【FC徳島】➈チームを最も知る存在 Jリーグや海外でのプレー経験持ち信頼厚く DF石川雅博選手
FC徳島で最年長のDF石川雅博選手(33)=つるぎ町出身=は、チームの歴史を一番長く知る存在だ。2023年シーズンで在籍8年。徳島ヴォルティスなどのJリーグやシンガポール1部リーグでプレーした経験を持ち、他の選手からの信頼も厚い。
チームの良いも悪いも見てきた。加入した2016年は、前身のチームが県リーグから昇格して四国リーグに再び参戦。徳島市の企業が運営面での支援を決めて「FC徳島セレステ」(18年からFC徳島)に名称を改め、JFL入りを目指して選手を補強した。しかし、練習に石川選手を含めて2人、多くて5、6人しか来なかったり、グラウンドが天然芝や人工芝でなく土だったりと厳しい状況だったという。
「試合で勝てず、経営も苦しかった1、2、3年目を我慢でき、その当時のスタッフや選手、みんなが頑張ってきたから、8年目に続いている。それを最初から見てきたのは自分だけなので、忘れずプレーしていく」と力を込めた。
7歳からサッカーを始めた石川選手は、大塚FCジュニア(現・徳島ヴォルティスジュニア)、大塚FCジュニアユース、鳴門高を経て09年、J2徳島ヴォルティスに入団した。県出身の高卒新人での入団は初めてで、大きな期待を集め、1年目には南米パラグアイ4部リーグの日系ベルマーレに期限付き移籍して修行を積んだ。しかし、ヴォルティスでは在籍した4年間で出場したのは1試合のみという厳しい現実を突きつけられた。
チームはJ2のトップクラスやJ1のベンチ選手などを補強しており、若い時からチャンスがもらえるわけではなかった。2年目の途中までは、自分の実力に自信をなくし、練習に行きたくない時期もあった。先輩や周りの環境が良かったことで、2年目の終わりくらいにはサッカーを楽しめるようになってきた。
だが、「4年目で今まで積み上げてきたことをやらなくなってしまい、チャンスもつぶしてしまった」と石川選手。がむしゃらに取り組んできた気持ちに緩みが出てしまった。「4年目をうまく乗り越えられていればという後悔はあるが、それが気づけるか気づけないか」と、ヴォルティスを退団したことで、気づいた部分もあるという。
退団後はシンガポール1部のアルビレックス新潟シンガポールで2年間プレーした。試合に出場する機会もあり、「サッカーをしてきて一番成長できた期間だと思う」と話す。試合に出ないとわからないこともたくさんある中で、それが経験でき、練習ではパスやトラップなどの基礎に多くの時間を割いた。「当時は生意気だったが今思えば自分にとってプラスになり、今もサッカーをできているのはそのおかげかな」と振り返る。
その後、J3グルージャ盛岡に1年間在籍。契約満了となり、JFLなどの選択肢もあったが、プロへのこだわりがあって引退も頭をよぎったという。そんな時、当時のFC徳島セレステの代表と話をする機会があり、「高校や大学、プロでプレーしていた選手が地元でもう一度上を目指すチームをつくりたい」との言葉に奮起した。「プロでサッカーをしないと意味ないと思っていたが、地元でやるってこともあるし、代表と話して心に響いた。それがなかったらやめていた」
しかし、現実は甘くなかった。当時のチームはまだ上を目指す熱意を持った選手が少なく、環境も整っていなかった。「前シーズンまでプロチームでプレーしていたのでありえないことだらけだった。正直、何回もやめようと思った」と打ち明ける。入団時はゼロからのスタートに自分の中で覚悟を決めていたが、「もういいかな」と気持ちが切れそうになった。
再び奮起したのが、ヴォルティスで一緒だった親しい先輩のげき。1年目の終わり頃に身の振り方を相談すると「そんな軽い気持ちでやっていたの?」「そんな覚悟だったの?」という言葉を投げかけられ、思い直した。この言葉がなければ選手をやめていたか、他にチームに移っていたかもしれなかった。
サッカーを続けてきて26年。ベテランの域に入り、「やりがいやモチベーションが少しでもなくなったら引退。それがいつになるかはわからないけど、個人としての目指すものがなくなったら、自分がサッカーをやっている意味はないかな」と心情を語る。「(年齢的にもサッカー人生の残りは長くないので)1年1年勝負してきた。自分の力を100%出したくても出せない時もあるけど、できるだけのことをやってきたので、これからも後悔を少しでも少なくしていけるよう全力を尽くしたい」と話した。(2023年10月取材)