なり、チーム成績が最下位と低迷し続けた。だが、中西ヘッド兼打撃コーチ時代に入団した栗山秀樹選手(後のファイターズ監督・日本代表監督)は、中西太氏の訃報に対してコーチ時代の指導に感謝するコメントを発した。
栗山選手と同様に池山選手も短期間ながら、中西コーチの在籍時と重なっている。80年代のスワローズは1980年以外はBクラスが続く厳しい時代だったが、中西コーチの指導した選手が土橋監督及び関根監督時代に中心を担うようになった。90年代の黄金期を迎える下準備をしたコーチの1人だと思う。
1985年以降は臨時コーチなどで、スワローズと関わりを持った。スワローズに中西太氏の打撃指導が息づいているのは、ミスタースワローズの系譜である背番号1を背負った若松選手、池山選手、岩村明憲選手の活躍が大きな理由だろう。宮本慎也選手も打撃が向上した理由として、中西太氏の指導を挙げている。
現在の杉村繁一軍打撃コーチも、現役時代に中西太氏の指導を受け、現役引退後のキャリアで名打撃コーチとして評価されるようになった。内田順三氏も同様に打撃コーチとして高評価を得た。
いちスワローズファン目線では、中西太氏は現在までの長きにわたり、スワローズに大きな影響をもたらし続けた存在だと思う。その為、中西コーチの指導を受けた小川淳司GMなどが主導して、ヤクルト球団として中西太氏を追悼する催しを開催して欲しいと期待している。中西太氏のヤクルト球団に対する功績は計り知れない。謹んでご冥福をお祈りするとともに、心から感謝を申し上げたい。