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忠臣蔵の尊皇メッセージについて(2)
ネットの世界ではねずさんなど極少数の市井の人が唱えている説です。書物で書いているのは、ねずさんと僕ぐらいではないかと思います。そのことを承知でいっています。
1 山鹿流が通奏低音になっていることは「山鹿流陣太鼓」の登場のことをもってご同意いただけると思います。
2 史実には、「山鹿流陣太鼓」は出てこない、などというなかれ。ここでは史実がなにかではなく、江戸の庶民が何を信じていたか、信じようとしていたかが大事です。史実ではなく、その神話(説話)としてのリアリティです。よくサヨクが、古事記は事実ではない、権力者の正当化のために政治的につくりあげたものだ、とよくいいます。僕は、そこでも同じことをいいます。古事記が史実かどうかは大事なことではない。日本の庶民がなにを信じてきたかである、と。これは「信じたもの」や「伝承(ナラティブ)」そのものにリアリティをみる立場です。
3 赤穂藩事件のあと、実際に、勅使の接遇が、勅使が上席、家老が下席の扱いに変更されました。そのことが「遺恨」の中心にあったとすれば、浅野内匠頭の命を張った抗議は見事に成就したのです。
4 赤穂藩は山鹿素行を迎え、これを藩学としてきました。皇居の修繕等も一手に引き受けています。浅野内匠頭は幼きころより、山鹿流に親しみ尊皇の気持ちを持ち続けていました。
5 山鹿流の尊皇思想は、陽明学とともに危険思想であり、山鹿素行は朱子学を批判し、処分を受けています。山鹿流兵法学も反体制の危険思想であり、幕府にとって扱いのやっかいな思想でした。
6 山鹿流兵法家に生まれた吉田松陰も忠臣蔵の義士に対し、並々ならぬ共感を抱いていました。
7 陽明学は言行一致を説きますが、尊皇ではありません。しかし、幕府の朱子学に対する強烈な批判のベクトルをもっており、反幕府⇒尊皇に向かい、山鹿流と一致するのです。
8 赤穂事件当時の伊藤仁斎や室鳩巣の義挙を讃える議論には山鹿流も尊皇も登場しません。それゆえ、「忠臣蔵」が尊皇劇として成立するのは、50年程たった仮名手本忠臣蔵の登場を待つ必要があります。
9 山鹿流も尊皇思想も隠れた通奏低音です。表立って統幕を含意する危険な反体制思想を認めるわけにはいきません。山鹿流と尊皇思想は、そこでは隠れた含意として伝わっていたのです。
>やむに已まれぬ大和魂だったのかも知れません。
>大石内蔵助達四十七士にも勤皇の教えがあったと考えても宜しいでしょうか。
「かくすれば、かくなることと、知りながら、やむにやまれぬ大和魂」ですか。
安政の大獄で捕縛され泉岳寺の前をとおるときに吉田松陰が詠んだ句ですね。
大石内蔵助は播州赤穂藩の藩学、山鹿流を修めていることは当然です。大石内蔵助の陽明学との繋がりについては文献もあるようですが、日本の陽明学は、必ず、反体制=尊皇とつながります。戦後の反体制=マルクス主義と同じようなところがあります。山鹿流=陽明学=尊皇思想=反体制思想。そこが同じ尊皇思想であっても水戸学と違うところです。
山鹿流は赤穂藩の藩学ですよ。しかも初代藩主が幕府から目を付けられるのを承知で山鹿素行というお尋ね者を破格の待遇で迎えたんですよ。力の入り方が違うでしょ。山鹿流の尊皇思想を修めていたに違いない。修めていた家臣が義挙に加わったのだと想像しています。
(MLにおけるやりとりから)
●忠臣蔵の尊皇メッセージについて(1)
●忠臣蔵の尊皇メッセージについて(2)
●忠臣蔵の尊皇メッセージについて(3)忠臣蔵考ー日本人の誕生ー