日本語がしゃべれなかった男の物語(中学校〜高校時代)

小学校入学後日本語の読み書きはある程度上達してきたが、標準語での会話と作文だけは高校卒業まで苦手であった。例えるなら日本人が英語を勉強する場合と同じだ。単語や文法などは授業や教科書があるのでなんとかなる。だが、英会話や英作文はそう容易くはできない。なぜなら、頭の中で日本語を英語に翻訳しようとしているからだ。私もこれと同じことをやっていた。奄美のシマぐちを常に標準語に変換しなければならなかったのだ。唯一標準語で考えることができたのは算数の計算問題だけで、文章問題は脳内ではシマぐちで考えて標準語に変換しなければならず、答を導くのに時間がかかった。さらに、中学校になると国語の授業では文学作品のように読解力が必要なものに取り組む必要があり、もはやシマぐちを標準語に変換することは不可能になっていた。このようなことから国語だけはどうしても好きになれなかった科目であった。国語は苦手だったが、何とか奄美大島で唯一の進学校であった県立高校に進学することができた。この高校、実家からバスで2時間強も要する市内(現奄美市)にあったため、やむなく下宿生活を送ることになった。その頃になると我が家は年上の兄弟達が独立し、役場に勤務していた父親の収入と母親が好景気だった大島紬の機織りをしてくれていたおかげで、我が家は経済的に多少余裕が出てきていたのである。さて、入学した高校は1学年360人で大半は市内の中学校の卒業生だ。私のような田舎者からすれば彼らは都会っ子だった。言葉も奄美なまりのある標準語もどき「トン普通語」を当たり前のように使っていた。ウィキペディアでは、「トン普通語は奄美語を基層言語とし、標準日本語を上層言語とする。相互理解度の観点からは奄美語よりも標準日本語に近い」とある。高校に入学してから日常生活で標準語に近い言葉に触れるという経験は新鮮で誇らしい気持ちにさえなった。だが、言葉の習得は生易しいものではない。トン普通語でさえも慣れるには時間がかかった。自分の思うことをうまく伝えられないことはもどかしく苦痛でもある。元々無口な方であったがさらに無口になっていったので周りから見れば何を考えているのかわからない気味の悪い存在だったに違いない。部活は空手部に入ったが部員とのコミュニケーションを取るのが面倒苦手で1年で辞めた。勉強の方は、周りの生徒の成績が落ちていったため相対的に上がっていった。入学して1年経過した頃になると頭の中はトン普通語で考えられるようになっていたが、国語は相変わらず苦手、古文、漢文の教科が加わったのでさらに嫌いになってしまった。高校2年になると何となく大学に行きたいと思うようになっていた。我が家は経済的に多少余裕が出てはきていたが、国立大学以外は行かせられないという雰囲気であった。その時の私の学力では国立大学にはとても合格できるレベルにはなかった。何しろ、街には小さい書店が1軒のみで、そこには参考書もそんなに多くは置いてなかったのだ。ましてや、学習塾などあろうはずがない。そんな状況下で国立大学を目指そうというのだから、いかに能天気な生徒だったかがわかる。3年生になり国立文系クラスには入ったが成績は思うように伸びない。そうしているうちに受験の時期が近づいてきた。続く。

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