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アオアシ・バルサ戦結末までの考察

「バルサ戦、この後どうなると思う?」


を、呑気に語り合いたいのだが、哀しき哉相手が居ない。ネット上で同様の議論が戦わせられているのであれば、それを見るだけでも十分なのだが、どうも見当たらない。よって、ここに語ろうと思う。ただの独り言であるが、私と同じ思いをしている者が本稿を掘り当ててくれれば、僅かばかりの意味はあるかも知れない。本考察は1/27に掲載された最新話395話までの読了時点によるものである。

395話はロミオが攻撃の統率者が誰であるかを特定したところで話が終わるのだが、これは普通に葦人であると思う。阿久津が「俺と青井に乗ってくれ」と言っているのに、統率している者がそこに含まれていないのは幾ら何でも違和感を覚える。
栗林、大友、朝利、高杉は「わからない」と自白しているし、竹島には守備のみが課されている。冨樫は最終ラインに居るため統率をしているとすると、大声か身振り手振りによるコーチングと考えられるが、それを見たロミオが「わかったぞ!」となったのだとしたら余りに陳腐である。遊馬はここまで野生味ある本能型ストライカーとして描かれ、その様は日本代表選手に「そのままで居てくれ」と言わしめる程のものである。敵味方共に混乱させるほどの戦術を遊馬が統率しているとすると、それは最早キャラ崩壊ではなかろうか。桐木はインテリジェンスが高いため能力的には可能に思えるが、コーチングをしているような描写は見当たらない為、やはり葦人であると思う。

今後の展開についての重要なポイントと思えるのは

01.なぜ点が取れたのか

02.心が折れた葦人はなぜ復活したのか

03.栗林と福田の思考はなぜ一致しなかったのか

04.福田の言う「やりたい手」とはどんなプランだったのか

05.イエローカードを貰ってまで葦人は福田に何を話したのか

06.最終的な試合結果は

などであると思う。

なぜ点が取れたのか、どんな戦術を取っているのか、についてこれは、統率者の葦人と、推進者の阿久津が中心となり、協力者の栗林がトップから中盤まで降り、ゾーンディフェンスを行うバルサに対し、常に数的優位を作りながらビルドアップする、そしてフィニッシャーは阿久津。という戦術だと思う。
同点に追いついたシーンも、395話の攻撃シーンもいずれもボールにはこの3人しか殆ど関与していないが、重要なのは、戦術理解なき第四者を一角としてスクエアを構成しながら攻撃しているのではないか。

と言うのも葦人が復活した理由も「スクエア」にあると予想する。はじめはデミアンがトライアングルに加わり、スクエアを構築した際に、俯瞰視が歪んだ。そしてデミアンの圧倒的なパフォーマンスを目の当たりにした葦人は心が折れた。しかし、絶望したのは分かった、で、そこからどうする、を考えられるのが葦人であり、それはアオアシの一つのテーマでもあるだろう。

俯瞰視が歪んだのは、単に初見だったから、味わったことがなかったからだと考える。バルサに蹂躙されながらも葦人は考えに考えた、そしてスクエアによる攻撃の発展性や可能性に触れ、脳内で革命が起きたのではあるまいか。

アオアシとは戦術などを学びながら、主人公のサッカー観や世界がどんどんと広がっていく物語である。トライアングルを学び、ダイアゴナルランに気付き、コンパクトな守備の距離感、持たせて嵌めるディフェンスの醍醐味、L字型、5レーンなどをその都度学び、世界を広げてきた。そして最終章はスクエアなのではないだろうか。
トライアングルを学んだだけで葦人のサッカーは大きく広がった。そして二つのトライアングルを持ちながら、一つのスクエアを構築するサッカーの美しさによる世界の拡張は、絶大であった、特に俯瞰を持つ者にとっては。

だから葦人はイエローカードを貰ってまで福田に頼みに行った。そして、そこでユーリも会話を聞いていたと言う点から、二人の会話は具体的な戦術の話ではなく、抽象的な会話であったと予測が立つ。仮にポジションやフォーメーションなどの具体的な会話であったなら、その後のエスペリオンのサッカーに対しあそこまで驚いてはいないだろう。葦人が話したのは恐らく「自由」と「未来」についてなのではないだろうか。

俯瞰を持つ葦人が、スクエアを理解したことでピッチ上の22人がはっきりと見え、バルサのサッカーが誰一人ミスをせず、余りにも完璧であり、ヨーロッパサッカーかぶれの葦人が子どもの頃から見てきたバルサらしいサッカーであったことから、作中描かれてきた未来視がより鮮明で強固なものとなった。
視える、どう守れば、どう攻めれば良いかが分かる。しかしサイドバックと言うポジションを与えられている状態ではそれらが実行できない。だから懇願した。バルサが監督の想像を超えたのなら、未来が視えるから自分を自由にしてくれないかと、そうした旨を伝えたのではないか。だとしたらユーリの目には、さぞ頭のおかしい選手として映り、驚いた筈だ。

そして福田は葦人の進言を受け、自分のやりたい手を実行するアイデアを思いついた。福田のやりたい手とは、阿久津を中心としたビルドアップに数的優位を作り、バルサのゾーンディフェンスを解体すると言う手だったのではないか。しかしそれを選手に落とし込む為には当然ミーティングが必要である。ビルドアップを攻撃の他選手はどうサポートするのか、阿久津が上がって行く際の守備のリスクマネジメントは、などチームの共通認識が重要になる為、歯痒い思いを噛み締めていた所に、葦人の覚醒が起きた。

ピッチを縦横無尽に駆けながら、未来を俯瞰視する葦人が統率者となり、推進者の阿久津と共にバルサのゾーンを切り裂いて行く。しかし二人だけでは当然崩せない、そこで閃いたアイデアがゼロトップ栗林なのではないか。バルサに引けを取らない技術を持つ栗林を協力者として加えることで守備組織を破壊する。
またフィニッシャーを阿久津と他選手に伝えることで、全員が自分でゴールを狙いに行かずに、サポートに徹するようにしたのもその為だろう。裏抜けを狙うことも、独力で突破しようとすることもなく、いつでもフォローに行ける、ボールを受けられる適度な距離感にポジションし続けることで、バルサの守備がコンパクトになり過ぎるのを防ぎ、数的優位を保つようにしたのではないか。そしてそれによってゴールをこじ開けた。

自分のゾーンを守ること、助けを求める親友を切り捨ててまで、自分の役割を果たすことをビジネスとして、白いタイルを用い描写してきたのも、それゆえではないか。
栗林と福田の思考が一致しなかったのは葦人の進言がなければ思いつかなかった戦術だった為だ。本来、人の思考が一致しないのは自然なことだが、アオアシは漫画であり、「ピッチ上の思考が同じ」は設定である。
現時点では3人のトライアングルでのオフェンスになっているが、今後他選手がスクエアに加わり、より一層多彩な攻撃を展開するのではないかと予想する。

かつて福田は葦人に「サイドバックとして世界に出るんだ」と言ったが、葦人は福田の想像を超え、サイドバックと言うポジションを手放し、自由を選んだ。
青森戦の北野から強烈なヒントを得て「中で試合を作るサイドバック」と言う答えを掴んだ葦人は、今回バルサから、デミアンから青森戦以上の衝撃を受け「定位置のない司令塔」と言う答えを掴んだのではないだろうか。

第一話で双海浜中でゴールを決めた際に、部のマネージャーから「ポジションもフォーメーションも全て無視している」と評されたが、思えばあれは最終章への暗示だったのではないかと考える。
第一話と同じ「自由」が、当時とは比べ物にならない程にサッカー観が広く、そして遠い世界で、全40巻を通して葦人が掴んだ答えになるのではないだろうか。
395話で双海の砂浜が描かれ、随分遠くまで来たと葦人が感じたのは、地理的な距離ではなく、サッカー観の距離であり、故に悪魔的な描写でデミアンに「DEMIAN・・・」と囁き、怖いほどの表情を見せたのは、威嚇でも敵対でもなく、自分をここまで連れてきてくれたことに対する圧倒的な感謝であり、つまり、栗林を踏み台に吸収し、神が遣わした天使と評したデミアンとの対比になっているのだと思う。

3点目を決めるのは遊馬。

試合結果は4対3でエスペリオンが勝利すると予想する。理由は漫画だから。である。同じ理由で決勝点を決めるのは葦人になるだろう。
遊馬が点を決めると予想するのは、竹島を投入したから、である。当初竹島に出番はないだろうと思っていたが、登場シーンを見て、作者は一年生の主要キャラは全員活躍させるつもりなのだと確信を覚えた。
黒田はDMFとして自分の使命を全うした。交代した大友は実力以上のパフォーマンスを発揮し、竹島はデミアンを止めた。朝利と冨樫はフル出場するだけでも十分とも思うが、残り時間の攻防でより活躍するシーンが描かれると予想する。残すは遊馬だ。惜しいシュートなどが既にあり活躍済みとも言えるが、キャラ設定を考えれば、得点しなければ活躍とは言えない選手だと思う。
トップチームでの紅白戦以上に、野犬感溢れるゴールシーンを期待したい。
そして橘が最後に登場し、活躍シーンが描かれるだろうが、決勝点は葦人の為、ゴール以外で奮闘するのだと思う。

同点に追いついた後に展開されるシーンについて幾つもの他愛ない妄想を私は思い描いているのだが、一つ、阿久津が窮地を葦人に救われるシーンは描かれるのではないかと強く期待している。
例えば、デミアンに抜き去られる瞬間の阿久津が、失点を確信しデミアンへ手を伸ばしそうになる。コンマ1秒の世界で失点と退場を逡巡し、福田の顔を思い浮かべた阿久津は退場を決意する。その刹那視界の右側から怒涛の勢いで葦人が飛び込み、スライディングでクリアする。
葦人に救われた阿久津の脳裏には、自身の数々の葦人への罵倒シーンがフラッシュバックされ、青森戦のスパイクの時のように、のちに名台詞と語られるような言葉を送る、と言った要領のシーンだ。
私の妄想など正直我ながらどうでも良いのだが、息を飲み手に汗を握る、胸熱なシーンの連続を作者には期待したい。

以上が395話読了時点での私の考察である。私はサッカー好きでこそあるが、現代サッカーを熱心に追いかけているわけでも、高度な戦術に明るいわけでもまるでなく、非常にカジュアルなサッカーファンの為、上記考察はサッカー玄人から見たら恥ずかしいような考察である可能性がある。しかし本稿の目的は確度の高い考察をすることでなく、語る相手が居ない私が語ることを目的としているため、リテラシーが低い部分があったとしたら目を瞑っていただきたい。
抑もこんな冗長そのものとも言える拙稿を果たして誰が読むのか疑問ではあるが、ここまでお付き合いくださった方が居たならば、礼を言いたい。
感謝する。


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