ファクトベースの限界

10年くらい前に本屋で立ち読みした本で「これからはコンテンツの時代である」といったことを主張するものがあった。詳細は覚えていないが、要するにこれからの時代はプレゼンテーションや体裁といったことよりもとにかく良質の中身(コンテンツ)が大事である、といった主張であったと記憶している。やや本筋からは逸れるが、エバーノートの創業者も同様に「情報が拡散されやすい時代においては良いプロダクトさえあれば自ずと広がる」といったことを述べていたので思想としては同じである。

本書の著者はこのメッセージを裏付けるためにいくつもの例を出しており、その中にレディーガガとアデルを挙げていた。どちらも当時、極めて人気があったアーティストであるが、著者の主張では「レディーガガは奇抜な格好や行動で注目を集めている一方で、アデルは一般的な美の基準を当てはめると必ずしも該当しないが、それでも圧倒的な歌唱力で聴き手を魅了している。そして結局のところ、後者のようなコンテンツが優れているアデルの方が人気が落ちていない」といったものであった。

私自身は音楽業界に詳しい訳ではないが、この例を読んだ当時はどうにも違和感を感じたのである。直感的には両者のアーティストが売れる理由、売れなくなる理由を歌唱力だけで語るのは明らかに雑である気がしたのである。このアデルの例は著者の主張を支持するためのほんの一例であったが、他の例も今は覚えていないが同様にやや雑である印象はあった。

一方で当時もこれを一つ一つ反論していくのは必ずしも生産的でないとも思えたのである。もう少し乱暴に言えば一つ一つ反証していくことは「雑魚っぽい」ことだと思えたのである。これを少し言語化してみると、本書の価値はあくまでも「これからはコンテンツの時代である」という考え方(切り口と言い換えてもいい)であり、その証明ではないためであると言えよう。特にマクロ的な視点で物事を考察する場合、往々にして観察対象にはさまざまな力学が働いているために、厳密な意味での証明は極めて難しく、またその証明そのものが意味がなく、大事なのはその切り口であることが多いのである。マクロ的なものを考察する一つの独自の切り口の価値は、その切り口が企業や個人が取るべき行動を検討する上での補助線として用いることができることにあると考えられる。切り口はあくまでも補助線であり、検証するべきは切り口そのものではなく、切り口「も」活用して導出された行動なのである。また業界によっては検証にコストを掛けずに、一旦施策を実行し、結果をみて施策を修正した方がよほど有効な場合も多い。このような場合は行動を考えるための視点の切り口に価値があるのである。

このように切り口の価値と証明の価値を履き違えることは特にコンサルティングファームではジュニアが陥りがちな失敗であると私は思っている。いうまでも現代コンサルティングの基本はファクトベースであり、経営コンサルティングファームに入れば常にファクトに基いて考えることが要求されるのである。これは基本動作としてはもちろん大事であるが、盲目的にファクトベースであることに囚われてしまうと、証明不能な事態に直面したときに上手く立ち振る舞えなくなるのである。状況によっては証明されていることよりも切り口に独自性があることの方が価値がある場合もあるのである。

もちろんアドバイザーとして事実と異なる提言はしてはならない。しかし証明できていないことを過度に恐れる必要もないのである。場合によっては一つの切り口を明示的に仮説であることを述べて、それをそのまま証明せずに仮説のままとしておいても問題ないこともある。

経営コンサルティングファームのシニアパートナーの中には滅法、話が上手い人がいる。独自の切り口で国家や業界の趨勢などを語り、名だたる経営者を魅了するのである。このような話は経営上の示唆もあるが、何よりも純粋に話として面白いのである。このような語りができるシニアパートナーは経営コンサルタントとしては文句なしに一流であるが、一方で「現場」はこのシニアパートナーが語ったことを証明しようとすると苦戦して、困ってしまうといった事態に陥りがちなのである。このような場合もやはり証明されていることよりも、切り口に価値があるのである。

ファクトベースは重要である。しかしビジネスは数学とは異なり全ての事象を証明することはできないし、その必要もない。(もっとも数学も厳密な意味では多くのことは証明されていないらしい。)重要なのはあくまでもどのように行動を起こすかであり、過度にファクトベースに溺れるべきではないのである。

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