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立憲主義の作法について(弁護士会のMLへの投稿から)
R.ローティはご存知ですね。「未完のプロジェクト」で高名なアメリカの政治哲学者です。熱烈な民主党支持者で、僕は最後のリベラリストと呼んでいます。
彼は立憲主義を共存の枠組みとして捉えます。元東大の長谷部教授の考え方に近いといえばよいでしょうか。
彼は、ニーチェ主義者です。神は死に、全ての価値は根拠を失ったという価値相対主義の世界にどう生きるかという問いを立てます。価値の根拠は自らの欲望であり意思であるとするツァラトストゥラの使徒団に所属します。ラズも使徒の1人です。
価値相対主義による動揺は、「人権」という現代の公理を揺るがします。ローティは、人権の根拠付けを断念します。それは時代とともにアプリオリな正義として現れたとします。時代という超人の価値論です。
そして公共領域と私的領域を区分し、私的領域ではヘイトでもSMでも同性愛でも好きにやってくれ、しかし、公共領域ではマナーを守ってくれといいます。それがブルジョア的社交です。にこやかに批判し合う社会です。ロバータ・フラックが歌った「優しく歌って」です。
Killing me softly with his song
問題は、公共領域におけるマナーとは何かです。価値観の中身それ自体が歴史的構築物だとすれば、超越的ないし形而上的な優越価値は存在しないことになります。フェミニズムは、それまで私的領域に閉じ込められていた「性」を、公共領域に持ち込む企てです。その結果、同性愛の婚姻が公に論じられ、制度として結実したのです。
もちろん、これに対しては強烈な反発があり、トランプを支持しているのは、そうした宗教的で伝統的なキリスト教的価値観を大事にする右派です。同性愛、中絶、非宗教的世界観に対する敵対心が、彼らを支えています。
つまり、マナーは必然的に歴史的な慣習に依存することになり、それは個別の伝統社会において異なることになるということになります。
結局、日本では、日本の伝統を探索するほかはないようです。その中心に国民統合の象徴としての天皇が畏まることは、いうまでもないことです。
文化多元主義の時代における右傾化、すなわちナショナリズムは、時代の必然なのです。
普遍的価値が信用を失った神なき時代、それに変わると思われた自然法思想の墜落、科学的社会主義を実践した共産主義の末路としての中華帝国。
僕たちが、もっとも信じられるのは父祖の血と汗に基づくナショナルな感情が詰まった土着的ナショナリズムです。ナショナリズムこそがリベラリズムの作法、すなわち立憲主義のマナーの核心なのです。
日本人は靖國神社にいって武士道を学びましょう。
それが21世紀のスタートラインなのですから。
以上
(2017/11/10 MLへの投稿から)