見出し画像

【VOICE】Vol.130 #18 エウシーニョ

――サッカーを始めた年齢ときっかけを聞かせてください。
 年齢はあまり覚えていませんが5~6歳だったと思います。きっかけと呼べるものではないかもしれませんが、ブラジルでは生まれて歩けるようになったときに男の子が始めるのがだいたいサッカーなんですよ。

――チームに所属していたのですか?
 最初はチームではなくて地元の友達と遊んでいるような感じでした。チームに所属したのは10~11歳頃だったと思います。

――チームに所属してからはどんなことを学びましたか?
 グループで考えることと動くこと。あとは基礎となるプレーです。そこから“どこのポジションでやりたいのか?”という進み方でした。

――エウシーニョ選手は基礎・基本の値がすべて高いことが特徴にあると思います。その土台はチームに所属してから養われたのか、それ以前の遊びの中で養われたものなのか、どちらの影響が大きいですか?
 多分、チームに入る前の時間だと思います。地元の友達とプレーしていたのが『土』のグラウンドだったんですよ。土のグラウンドだとボールは跳ねますよね。その中でボールをコントロールしなければいけなかったので、だから小さい頃から基礎となる部分を余計に意識しながらプレーしていました。

――同じように土のグラウンドでプレーしていた地元の友達も全員が上手だったのですか?
  もちろん上手な友達はいましたが、上手な人の名前が挙がるときは僕はだいたいトップ3に名前がありました。周りの人たちは「僕が一番上手だった」と言ってくれます(笑)。

――才能があったということですね。
 はい(笑)。でも、それは周りから言われたことをお話しただけなので、自分で言っていたわけではありませんよ(笑)。

――今ではSBの印象が強いですが、チームに所属してからはどこのポジションを希望していましたか?
 子どもの頃は、中盤をやりたかったんですよ。ポジションで言えばインテリオールやシャドーのような、ボランチの1つ前ですね。10番を背負って、キャプテンマークを着けることに憧れていて、実際に「そこでプレーしたい」と言っていました。

――SBになったのはいつ頃で、どんなきっかけでしたか?
 地元のクラブでプロ入りしてからです。キャリアの本当に最初の頃です。加入した直後は中盤をやっていたのですが、監督から「中盤ではなくてSBの素質がある」と言われました。「SBでできるか?」と尋ねられたので「いつでも」と返答しました。それがきっかけです。

――でも、本当の希望は中盤だったのですね?
 はい、そうです。

――SBになってからは楽しかったですか?
 自分にとっては初めてのポジションでもあったので監督からアドバイスを3つもらいました。それをちゃんと吸収できたと思います。やっていて楽しかったですし、ポジションがフィットしている感じもしました。
 自分の特徴としてSBのポジションだったとしても中央から攻撃参加するようなところがあります。当時の監督が考えていた戦術とも自分のその特徴が合っていました。あとは中盤の選手であればゲームを作らなければいけないイメージがありますけど、SBになってからはそのプレッシャーがなくなって、僕は美味しいところを持っていくようになったと言いますか・・・(笑)。最初の作りに関わってパスを出して、その後は中盤で組み立ててもらって、最後は攻撃参加した自分が再びもらいます、みたいな感じで(笑)。なので楽しかったです

――監督から授かった3つのアドバイスとはどんな内容でしたか?
 1つ目は、サイド攻撃で奥深くまで進入できたときは綺麗なクロスを上げるというよりもGKとCBの間にグラウンダーの速いパスを入れること。
 2つ目は、ボールを失ったら戻ること。
 3つ目は、攻撃の作りで運ぶときは積極的に中央から行くこと。
 その3つをアドバイスされて、それをうまく表現できました。

――エウシーニョ選手のプレーを観ていて印象的なのが、パスが常に前選択であることと、視線が常に一番遠くにあることです。そのスタイルは、どうすれば身につけられますか?
 まず、基本的にボールを受けるときに顔を下げていると相手選手は積極的にプレッシャーをかけてきます。でも、顔を上げているとだいたいの選手がスピードを落とします。相手がスピードを落としたそのタイミングで僕は全体を観ます。それをどうやって身につけたかを言葉で何と言えばいいかはわからないですけど、そういった隙を逃さずに、前を観て、どの選択肢が効果的か考えます。毎回、その選択が思い描いたようになるわけではありませんが、できるだけ冷静にボールを扱ってパスを出すかどうかを決めています。

――顔を上げてプレーするためには、ボールを目視していなくても自分の思い通りにコントロールできる基礎・基本が備わっていないと実現しませんよね?
 それはそうですね。ある程度の止める・蹴るの基本技術は必要です。あとは基本技術があったとしても、自分にとって調子のいい日もあれば、悪い日もあります。なので常にすべてが上手くいくわけではありませんが、基本的には基礎があればできるようになると思います。
 僕の考え方としてはボールを持っている側が有利です。相手はボールを持っている側にできるだけ顔を下げさせてプレッシャーをかけてくるはずです。でも、ボールを持っている側が顔を上げてプレーすれば相手が嫌がることはわかっています。

――『土』のグラウンドでやっていたことが基礎・基本となる技術を引き上げたのかもしれませんね。
 結構、ためになりましたね。


――プロ入りする以前、地元では有名な選手だったのですか?

 有名というわけではありませんが、地元ではそれなりに知られていました。「自分のチームに入ってほしい」という声も結構いただきました。

――プロ入りに至った経緯も聞かせてください。
 プロ入りしたのは16歳です。そのクラブはいろんな場所でアマチュアのサッカー大会も開いていたんですね。そこでスカウトされました。最初は日本で言うところのクラブユースのような大会に出るようになって、そこから結果を残しながらプロになったという感じです。
 僕が暮らしていた地域はサッカーがそんなに強いわけではなかったので、その枠から飛び出して自分がプロになっていくというような考え自体がなかったですし、それでも自分にとっては十分だと思っていました。それに僕はどこかのクラブのアカデミー出身というわけではありませんし、特別な野心や欲というものも持っていませんでした。
 でも、実際にプロになることができてからは色んな場所へ行くようになって、そこで初めてビッグクラブを目指すようになりました。そう考えるようになったのが18~19歳の頃だったと思います。

――プロ入りまで一般的な道筋を辿ってきた選手ではなかったのですね?
 
そのことは家族ともよく話をするのですが「何百万人に一人」というケースなのだろうと思います。普通であれば例えばクラブチームのアカデミーからユースに入ってプロ入りするのだろうと思います。
 ブラジルの諺(ことわざ)で「百万人に一人」というような表現の言葉があるんですけど、まさにそのような感じでした。ただ、天から落ちてきた運というだけではなくて自分で証明をしなければいけない世界ではありましたが、こんなケースは滅多にないことだとは自分でも思っています。とにかく良かったです。ただ、どこのクラブに所属したとしても自分がいつも考えていたことは同じことでした。
 「僕は他の人よりもやらなければいけない、僕は他の人よりも証明しなければいけない」。
 そうやって繰り返してきました。そして、2~3年ほどで僕の人生が180度変わりました。プロ入り直後は「州リーグ」というところが主戦場でした。その州リーグの3部カテゴリーでやっていて、所属しているチームは決して強いチームではありませんでした。でも、僕はその2~3年の間に、その州リーグ3部からブラジル1部まで個人昇格するような形で這い上がりました。本当に簡単な話ではありませんでした。努力はしました。

――「百万人に一人」で間違いないですね。
 ありがとう(笑)。
 
――その成長に至る経緯と、クラブHPのプロフィールにある『影響を受けた選手or指導者』というアンケートの「プロ1年目の時の監督」という回答も何か関係があるのでしょうか?
 その監督が最初に話をした僕を中盤からSBにポジションを転向させた人です。なので、その質問にはそういう回答をしました。

――その未来で川崎Fに加入することで来日することになります。そのときの経緯を覚えていますか?
 川崎Fに加入する直前はブラジル2部でプレーしていました。自分の契約が満了になるタイミングでした。個人的には結果としても数字としてもいい記録を残しているシーズンで、そこに川崎Fからオファーをいただきました。

――ブラジルから地球の真裏にある日本という国からのオファーに対して躊躇はありませんでしたか?
 躊躇はありませんでした。日本に来ることは僕の夢でしたから。家族ともそういった話をしていたこともありました。なので即答でした。ただ、当時はけがの影響で手術明けというような時期でもありました。復帰するまでそこまで時間はかかりませんでしたが、川崎Fはそのことも理解してくれていた上で期待をしてくれていたので日本に行って日本のサッカーをするだけでした。

――なぜ、日本に来ることが夢になったのですか?
 簡単に言えば、自分の周りの人たちから日本について、いい話しか聞かなかったからです。ブラジルのニュースを観ていると日本に行くことを「〇〇選手が“日出ずる国”に行くよ」という表現をされるのですが、そういうニュースも観ていて興味を持つようになりました。

――来日後は、サッカーも生活も直ぐに馴染めましたか?
 自分は覚悟の上で来ているので僕自身は何の問題もありませんでした。それに僕は人見知りで控え目な性格と言いますか(笑)、自分から声をかけることもあまりない性格でして(笑)。日本人にも割とそういうイメージはあったと言いますか、自分の仕事を自分がきっちりやるというような気質に感じました。なので特に気を遣うこともなかったですし、チームのみんなも歓迎してくれたので難しさはなかったです。
 でも、心配だったのは家族のことでした。2人の子どもがいて、下の娘はまだ生まれて4ヶ月でした。妻も日本の生活に慣れるかどうかは心配でした。

――ご家族も日本に馴染むことはできましたか?
 息子が当時5歳だったのですが、息子の笑顔が僕の力になりました。言葉がまったくわからなくても、毎日笑顔で学校に行っていました。妻も慣れた様子でしたし、下の娘は赤ちゃんだったのでわからなかったと思います。そうやって家族が日本の暮らしに慣れてくれたので僕はサッカーに集中するだけでした。

――J1王者を経験したり、2年連続でベストイレブンに輝いたり、素晴らしい時間を過ごされています。自分にとってはどんな経験になりましたか?
 それは家族に感謝するしかありません。外国人が海外でプレーするときには、ピッチ外のところで家族や家庭のことがうまくいっていないと試合に影響もしてしまうと思います。そこは妻がすごく頑張ってくれて僕に心配をかけないように子ども達のことや家庭のことをうまくやってくれたと思います。そのおかげでサッカーに集中できて、チームの優勝に貢献できたり、ベストイレブンをいただけることにつながったと思います。

――川崎Fから清水を経て、2022シーズン途中に徳島に加入されましたが、徳島での日々はいかがですか?
 最初は地方での生活に慣れるまでに少し時間がかかりました。でも、今では僕も家族も慣れて、いい1日を過ごせています。
 サッカーとしては加入初年度にダニエル ポヤトス監督(現・G大阪)の下でプレーしましたが、僕が好きなスタイルで、ボールを持って動かしていくという自分の特徴とも合致していたので、活躍することもできました。昨シーズンはけがの影響もあって出場機会が少なかったので多くは語れませんが、チームには技術のある選手がたくさんいて、個人の特徴もあって、結論を言えばいいクラブに在籍していると思っています。

――それにしてもエウシーニョ選手はDF登録ながら得点力も本当にすごいですよね。徳島では2シーズン半ほどで合計5得点(8月20日時点)、来日10年目で合計31得点を挙げています。リーグ戦だけの話なのでカップ戦も加えれば8得点増えます。相変わらず「美味しいところを持っていくSB」ですね(笑)。
 (笑)。最初にお話ししたように中盤の作りは本当に中央の選手に任せていて、特に川崎F時代は中村憲剛やエドワルドネットがいたり、その他にも各ポジションが本当にすごい選手ばかりだったんですよ。なので僕はサイドを駆け上がって決めるだけでした。
 当時と比べると僕もベテランになってきましたし、ある程度の経験も積んできました。ヴォルティスには若い選手が多くて自分自身が責任を持たなければいけない立場になったという思いもある中で、昔のように自分が得点するという欲よりも、チームとして誰かが決めるという考えに変化もしてきています。と言いながらも、ちょこちょこ得点は決めていますが・・・(笑)。

――最後、ちょっと自慢(笑)。Jリーグで決めたゴールで、お気に入りはありますか?
 3点あります。
 1つ目は、2015年の2ndステージ第1節・FC東京戦(2○0)で決めた得点です。
 2つ目と3つ目は同じ試合だったのですが、2017年の第28節・C大阪戦(5○1)です。

 その3つのゴールが好きな理由は、SBのゴールとしてはあまり無いタイプのものだったと思うからです。もちろん、それは僕が上手だからというのもありますけどね(笑)。冗談ですよ、冗談(笑)。でも、攻撃陣のメンタルを持っていないと決められないゴールだったとは思っています。

――最後に、ご自身が未来で叶えたい夢はありますか?
 僕は今までの人生に満足しています。もちろんサッカーでも私生活でも、これからもやることはたくさんあります。ただ、夢というほどの大きなものはないです。
 でも、ひとつ言えることとして、僕がサッカーをやめる日が来たときには、家族が僕のためにこれまでしてくれたサポートを今度は僕がしたいです。
 サッカー選手の家族というのは、本当にその選手のためを思って生きてくれていると思います。子ども達もそうです。学校の行事や運動会にしても僕は行くことができていません。家族はそういったことを犠牲にしてくれてでも僕のためにサポートを続けてくれています。僕が引退する日が来たあとは、すべてを家族のために、特に子ども達のために。そう思っています。