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恋愛ってなんだろ、新宿 -第3話 鶯は夜に鳴く-

華金は、最悪オブ最悪な日だった。

朝から生卵を床に落としてラグとスーツの裾を汚したし、歯磨き粉で洗顔して洗顔料で歯磨きしちゃうし、眉毛を濃く描きすぎたし、中途で入った男の子から今日締め切りの書類ができていないと出勤中にLINEが届いたし、後輩の女の子は会議が立て込んでいる今日に限って午後休を取った。しかも彼氏とデートするとかいう、わたしにとっていま最もこの世で不愉快な理由で。

書類が未作成だったおかげで、午前中の早くから残業が確定していた。案の定残業になって、中途の男の子は母親の見舞いに行くというから帰さないわけにはいかず、ぼっちで居残った。

ほぼ毎日、残業中につまんでいるカカオ95%のチョコが、引き出しの中の定位置になかった。心がくじけそうになった。いや、4分の3ほどくじけていたかもしれない。

そんな最アンド悪な日をなんとかやり過ごし、肩からずり落ちまくるセリーヌのトートバックとよれよれのスーツで帰路に着いた。

チョコがなかったがために、残業中、何度か暴れ出しそうになった。それを堪えるのに髪の毛をぐしゃっと掴んで頭頂部に寄せたりした。メイク直しをする間もなく、アホ毛に皮脂テカにと、見た目はかなり荒れていた。来るはずのないたねくんからの連絡を確認したとき、スマホ画面にちらっと自分の顔が映り込んだ。濃く描きすぎた眉毛だけは健在だった。

会社から割と近くの公園の隣を通過中、当たり前のように富所を見かけた。わたしは咄嗟に木の陰に隠れる。富所はわたしの視線には気付かず、バスケットゴールに背中を預けてスマホをいじっている。

バスケットゴール下に立って気取っていいのは山Pだけだ。バスケと山Pといえば2009年夏の月9『ブザー・ビート〜崖っぷちのヒーロー〜』だ。わたしのバスケドラマの記憶はそこで止まっている。

それから間もなく、歩く港区みたいな女子が富所の元へ小走りでやって来た。わたしが愛読しているファッション雑誌の読者モデルにそっくりだった。巻き髪のかきあげヘア。いい女はだいたいああゆう髪型をしている。暗くてよく見えなくてもわかるくらいの美貌だった。

背の高い2人は腕を組むと、わたしの視界のど真ん中を歩き出した。なんでもない並木道がレッドカーペット並みにラグジュアリーに見えた。トレンチコートの下から伸びた読者モデルの足首は鉛筆の芯みたいに細い。12cmはありそうなヒールの靴で長身を支えられるのが不思議なくらいだった。

読者モデルは自分より少し背の高い富所を見上げ、何か話しかけている。富所も読者モデルのほうに顔を向ける。見つめ合いながら会話をすると、前に向き直る寸前、富所が笑ったのがわかった。

富所は、恋愛で泣いたことがないと言っていた。読者モデルのほうもあの美貌だ、きっと泣いたことなんてない。勝ち続けている者同士の恋愛では、涙が流れることはないのだろうか。それとも、より強いほうが勝ち上がっていくトーナメント形式なのだろうか。

予選にすら参加できないところで敗北してきたわたしには未知の領域だった。ゴジラvsガメラみたいくお似合いの2人は、いつもわたしが使っている駅へ向かっていた。わたしはその奇跡のコラボの結末が、じわじわと気になってきてしまった。

同じ方向の電車の、同じ車両に乗り込む。尾行したわけではない。ホームへ着いた途端に一度見失ってしまったのだけれど、乗り込んだ矢先、奥のドア付近に2人の姿を捉えた。わたしは富所たちと距離を取り、がたいのいいサラリーマンとガテン系の若者の陰に身をひそめた。

どこで降りるのかしらと思っていると、鶯谷に到着した途端、2人はさらっと降りた。こんなわかりやすい駅で降りるのかと驚愕しつつ、わたしもホームへ飛び降りる。今度こそ完全に尾行だ。

あんな大胆にラグジュアリーさを振りまいておいて鶯谷でしっぽりとは。勝ち組の考えていることはまったく予想できない。

終始、ジャケットのポケットに手を入れて歩いている富所に時々イラッとしながら付いて行く。途中、客引きに阻まれて焦った。富所が振り返りそうになった瞬間、わたしはその客引きと腕を組んでその辺の飲み屋へ逃げ込んだ。ドン引いている客引きを残して店を後にし、また2人の後を追った。

ラブホを何件も素通りして、2人は突き当たりへとたどり着く。そこには、街の果てのような雰囲気を醸し出す古いラーメン屋が、ひっそりと明かりを灯していた。

2人が店のなかへ吸い込まれてから、ガラス張りの引き戸越しに中の様子をうかがった。店先では室外機がゴウンゴウンと音を立てている。店内にはカウンター席が数席しかなかった。入店したら間違いなくバレる。

そこは仕方なく引き下がることにする。ラーメン屋から少し離れた電柱の影で待つことにした。いや早く帰って風呂でも入れよ、と思われるかもしれないけれど、どうせ1人の部屋へ帰宅しても、やることと言ったら最悪な1日を振り返るだけだ。

明日は休日。とくに行きたい場所も食べたいものもない。たねくんに放っておかれる時間が多すぎて、ひと通りやり尽くしてしまった感がある。2人で行きたい場所や食べたいものならたくさんあるのだけど。それを1人で体験してしまったら終わりな気がした。

カラスの鳴き声があちこちから聞こえた。頭の上を見上げると、オレンジ色にくすんだ街灯に空の一部が照らされている。そこにカラスのシルエットがやたらと飛んでいくのが見えた。飛んでいるカラスの数が増えると、鶯谷を歩く正規のカップルの数も、訳ありカップルの数も増えていった。

なぜかわたしの頭上に群がってくるカラスを、届くはずのない高さから手でしっしと追い払っていると、富所たちがラーメン屋から出てきた。わたしは慌てて電柱にしがみついた。それから頭だけそろっと覗かせる。

2人は、先ほど歩いてきたラブホの通りを戻り始めた。それをきっかけに、わたしの頭のなかでヘビメタが流れ出す。デスボイスとメロディアスなボーカルが同時に聞こえる。店先の塀から滝もどきが流れ出ている派手なラブホに2人は消えた。わたしは思わず激しくシャウトしそうになる。実際にシャウトしたのは空腹に耐えかねた胃だった。

セリーヌの腕時計は、あと5分で22時半をまわる。もうその辺でテキトーに飲んで帰ろうと思った。富所たちが優雅に入店したラブホの前を無駄に疲れた足で通りすぎる。何が楽しくて恋人たちの集まる町で、しかも華金の夜に下車したんだろう。

おじいちゃんと女子大生みたいな絶対に訳ありなカップルとすれ違う。バイタリティーの違いに愕然としたとき、後ろのほうで人が走っている足音が聞こえた。

その足音にまったく心当たりのなかったわたしは、自分事とは思わずそのまま前進した。雨が降りそうなにおいが立ち込めている。最悪オブ最悪の日のフィナーレを飾るのにふさわしすぎて笑えてきた。

「男からの返信を永遠と待ち続けている、もしくは約束をすっぽかされても文句のひとつも言えないそこの千木良千秋」

人をフルネームで呼びつける人間てこの世にいるの? と眉をひそめて振り返る。ついでに失礼なことを言われた気がしたが、胃のシャウトがうるさすぎてスルーすることにした。

10メートルくらい離れたところに、今頃ラブホのジャグジーにお湯でも張っているはずの富所がたった1人で立っていた。わたしたちはそれぞれ顔の半分をロマン溢れるネオンに照らされて向かい合う。東京の夜に、また出くわしてしまった。

「今度はラブホで待ちぼうけ?」

例によってジャケットのポケットに手を突っ込んで、富所はこちらへ歩いてくる。片方の口角を上げて笑っている。確実に人を馬鹿にしている表情だった。黒のスーツに橙色のモックネックを仕込んでいる。今日も鼻につくほど洒落た格好をしていた。

「そちらは今夜も勝ち戦ですか?」

「ん? 今夜は例外」

「じゃあ、一緒にいた女の人はどうしたんですか? まさか、やっぱりその気がなくなって置いてきたとか」

言ってから「あ」と思った。様子を見ていたことがバレバレだ。

「随分とよく見てたんだねえ。そうだよ。なんてね、うそ」

富所は真顔とも微笑とも取れる表情をしていた。一向に真実は見えない。

「まあ、ゆっくり飲みながら話そうよ」

言って、富所はわたしの横を通過していく。此の期に及んでどんな言い訳が飛び出すのか、見ものだ。

しばらく歩くと、飲み屋街へ着いた。富所が選んだのは、尾行中にわたしが客引きと隠れた飲み屋だった。「ここはちょっと」というわたしの声は控えめすぎて富所には届かなかった。

富所は焼き鳥を数種類と日本酒を頼んだ。わたしは誰かさんのおかげでラーメンが食べたすぎたので、中華そばをしれっと注文した。

「さて、何から聞きたい?」

顔の前で手を組んでそう聞いてくる富所は、テンションが高いのか低いのか、引き続きどんな気分なのかわからない。

「さっきの女の人はどうなったんですか?」

そこまで聞いて欲しいのなら聞いてやらないこともない。わたしがいちばん気になっているのは、恋愛の勝ち組同士による戦いの結末だった。読者モデルは敗れ去ったのか、確かめたかった。

「1人で泊まってるよ」

富所は嘘にしてはちんけすぎる返答をする。

「え、ラブホに1人で?」

敗退したのは富所のほうなのかと思った。

「下手なビジホより安いもんね、ラブホって」

富所は核心を避けて回答しているような気がした。

「東京に住んでる人ならラブホなんか泊まらず、帰宅したほうがいいですよ」

日本酒と焼き鳥が同時に運ばれてきた。富所は卓上のメニューや箸立てを壁際に寄せる。2つ付いてきたおちょこのうち、1つをわたしの前に置いた。そこへ日本酒を注ぎながら、ついでに目線も注ぎながら、話し始めた。

「僕の人生にまったく関係なさそうな君には教えてあげるよ。あのラブホで君が気にしてる彼女のお姉さんが亡くなったんだ。1年前くらいかな、ニュース覚えてない?」

こちらこそ、お主なんぞ人生に1ミリたりとも関係ないわと思う。

1年前のわたしは何をしていただろう。あ、思い出した。ちょうどたねくんと出会った頃だ。あの頃はよかった。そんな幸せの絶頂期に焦がしたトーストをかじりながら見た朝のニュースで、そういえばラブホ関連の報道があった。

そのときの、何とか評論家のコメントで家族間や恋人間での事件がもっとも多いことを知って怖くなった記憶がある。その数日後には、たねくんと付き合い始めたのだけれど。

「覚えてます。でもあれって、」

富所は焼き鳥をもさもさと食べていた。串の半分くらいまで食べ終えると、日本酒をくいっと飲み干した。そして言った。

「そう、殺人だった」

わたしも日本酒にちびっと口を付けた。

「もっと言うとね、殺された女性は僕の元奥さん」

串から残り半分の多分ぼんじりをかじり取って、富所は今度ははっきりと笑みを浮かべた。こんなタイミングで笑わないでくれよと思う。こっちが悲しくなってくる。

「なかなか気性の荒い人で、殺されたって知って、ああやっぱりって思った」

強がりなのか、本心なのか。それがわかるほど、わたしは富所のことをよく知らない。

「犯人、まだ捕まってないですよね」

美容室に置いてある週刊誌で今もたまにその事件の記事を見かける。政治家と不倫関係にあって口論になって殺されたとか、そんなことが書かれていたこともあった。

「ね。物騒だから2人で行ったけど、やっぱり1人で泊まりたいって。あと数分で殺された時間だ。今日の23:00が命日」

わたしが何も言えないでいると、中華そばが届いた。醤油のいい香りが立ち上ってくる。けれど、空腹のピークをすぎたからか、富所の話がヘビーすぎたからか、口を付ける気になれなかった。

中華そばを見下ろしたまま固まっていると、「食べないならちょうだい」と富所がかっさらっていった。いや、あんたさっき食べたじゃん。

終電に一緒に乗り込むと、酒臭い大学生の集団にひそひそ笑われた。富所はそれを見ると、「楽しかったね」と笑いかけてきた。それが作り笑顔であることがわかるのは、この場ではわたしだけだ。セリーヌのバックを抱き、なるべく富所から距離を取った。

そこからお互い何も話さず、ただ電車に揺られながら窓の外を見ていた。気付いたときには大学生の集団はいなくなっていて、窓ガラスに映る向かいの扉付近はがらんとしていた。

新宿へ着くと、富所は「じゃあね」と言って背を向け、ホームへ降りた。電車のドアが閉まる間際、そのまま去っていくと思っていた富所は振り返った。

「僕が犯人だったりしてね」

直後、平然と扉は閉まった。ぼやっと光る蛍光灯に照らされてホームに立っている富所が遠ざかっていく。口元だけに笑みを浮かべていた。

わたしは一拍遅れて窓ガラスにへばり付いた。頭の中で再びデスボイスが聞こえ始める。

「どうゆうこと?」

その声は富所に届くはずもなく、車内にいい感じに響いてしまった。

鶯谷の夜はぜんぜんしっぽりしていなかった。その日は、夜中から明け方にかけて長いこと雨が降り続いた。

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(これを読む時に聞きたい曲:『ENVY』/coldrain)


第3話 鶯は夜に鳴く(終)

第4話へ続く。毎週火曜22:00に更新いたしますのでお楽しみに!




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