さや香の二本目ネタ「見せ算」の純真に、漫才の未来を観た。
さや香の「見せ算」が話題である。M-1グランプリ2023一本目に於いて堂々首位通過を果たした彼等は、二本目で大いに滑り散らかし今年も優勝を逃した。
巷では「全然面白くなかった」等の酷評が大勢を占め、実際に私も審査員等と同じくポカンと口を開けてさして笑いはしなかった。然し乍ら他方、「やりたいネタで勝負する漢気がカッコいい」「これぞ漫才師」等さや香の姿勢を支持する声も相次ぐことになった。
然し、私には疑問が残った。彼等は一体何を表現したかったのかと。
例えば「システム」を捨てて勝負する、ならば分かるのだ。ミルクボーイがオカンシステムを捨て、自分達の別の表現で二本目に臨んだ。であればそれは嘸カッコ良かろう。実際にシステムを捨てたハライチがラストイヤーのM-1で自分達の笑いを貫ききった姿は多くの人々の目に眩く映った筈だ。
然し、さや香は「しゃべくり」である。二本目もしゃべくったところでカッコ悪くなんてまるでなく、寧ろそれは覇道と言えるだろう。M-1優勝とは全ての芸人にとって特別な意味を持つ偉業であると想像するが、それを敢えて覇道を逸れて奇を衒うことの意味が私には分からなかったのだ。
ネタ作り担当の新山は、優勝できないネタであろうことは十分理解し、周囲に止められた上で「見せ算」をかけたと発言している。それどころか二本目でやる為に一本目を書いたとまでだ。そこで本稿に於いては「見せ算」に込められた真意を私なりに深く、探求してみたい。
どんなネタであるかの詳細な説明は省かせていただくが、簡単に言えば「四則演算に加えて五つ目の演算を発明し披露する」と言うネタである。数学を漫才の中に織り込むネタは多数あろうが、五則目と言うのは聞いたことがなく斬新だ。
SNSでは「ネタが高度すぎて分からなかった」や「見る者の知性を問うネタだった」等の感想が見られたが、私はそうは思わない。
「2見せ5の眼は、11ではなく、5が驚いて携帯を落として小数点になるから眼=1.1」こんな解は殆ど屁理屈である。解くことは不可能だ。5が実は携帯二台持ちで小数点ではなくコロンとなり眼=1:1となる世界線も考えられただろう。
また「1見せ100の眼は、1が逃げられないと腹を括り17人倒すから眼=83」こんなものははっきり言って理不尽である。知性どころの話ではない。高度どころか低度である。
何時何処で誰が解いても解が不変である再現性が数学であるに対し、「見せ算」は数字同士が如何思うのかを主題としており、数学の根底土台から飛び降りている。最早数学とは呼べまい。
然し、我々は嘗てそうした理不尽の中でこそ楽しく過ごしていた日々を同時に思い出しもした。それは小学校の休み時間等である。我々は幼き日、屁理屈を並べて理不尽ルールを幾つも発明していたではないか。
「此処は段差の上だからバリアが張られていてタッチは無効」や「やっぱりツーバウンドまではOK」などである。地域毎どころか学級毎に論理の破綻した理不尽ルールがあり、我々はその理不尽の中で大いに遊んだものだ。
「見せ算」とは正にこれである。実際SNSでは「見せ算」で爆笑する子ども達が多数報告されている。その時点で「知性を問う」ものでは無いことに確信が持てるだろう。そして今此処で特筆したいのは「見せ算」は決して小学生レベルのネタではない、と言うことだ。
真空ジェシカやランジャタイをはじめ地下芸人の台頭は目覚ましく、独自の「センス」を持つ「尖り」のある芸人が持て囃される時代にあるが、抑も漫才とは大衆演芸であり、大衆演芸とは老若男女、庶民の為のものである。
漫才を楽しむ為に本来知性なぞ、学歴なぞ、センスなぞ、リテラシーなぞ問うてはならない筈だ。寧ろ万人が楽しむことを目的とすればそんなものは無い方が望ましい。これは、誰にでも分かるポップな笑いが良いと言う意味ではなく、全ての持たざる者に楽しむことが可能な笑いが良いと言う意味だ。
また人を傷つける可能性が無いことについても触れておきたい。昨年王者のウエストランドのような毒舌ネタは少なからず誰かを傷つける。本年のシシガシラのような○○イジリネタも何処かで誰かを傷つける可能性を孕んでいると言えるだろう。
ところが「見せ算」は別だ。18人目に倒された1は傷ついたのかもしれないが、視聴者に限っては誰も傷つけることなく、万人に楽しめる可能性こそを均等に提供している。
子ども達が「見せ算」を笑ったのは、笑いのレベルが低いからではない。対象と純粋に向き合うことができるからだ。
我々大人達は何かを視聴すると言う段に於いては如何しても理屈が先行する。何処に盛り上がりを設けていて何処で爆発するのか、何時になったら掛け合いが始まるのか、伏線は最後に回収されるのか、そうした構えで向き合い、対象を純粋に捉えられない。
「あれ、さや香?いつもと違う?」「具体的に何が如何面白いの?」「石井は何処で入ってくるの?」こんなノイズ塗れの状態で視聴していて、ネタを真っ向から楽しめる訳が抑もなかったのだ。
知識なぞセンスなぞ、尖りなぞなくとも、漫才を見て腹を抱えて笑い、また明日から頑張ろうと、そう思えれば、お笑いにそれ以上は望むべくも無い。本当に面白い演芸とは、非凡な言葉選びや、ぶっ飛んだセンスや、時代のトレンド等を要さずに、誰にでも楽しめるものであるべきだと改めて思わされた。
さや香の「見せ算」は最高品質の技術によって作られた、小学生水準の知識のみを必要とする、万人に楽しめる可能性を持たせた、珠玉の話芸である。だからこそ私はさや香の二本目ネタ「見せ算」の純真に、漫才の未来を観たのだ。