婚姻の多様化
大阪弁護士会のシンポジウムで婚姻の多様化を議論したときに司会を担当したことがあり、そこで婚姻、男女関係、家族の多様化が議論されたのですが、同性婚や婚姻の多様性をいうのであれば、一夫多妻ないし多夫一妻という婚姻のあり方についても、そのように思われますか、という質問をパネラーにしたことがありました。
当該パネラーはそれも多様性の一つとして肯定されたのですが、参加者の中には、その質問が許せないという人たちがいて一夫多妻という女性差別を肯定するような発言は許せないとして、懲戒請求されたことがあります。
同性婚は人間社会の進歩の証しと考えている人たちからすれば、封建主義の蛮風にしか思えない一夫多妻というものと同列に並べられたことが悔しかったのだと思います。
左派的な人たちの共通の信条は、「人類の進歩」であり自分たちは「人類の進歩」に沿っており、これに反対する保守や反動は「愚かな人たち」であり、その愚かさに執着するのは、「知性が足りない」からか「利益的癒着」があるからだと決めつけ、己の正義を信じているのです。
僕の信条としては男性に一夫一妻に忠誠を求めるのは、そもそも、生理的に無理だというところから出発しています。自然界はできるだけ一生懸命、己の種をまき散らせ、と命じているようにしか思えないからです。そして、女性はできるだけそんな男性の本能的な手前勝手を赦さないように設計されていると思っていますし、他のよりよい種をもった男性が現れたら、そちらに乗り換えようとするように設計されていると考えています。そうした本能的設計に対し、文明は様々な制度を設けて調整を図ろうとしてきましたが、どんな制度も予定調和は図れないため、文学的ないし小説的人間模様が続くんだと思っています。
自然的な「本能の設計」と歴史的な「社会の制度」、そして「個人の自由」との三つ巴をどのように調和させるか。僕は保守派だと自己規定しているので、「本能の設計」に基づく「個人の自由」を「社会の制度」で押しとどめることは無理だと諦観していますが、だからといって歴史的にこれを調整してきた「社会の制度」に優先するとは思っていません。その意味で「社会の制度」は尊重するのですが、厳格にかつ脅迫的にそこから生まれる倫理道徳の厳守を求めるのは無理だな、と、他人にも自分にも甘々で生きています。