「IT」のモデルになった殺人ピエロ【ジョン・ゲイシー】
「IT/イット “それ”が見えたら、終わり。」
本作は、子どもがメインで登場する映画にもかかわらず、なんとR15指定。実はこのITのモデルとなった恐ろしい人物がいることはご存じだろうか? R15指定どころではおさまらない、本当に怖く、凄惨な殺人ピエロ事件を再掲する。
ホラー小説の巨匠スティーヴン・キングの作品に『IT』がある。子供だけを狙った連続殺人事件の犯人、「イット」と呼ばれる邪悪なピエロにまつわる物語で、映画化までされた。映画を見てピエロが苦手になったという人は多く、ホラー映画を代表する作品として語り継がれている。
実はこの『IT』のピエロにはモデルがいた。実在した連続殺人鬼ジョン・ゲイシーである。小説や映画以上に、全米を震撼させたジョンとは、一体どんな人物だったのだろうか。
1942年3月17日、ジョン・ゲイシーはイリノイ州シカゴのアイルランド系移民の両親のもとに誕生。この日はアイルランドにキリスト教を広めた聖人聖パトリックの命日“聖パトリックの祝日”であったこと、また夫婦にとって待望の長男だったことから、彼は「特別な子」だと祝福されながらこの世に生まれた。2歳年上の姉と2歳年下の妹に挟まれたジョンは、カトリックの学校に通い、敬虔な信者になるよう育てられた。
一家は中流階級家庭地区に住んでおり、ジョンはこの地区の多くの男子たちがするように、放課後はバイトをした。新聞配達やスーパーで荷物を詰めるスタッフや倉庫係など、多くの職を経験しながら、ボーイスカウトにも参加するという忙しい子供時代を送った。ジョンは社交的で友人も多く、バイト先のうけもよかった。学校も放課後の生活も楽しみ、充実した日々を送っていたジョンだが、一方で、自身の病気や父との関係に深く苦悩していた。
彼は幼い頃から心臓が痛むことがあり、入院することがよくあったが、医師は何が原因なのか特定できずにいた。心臓発作などを起こすこともなかったが、17歳でやっと心臓病だと診断された。また、ジョンが11歳のとき、遊んでいた時ブランコで頭を強打し、脳に血餅ができてしまった。そのため、突然気絶するという症状が起こるようになったのだが、原因は長らく特定できず、16歳になりやっと血餅が発見され治療を受けることにより、この症状は治まった。
ジョンは母親と姉妹たちとの関係は良好で絆は強かったが、体が弱い一人息子に失望したアルコール依存症の父親からは、酷い言葉を吐かれ、精神的に虐待を受けながら育った。母に対して暴力を振るうことも多かった最低の男だったが、ジョンは父を慕い認められようと精一杯の努力した。しかし、「このままだとオマエはいつかホモになる」「オマエは気持ち悪いホモ野郎だ」と怒鳴りつけられる一方で、可愛がっていた愛犬を目の前で射殺されるなど精神的に痛めつけられ、とうとう普通の父子関係を築くことはできなかった。
病気がちだったため、高校を4つも変わる羽目になったジョンは最終的には中退し、家に居づらくなったため職を求めてラスベガスに行く。ラスベガスでは、葬儀屋で遺体の防腐処理を施すための血抜きなどを手伝うパートの仕事を得たが、もっとまともな仕事に就きたいと思っていた。ホームシックにもなった彼は、3カ月後にシカゴに戻るチケットを購入し、帰宅。母と姉妹から暖かく迎えられた。
ラスベガスから戻った後、ビジネスの専門学校に進学した彼は、卒業後就職した大手靴チェーン店でセールスマンとしての才能を開花させた。IQ118の彼は頭の回転が早く、営業の能力に長けていたのだ。彼はまたたくまにマネージャーに出世し、イリノイ州スプリングフィールドに栄転した。
しかし、ジョンはまた病に苦しめられることになる。体重が増えたため、心臓病が悪化し入院しなければならなくなったのだ。やっと退院したと思ったら今度は脊柱を負傷し、入院するなど、不幸は続いたが、気丈にも仕事に打ち込み続けた。ジョンは地域にも貢献する好青年でもあり、クリスチャンの団体チ・ルホ・クラブでは会員増強委員長、カトリック・インタークラブでは委員を、連邦民間防衛や青年会議所の会員にもなり、特に青年会議所では表彰されるほどだった。仕事にもプライベートにも多忙な日々を送っていた彼は、精神消耗で入院することもあったが、病気には負けずとにかく働き続けた。
1964年9月、ジョンは交際していた同僚のマリリン・マイヤーズと結婚。彼女の両親はケンタッキーフライドチキンの店舗をいくつか経営しており、その一つを任せられる。自分の父からは認められなかったが、「義父からは絶対に認められるようになりたい」と、ジョンは奮闘。1日平均して12時間働き、帰宅後は青年会議所の活動に打ち込み、地域に貢献した。妻との時間も大事にし、長男、長女と立て続けに誕生。郊外に家も建て、家庭も仕事、地区活動も順調で、友人も多く、誰からも信頼される人物となったジョンは、アメリカ人にとって理想な人生を送っていた。しかし、そんな日は長く続かなかった。青年会議所で「ジョンが同性愛者ではないか、しかも少年が好みなのではないか?」という噂がたつようになったのだ。
青年会議所で活動するとき、彼の周りには必ず少年たちがいた。ケンタッキーでジョンにねっとりした視線で見つめられたという少年がたくさんいるという噂も流れた。彼と親しい友人たちは、この噂に腹をたてたが、1968年の春、噂は事実だということが明るみに出た。10代のマーク・ミラーという少年に、「今年の初め、ジョンの家を訪ずれたとき、突然体を縛られ、繰り返し強姦された」と訴えたのだ。裁判にかけられたジョンは、肛門性交したことは認めたものの、「強姦ではない。彼が小遣い欲しさにケツを差し出したんだ。合意の上での性交渉だ」と主張。青年会議所の次期会長選を控えていたため、自分を嫌っている会員たちがでっち上げたことだとも主張した。
■逮捕、刑務所生活、離婚
裁判の4カ月後、ジョンはマークを痛い目にあわせようと、18歳のドワイト・アンダーソンに「ジョンをリンチしたら300ドルの車のローンを払ってやる」と、10ドルを渡して持ちかけた。ドワイトはマークを襲うが、抵抗され負傷。マークは警察に駆け込み、逮捕されたドワイトはジョンから頼まれたと自白した。この事件を受け、裁判所はジョンに精神鑑定を受けるよう指示する。その結果、「反社会性人格障害である」と診断されたが、裁判は受けられると判断され、禁錮10年に処された。ジョンはこのとき26歳になっていた。
実はジョン、靴のセールスマンをしていた頃、酔った勢いで男性の同僚とオラルセックスを行ってからというもの、同性とのセックスに強い関心を持つようになっていたのだ。十代に女性と初体験をしたとき、脳に血餅のせいで気絶してしまい、上手くいかなかったトラウマを抱えていた彼は、「男とならスムーズに気持ちよくなれる」とゲイセックスにのめりこんでいったのだ。
アイオワ州立刑務所に入ると同時に、妻から三行半を突きつけられ、ジョンは離婚。刑務所では真面目な模範囚であり、たった18カ月で保釈されることになった。1970年6月18日に出所したジョンは、シカゴの実家に向かった。
■出所してすぐ、最初の殺人
ジョンは服役中に、父を亡くしていた。さよならが言えなかったこと、最後まで認められなかったこと、親子としての交流が全く持てなかったことはジョンを鬱状態にし、出所後も精神的に落ち込む日々を送った。とはいえ、母親の変わらぬ愛を受け表面的には立ち直り、4カ月で自立。穏やかな郊外に家を購入し、近隣住民たちともすぐに打ち解け、交流するようになった。順調に新生活をスタートさせたかのように見えたジョンだったが、1971年2月、バス停で少年を誘い強姦したことが警察に知られ、刑務所に戻されそうになる。しかし、裁判に少年が現れなかったため、不起訴に。出所後わずか半年で再び少年たちを強姦するようになったにも関わらず、ジョンは自由の身になったのだ。そして、翌年の1月、ジョンは最初の殺人を犯す。
1972年1月2日、ジョンはバス停でティモシー・ジャック・マッコイという15歳の少年を見つけ、「一晩泊めてあげよう」と誘い家に連れ込んだ。合意のもとベッドを共にした翌朝、ジョンはティモシーがナイフを手にしているのを見て「殺される」と思い体あたりし、もみくちゃに。大男のジョンに床に押したおされ、胸を繰り返しナイフで刺されたティモシーは絶命。ジョンはこのときエクスタシーを感じ、「殺すことが快感だと知った」と回想している。ジョンはティモシーの遺体を床下に埋め、コンクリートを流し込んだ。そして、しばらくは殺人を犯さず、少年を拾っては強姦することのみを繰り返した。ちなみに、ティモシーは朝食を作っていたためナイフを持っており、ジョンを殺す気などさらさらなかったとされている。
1972年6月1日、ジョンは幼馴染だった2人の娘を持つシングルマザー、キャロル・ホフと再婚する。彼に犯罪歴があることを知っていたキャロルだが、優しくチャーミングなジョンをすっかり信用してしまったのだ。母、姉妹と仲が良かったジョンは、女性がどうすれば喜び、信頼してくれるのか熟知していたため、キャロルを騙すことなど朝飯前だったのである。
家庭を持ち、地域の活動に精を出すようになり、大勢の友人たちを招いて自宅でバーベキューパーティーを開くなど、再び地域から尊敬される存在となっていったジョン。しかし、少年に対する性的欲求は膨らむ一方で、立ち上げたリフォーム建築会社では十代の若い男子ばかりを採用。ボスという立場を使い、力ずくで性的関係を結んでいった。また、キャロルが娘たちを連れて実家に帰っている時に、夜、車で徘徊し少年たちを誘い、クロロホルムを嗅がせてもうろうとさせた上で自宅に連れ込み、強姦しては近くの公園に放置した。少年たちの中には、「裸にされて蝋燭や縄で拷問をされ、水を張ったバスタブに頭を入れられた上で強姦された」と警察に訴えた者もいたが、社会的に信頼されていたジョンが起訴されることはなかった。
■恐怖の道化師の誕生
ジョンはキャロルに対して、「女性よりも少年の方が好きだ」と告白。家の中で同性愛者向けの雑誌や少年の裸が掲載されているポルノ雑誌を読むようになり、「もうオマエとはセックスしない」と宣言までされ、1975年にキャロルは離婚を決意。1976年3月に2人は正式に離婚した。
結婚生活が崩壊してしまったジョンだが、落ち込むことなく一層活動的になる。政治活動にも強い興味を抱き、地元民主党のメンバーとして活躍。
この頃から、ピエロの「ポゴ」に扮して、児童福祉施設や小児病棟などを訪れるチャリティー活動を行うようになり、地域から一層の信頼を得るようになっていった。1975年に地元民主党の役員になるまで登りつめ、当時大統領だったジミー・カーターの妻ロザリンと握手する写真まで撮影されるほどになった。
しかし、一緒に活動をしていた16歳の少年に手を出そうとし、失敗。少年は椅子を振りかざし抵抗したため被害を受けず、ジョンは「冗談だよ」と弁解したが、「ジョンは同性愛者で少年が好みらしい」と白い目で見られるようになった。この少年はジョンのもとでも働いており、その後、ジョンの家を訪れた際、手錠をかけられ強姦されそうになったが、手錠が緩かったため、逃げ出し、ジョンを押さえ込み「二度とこのようなことをしないと約束したら見逃す」と言われ、降参した。少年は高校のレスリング部に所属しており、ジョンをねじ伏せる力を持っていたのである。
気に入っていた少年とアナルセックスできなかったどころか、屈辱的な目に遭い、腹をたてていたジョンは、その1週間後の1975年7月29日、彼のもとで働いてた17歳のジョン・ブルコヴィッチを「未払いの報酬について説明したい」と自宅に誘い、手錠をかけ、首を絞めて殺害。遺体はガレージの下に生めコンクリート固めた。
【犠牲者たち】
そして、キャロルが2人の子供たちを連れて家を出ていった後に、次々と少年たちを言葉巧みに誘い、自宅で強姦した上で殺し始めた。1976年4月には18歳のダレル・シンプソン、その5週間後には15歳のランドール・レフェット、その数時間後には14歳のサミュエル・ステープルソン、6月には17歳、16歳の少年……。1972年に初めて殺人を犯した時、ナイフで刺したため床や家具が酷く汚れた反省を生かして、2人目以降は必ず絞め殺すようにしていた。棒にロープを縛りつけ、棒をまわしながら首をきつく絞め、殺害したのだ。1カ月に2人以上殺すこともあり、床下、ガレージの下に埋まりきらないほど、遺体の数は増えていった。埋めるスペースがないので、事件が発覚しやすい近くの川に捨てるようになったが、それでもエクスタシーを得るために少年たちを強姦して殺し続けた。1978年12月21日に逮捕されるまでの間に、合計して33人もの少年を殺害したのだ。
彼が逮捕されるきっかけは、15歳のロバート・ピーストの母親から「息子が仕事のインタビューを受けにジョン・ゲイシーの家に行ったが、その後行方が分からなくなった」という電話を受けた警察官に訪問されたことだった。ジョンの前科を知っていた警察は始めから彼を疑っていたのだが、外面がよいジョンは「知りませんよ。それよりもお茶はいかがですか。毎日、本当にごくろうさまです」と、自宅に招き入れたのだ。
警察官たちは家の中に入った瞬間、充満する死臭に吐き気をもよおした。ジョンは警察から事情聴取を受けた後、知人や友人宅を回り始めた。警察は、「ジョンはもう逃げられないことを知り自殺するつもりだ、そのため最後の挨拶をする意味を込めて友人宅を訪れているのだ」と確信し、知人の一人にマリファナを譲ったことを突き止め、薬物を所持していた罪で逮捕した。
【遺体が埋められていた場所】
逮捕後、警察はすぐに家宅捜査令状をとり、ジョンの家を調べた。その結果、床下やガレージの下から29体の遺体を発見。白骨化したものもあったが、多くの遺体は腐敗が進んでいた状態で、凄まじい悪臭を放ち、現場は壮絶を極めた。その頃、ジョンは持病の心臓病が悪化したと言い病院に運ばれていたが、すぐに退院。殺人罪で逮捕すると告げられると、涼しい顔で、「よし、疑惑を一掃しようじゃないか」い言い放ち、30人以上殺したことを告白。床下のどこに埋めたかをスケッチして警察に渡すなど、淡々と捜査に協力した。しかし、家を解体してもロバートの遺体は見つからなかった。ジョンは、床下のスペースがなくなったため、近くの川に捨てたと自供。川からは4体の遺体が見つかり、最後にロバートが発見された。
身元が判明している被害者は25人、身元不明者は8人。年齢は9歳~20歳だった。ジョンは最終的に33人を殺害した罪で裁判にかけられた。
ジョンは、裁判で被害者のことを「男娼だった」と断言したが、遺族は同性愛者でもなかったと主張。殺されなかった被害者の証言から、ジョンは少年たちを誘う際、覆面刑事になりきり、信用させた上で車に乗せていたことが判明。境界性人格障害、統合失調症、4つの人格を持つ多重人格症など、精神障害者だと主張したが、会社を経営し、社会活動や政治活動までしていたジョンが精神障害者だとは考えられないと却下された。
1980年3月13日、ジョンは死刑を宣告された。その後、無実だと訴えるなど悪あがきをしたり、自身がピエロに扮した絵や、自分とイエス・キリストを重ね合わせた絵などを描いて過ごした。彼のピエロの絵はマニアの間で高額で取引されており、俳優のジョニー・デップが、その一つを所持していることは有名だ。
【ジョンが描いた絵】
自分を偽らなくてもよくなったジョンは、刑務所では生き生きをしており、日記をつけるなどし、テレビのインタビューにも積極的に応じた。文通をしていた18歳の少年と面会したが欲求が抑えきれなくなり、看守のすきをついて強姦しようとし取り押さえられたこともあった。
死刑判決を受けてから14年後の1994年5月10日、ジョンは薬物注射により処刑された。「死ぬことは怖くない。わたしはカトリック信者なのだから、神との面会も怖くない」と余裕を見せていたジョンだが、直前になり、「ちょっと待てないかな」と往生際の悪さを見せた。ジョンの死刑が執行される州立刑務所の外には大勢の人が集まり、被害者の遺族たちはライブカメラを通して死刑の執行を見守った。ジョンには3つの薬物が注射されたが、絶命するまで18分ほどかかり、その間ずっと苦しみを味わったと伝えられている。