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天皇の地位が国民の総意に基づくという憲法規範の意味について

先ほど、畏友から眞子様に関する自称保守派の不敬な言論を憂える電話をいただきました。彼は、憲法1条で天皇の地位が「国民の総意に基づく」とされていることの毒が回ってきたという感想を述べられました。 
僕は、あぁ、憂国の士である彼であっても、反日サヨクがまき散らしている俗流、憲法解釈に基づくプロパガンダに乗せられていることを知って愕然としました。

いまだに憲法無効論を主張する人士が絶えない理由もなんとなく悟れたような気がしました。ハエ取り壺からハエを出すには、入ってしまったところに戻らないといけない、というヴィトゲンシュタインの教えがここでも妥当するのです。 

憲法は1条で天皇の日本国と日本国民統合の象徴の地位につき、「主権の存する国民の総意に基づく」としています。畏友がいうには、国民の総意でなくなったら天皇は天皇の地位におれないという意味(すなわち、主人が国民で天皇は家来だという意味です)だというのですが、それは俗論というものです。
最高規範である憲法は、守られるべき規範の形に事実を統制するものです。もし、「国民の総意」が天皇を望まない事態になりそうであれば、そうならないよう規制するのが規範としての憲法が命令する意味なのです。 

しかし、法律解釈に精通しない一般人はそんな風に考えるのかということを今更のように感じ、正しい解釈方法を説明しなければいけないんだなと痛感しました。 どういう事か。憲法制定当時、「国民の総意」が国家を象徴する「天皇」の地位の基礎であるという事実をいっているわけで、これは、俗称「人間宣言」として誤解されている昭和21年1月1日の天皇の「新日本建設に関する詔書」に基づくものです。 

すなわち、天皇の地位は、現人神であるという架空の観念に基づくというGHQの誤解を糺し、それが国民と天皇との歴史的な紐帯にあるというという事を確認し、日本の民主主義の基礎は五か条の御誓文にあることを確認するものだったわけですが、それは日本人にとっては誰にとっても当たり前のことでした。そして、その事を法的に表現して憲法に書き込んだのが「国民の総意に基づく」です。 

法的には「国民の総意でならなければならない」という規範的意義を有しているのです。万一、憲法が規定する「国民の総意」に基づく天皇の地位を揺らがせる動きがあれば、「そうならないようにしろ」というのが憲法の命令です。それがいやなのであれば、「国民の総意」であることを要請している憲法を改正しなさいということなのです。「国民の総意」は当時の現実であり(宣言的意味)、将来的な規範(国民及び政府に対する要請)であるのです。ここでは天皇の地位を支えている「国民の総意」を否定し、これを揺るがそうとする人々に対して「憲法を守れ」というべきところです。 

これは「現実(ザイン)と規範(ゾレン)の乖離」の問題です。現実に合わせて規範を「変更(改正)」するのか規範に合わせて現実を「矯正」するのかです。 

憲法上、同じ「現実と規範の乖離」が問題となっているのが、ご存知、憲法9条です。9条が軍隊の保持を禁じているのだから、軍隊である自衛隊はあってはならない、「憲法を守れ」という主張を共産党をはじめとする戦後リベラルは主張します。 

政府は自衛隊は憲法9条が禁じる「軍隊」ではないという解釈論をもって現状を追認してきましたが、憲法の規範ではなく主権の存する国民が長年容認している現実を尊重してきました。そして、これを憲法上明記することで憲法規範と現実との乖離をなくそうというのが自民党改正案です。 

すなわち、憲法1条の「国民の総意」と憲法9条の「軍隊の保持」とはちょうど対照的に「現実と規範」の「乖離と遵守」を位置を占めているという事なのです。 おわかりいただいたでしょうか。 

僕がいっている「象徴冒瀆罪」としての「不敬罪」は、まさしく「国民の総意」としての「国民統合の象徴」としての「天皇」の地位をいう憲法規範を護持するために必要とされる手段であるということです。明文をもって「総意」であることを要請している「憲法を守れ」です。 

皇室である眞子様を公然と冒瀆する言論は、「国民統合の象徴としての天皇」の地位、そしてそれが「国民の総意」であることを危うくするものです。
これまで国民の良識に委ねて敢えて規制しないという立場をとってきたわが国の法制ですが、眞子様騒動を見る限り、保守派ないし愛国派がこの始末では、積極的に取り締まることで、「国民の総意」である「象徴としての天皇」の地位を護らなければならない局面にきたかのように思えます。

少し、補足します。 
憲法上の文言の意味について解釈が分かれる点において「国民の総意」と似た事例としては、憲法41条の国会の地位について「国権の最高機関」としていることについてあります。 

宮沢俊義以来のかつての通説は、「最高機関」とは「政治的美称」であって規範的な意味はないとしました。これを政治的美称説といいます。これに対して現代の通説である佐藤幸治は、「最高機関」という以上、最高機関に相応しい扱いがなされるべきだという規範的意味を持たせるべきだとし、権限の所在が明らかないこと、例えば緊急事態宣言について国会の承認を要する等の規範的意義が帰結するとしています。  

「国民の総意」についても、それをもって「政治的美称」とおなじような規範的な意味のない規定だということも可能ですが、いやしくも憲法が銘記していることについて無意味と解釈すべきではなく、それが「国民の総意」を護持すべきだとするいわば国体擁護条項として解釈すべきだと考えています。 

主権者たる国民の総意に基づく国民統合の象徴なのですから、天皇の地位は、主権の存する国民の具現化といってよく、しかも、その根拠が「国民の総意」にあるのですから、国民の選挙による議員によって構成される最高機関としての国会の上位にあるものという事ができます。「上位」の意味ですが、それは政治的な権力ではなく、その文化的な権威のことをいうと解し、権威の源泉を具象化した最高機関としてのありようが「天皇」という事になるわけです。 

とにかく、その改正の経緯に照らして明らかなように、日本国憲法は、天皇の地位を決して軽んじるものではないのです。また、「国民の総意」という表現は、GHQが日本を解体するために作ったものではなく、昭和天皇の詔勅に基づいているのです。その事を、「たかが象徴」だとか「国民の下僕」だとか「人間宣言」だとか、事実と真逆に捉えるサヨクの俗流解釈に流されているところが情けなくてしかたがありません。

「国家と国民統合の象徴」「国民の総意」といった憲法上の「天皇」の地位について、保守派がよく認識できていないというところに、現在の天皇を軽んずる言動をして恥じない昨今の風潮があるのではないかと懸念しているところです。

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