【VOICE】Vol.131 #21 田中颯
――サッカーを始めた年齢ときっかけを聞かせてください。
4歳のときです。幼稚園でみんながやっていたので自分もやってみようかなという感じでした。
――最初からGKではないですよね?
はい。めちゃくちゃゲームメイクしていました。チームで一番、上手でした(笑)。
――小学校から東京Vのアカデミーに加入していますが何年生からですか?
はじめは少年団のようチームでサッカーをやっていて、東京Vのセレクションをフィールドプレーヤーの選手として受けたのが小学校3年生のときでした。でも、落ちました。
家に帰ったらGKのグローブが置いてあって、親父から「お前はフィールドプレーヤーではなくGKを目指せ」と言われて嫌々GKを始めました。その後も少年団ではフィールドプレーヤーをほとんどやっていましたが、小学校4年生になってGKとして東京Vのセレクションを受けるために少年団でもGKを少しやらせてもらうようになりました。親父がバスケットボールをやっていたので、バスケのチェストパスって言うんですかね、そういう感じでキャッチの練習もしていました。
――小学校4年生で受けたGKのセレクションは、前年受けたフィールドプレーヤーとは全然違いましたか?
うーん、実はそのときは僕らの世代にたまたまGKがいなくて、急きょGKだけが集められたセレクションが開催されたんです。50人くらいいたかな。僕はGKとしてはほとんど素人みたいなものでしたけど受かっちゃいました。
――GKのセレクションは何人が受かったのですか?
僕だけです。
――GKとしてはほぼ素人の田中選手がなぜ受かったのですか?
同年代の選手と比べると身体が大きかったので、それもあったと思います。途中から身長があまり伸びなくなって現在の身長で止まりましたけどね。ただ、当時は同年代ではでかくて、手足が長くて、細かったから、これから先に期待されて受かっちゃったかもしれません。
他には、東京Vのアカデミーコーチから足もとが上手だとは言われていました。それは小学校3年生のときにフィールドプレーヤーとしてセレクションを受けたときから見てくれていて、足もとの技術をGKとしても求められていたので受かったのかもしれません。
――フィールドプレーヤーの経験が活きた格好になりましたが、GKはやりたくなかったのですよね?
まったくやりたいとは思っていませんでした。最悪でした(笑)。でも、受かっちゃったから「やるか…」と。
僕は、FKやCKを蹴るのが大好きだったんですよ。一番目立ちたかったので。GKは蹴らないでしょ。そんなときにお兄ちゃんから南米の選手にFKを蹴るGKの選手(ロジェリオ・セニ)を教えてもらいました。「GKってFKも蹴っていいの!?」って知って、「じゃあGKをやる!」と決めてスタートしました。でも、実際は東京Vに入ると自分よりも上手なキッカーがたくさんいたので一度も蹴ることはなく現在に至ります(苦笑)。
――フィールドプレーヤー時代にはどんなプレーをしていたのですか?
8人制だったと思いますけど、スイーパーと呼ばれるポジションをやっていました。小学校低学年だとだいたい団子状態になりますが、そのこぼれ球を拾って、全員をドリブルで抜いてゴールを決めるみたいなことをやっていました。
――GKの練習は楽しかったですか?
面白かったですよ。東京Vは各カテゴリーに専門のGKコーチがいて、僕はGKとしての経験値がなかったので覚えることが多かったですし、自分が上手くなっていっていることも感じられてめっちゃ楽しかったです。
――GKの面白味を感じ始めたのはいつ頃ですか?
実はGKを始めてすぐです。GKだけのセレクションが開催された翌月にマリノスカップという公式戦が直ぐにあったんです。それに出場して、めっちゃ活躍したんですよ(笑)。準優勝したんですけどMIPに表彰されちゃって「俺、才能あるんじゃないか!?」と思いました。そこから面白くて、自信がついたことで、1番になりたいという気持ちになっていきました。
――東京Vのアカデミーで影響を受けた事柄として、練習の内容なのか、指導者なのか、チームメイトなのか、哲学なのか、何が最も印象に残っていますか?
いっぱいありますけど、やっぱり「一緒になってやるな」ってずっと怒られていたことです。
――どういう意味ですか?
お世話になったGKコーチに言われた言葉なんですけど「チームがいいときには、悪くなるかもしれないきっかけを探さなければいけないし、チームが悪いときには一緒になって下を向いていたらダメだ」ということでした。GKというポジションは”11分の1”にならないようにと、めっちゃ怒られていました。「一緒になってるんじゃない! だったらフィールドプレーヤーとしてやれ!」って。それくらい特別なポジションなんだよってことを常に言われていました。
――影響を受けたチームメイトはいましたか?
藤本寛也(ジル・ヴィセンテ/ポルトガル)と谷口栄斗(東京V)が同じ年で影響を受けていました。でも、名前を挙げ始めたらキリがないですよ。先輩にもすごい人たちがたくさんいて、中島翔哉くん(浦和)、前田直輝くん(浦和)、ポープくん(横浜FM)であったり、そういう人たちと近くで練習することも多かったですし、人数が足りなくて練習に呼ばれることも結構あったんですよ。ジュニアユース時代にユースやトップチームの練習に入ったこともありました。そういう環境だったので日常的に刺激を受けていました。
――カテゴリーの異なる場所で練習するとどんな影響を受けるのですか?
一番は、ただ心をへし折られます(笑)。辞めたくなるし、俺はあんな風に絶対になれないって思うんですよ。
でも大切なのはそこからです。そこからいかに食らいついていけるかどうか。そこからもう一回挑みにいかなかったらその選手は終わります。そういう環境でした。練習では、コーチ陣も選手たちと一緒に参加していて激しくやってきます。都並(敏史)さんもやってくれていました。そこで選手は泣いて終わるのか、泣きながらでも「もう1回やらせてください」と言えるのかどうか、という文化はあったと思います。ピッチ上のこだわりみたいなものはあそこで養ったと感じています。
――少年時代に過ごした環境がバリバリの競争社会と都会育ちでありながら、地方を愛する田舎が好きなタイプというイメージも受けます。
大学時代に京都へ行ってから価値観は大きく変わりました。大学生活で初めて自由な時間がたくさんできて、その時間を過ごした場所が京都でも田舎の方で、東京よりも過ごしやすいことを知りました。原付に乗ってたんですけど、鴨川沿いを運転しながら風を感じて「田舎っていいなぁ」って(笑)。
――大学進学以前はトップ昇格を目指していましたよね?
もちろんです。高校1年生の時には強化部に通信制の高校に変えるように言われて、午前中にはトップチームの練習、夕方にはユースの練習という毎日を3年間送ってました。「トップには上がれない」と言われてショックもありましたし、大学進学を考える時間も遅くなってしまって、既に進学の枠がなくなってしまっている大学も結構ありました。
でも、きっかけがあったことと、環境を変えたいという気持ちがあった中で、京都産業大学に進学することができました。京産大にプロでGKをやっていた時久省吾さんというGKコーチがいたことも決め手でした。東京Vに居た太田岳志くん(現・京都)が時久さんに電話をしてくれて、練習参加できることになりました。お金がなかったので夜行バスに乗って京都へ向かって、練習参加の内容を評価してもらって大学の推薦枠で進学することができました。
僕は京産大に進学していなかったとしたらプロになれていなかったと思います。人としてもそうだし、自分がどういうサッカー選手になるかを考えるきっかけも多く与えてくれて、サッカー選手になる自信も1から作ってくれた場所です。ただ、プロのサッカー選手を目指すということだけで言えば、もっといろんな大学があったかもしれません。僕が入学した頃は関西1部で残留争いをしていて入れ替え戦にも出るような状況でしたから。入学当初はみんなのモチベーションも低くて、そのギャップを埋めながらも自分が高みに行くためにはチーム全体を引き上げられなければ自分は孤立もしてしまう。いろんな葛藤を経験したことが現在にも活きていると思います。同時に指導者や同級生に恵まれて、チームと自分をなんとか引き上げられた4年間だったとも思います。
――京都産業大学はどういうサッカーをやっていたのですか?
入学当初は特に明確なものはなくて「どうやったら勝てるんだろうか」というような状況でした。本当に1からやらなければいけませんでした。まずは信頼を勝ち取るところからでした。最近は変わってきましたけど、当時、僕以外は全員関西の人でした。ピッチ内外で少しずつ信頼を勝ち取りながら、同時に結果でも証明して、自分の立ち位置を確立した後にチームのやり方について言及していくというような作業をやっていく必要がありました。周りからの信頼を得られ始めたのは大学2年次の後期くらいからでしたかね。
そこからは自分で動くようになりました。監督にも「こういうサッカーをしたら勝てる気がするのでやらせてもらえませんか?」という相談をして、チームメイトを何人か掴まえて映像も交えながらミーティングをして、少しずつサッカーを作っていった感じです。
――その当時は関西何部のカテゴリーだったのですか?
関西1部です。でも、大学2年次も残留争いで入れ替え戦に出ている状況で、負けていたら2部に降格していました。
――そういう時期も経て、成績はどうなっていきましたか?
大学3年次も成績は振るいませんでしたが、大学4年次に関西1部の2位まで順位を上げることができました。インカレ(全日本大学サッカー選手権大会)に出場したことは大学でもビッグニュースで、環境がどんどん変わっていきました。
――自分でチーム作りに関与するという行動は京都産業大学に進学していなかったとしたら経験できなかったのでは?
絶対に経験できなかったと思います。小4~高3まで整い過ぎた環境でサッカーをやってきましたが、そういうことが当たり前じゃないということを京産大で学んで、ハングリーさみたいなものも1から作ったと思っています。
――徳島ヴォルティスとの接点について。
大学3年次のデンソーカップでいろんなクラブから声をかけてもらっていて、徳島は3クラブ目くらいに「練習参加してほしい」と声をかけてもらって1週間ほど参加しました。
――最終的に徳島を選んだ理由は何ですか?
哲学がしっかりしていたことです。強化部の求めてくれたことが、自分の特長とも一致していて、自分を観てくれていたと感じました。その当時の監督はダニ(ダニエルポヤトス監督 ※現G大阪)で、自分を評価してくれる角度が他クラブとは全然違いました。自分のことを知ってくれていると感じましたし、もちろん徳島がJ1のカテゴリーだったということも大きかったです。
でも、練習参加からぜんっぜん、連絡がなかったんですよ(笑)。他クラブにも返事をしなければいけないし、大学生だから進路のことは不安で早く決めたいのもあるんですよ。他クラブに返事をしようとしていたら、練習参加から時間は空いていましたが遂に連絡をいただきました。「まじすか!?」ってなって「行きます!」と返事をしました。
――J1クラブからのオファーという決め手もあった中で加入したタイミングでは残念ながら降格してJ2のカテゴリーでした。そのギャップはなかったですか?
そういったギャップというよりも2021シーズンJ1最終節の第38節・広島戦(2●4)をDAZNで観ていて、とても悔しかったです。加入してから僕がこのチームを変えるという強い思いがありました。そういう影響を一番及ぼせることができるのはピッチ上です。でも、僕はプロ1年目から直ぐにピッチに立ってプレーできるレベルではありませんでした。それでもチームに対していろいろ感じることもありながら、悔しさやもどかしさもずっと抱いていました。
――ターニングポイントはありましたか?
プロ1年目はプレーする機会が少なかったんですよ。ダニの練習方法として人形を立てた中で組み立てながらシュートまで持っていくような練習が多くてゲーム形式がほとんどありませんでした。プロ2年目に監督がベニ(ベニャートラバイン監督)に代わって、単純にプレーする機会が増えました。練習方法としてシュート練習がすごく増えましたし、ゲーム形式がすごく増えました。その方法が自分には合っていました。そう感じたきっかけはプロ2年目のキャンプで身体のキレがそれまでとは全然違っていたことです。僕は(長谷川)徹くん、ホセ(アウレリオスアレス)、(三井)大輝と比べて能力が低いGKです。練習方法が変わったことで自分の感覚も違ってきていて、その年のキャンプで一番最初にやった練習試合の鹿島戦では1本目のGKとして起用してもらって、そのときにプレーできた感覚も良かったんですよ。少しずつ「勝負できるかもな」と思うようになりました。求められることもどんどん増えていく中で成長を実感してキャリアが少しずつ始まった感覚がありました。
――昨シーズンは自分自身のプレーに必死な感じがしましたが、今シーズンはもう少し俯瞰でチームに向き合えるようにも成長している感じがします。
序盤はチームとして至らないことが多くて責任を感じていました。直近の試合でもそうです。第32節・いわき戦(0●1)で前半のうちに得点を取れなかったとか、前節の第36節・群馬戦(2○0)でも勝利はできましたが3得点目4得点目を取れなかったとか、終盤の時間帯に自分たちのCKからカウンターをプレゼントしてしまった中で自陣に戻れていなくて最終的にファールで止めてしまってゴール前でFKを与えてしまったとか。そういうことにも、ものすごく責任を感じています。
「GKとしてチームメイトに求めること」を増田監督からも求められています。そこが自分には足りなくて自分に対してもどかしさを感じます。直近で言えば結果的に2試合連続で無失点が続いていますけど、そんなの結果論でたまたまです。相手に機会を作らせてしまっている時点で状況が違えば失点をします。そういうことが起きないように自分がやっていかなければいけないと感じています。
何て言えば言いだろうな。試合結果がどうだったとか、前節は勝っているとか、相手が最下位だとか、そんなところじゃないんですよ、継続して積み上げていくものは。出場できずにピッチ外で観ていた頃からずっと感じていて、そういう弱さをチームに感じていました。
それを僕が変えていかなければいけないし、それを自分も一緒になってやっちゃダメだって感じています。
――『!?』。東京V時代の教えが伏線回収みたいでビックリしました。
たまたまです(笑)。そこに落ちていたので拾ってみました(笑)。
――いずれにせよ覚悟を感じるエピソードでした。話は変わりますが、今シーズンは田中選手と応援してくれている人たちとの距離が昨シーズンよりも近くなったように感じます。
楽しんでるだけですよ(笑)。京都の学生時代にも感じましたけど、地域の人たちから愛を受け取ることができるのは醍醐味なので。人として普通でしょ。
――東京だけで暮らしていたとしたら得られなかったのではないですか?
それはそうですね。だから楽しいですよ。
――サッカーも都会で暮らしている人が都会のクラブを応援することと、地方で暮らしている人が地元のクラブを応援することは少し異なる色味があると思いませんか?
本当に生活の一部というか、本当に生きがいにしてくれていると感じます。それが徳島って素敵だなって思うことです。
――出かけたら直ぐに声もかけられるでしょ?
そうですね。声もかけていただけますし、飲食店に行くと「これ、アイスあげるけん! 食後に食べよ~」って言ってもらえたりもして、そういうことも都会だとあり得ないというか、すごく身近に感じてくれているんだなぁって実感します。すごくうれしいっす。“お腹いっぱいなのに(笑)”と思いますけど、すごくうれしいです(笑)。
――気持ちなので受け取っておきましょう(笑)。余計に頑張ろうという気持ちになりますか?
なります。僕は特になります。
――今節・鹿児島戦は、クラブ設立20周年のホーム最終節です。残念ながら目標に到達することはできませんでしたが、この1年間はどんなシーズンでしたか?
今年はシーズン最初にチームとして本当に苦しい想いをしました。そこに自分が出場できていなくて、当事者になりきれていなかったことも悔しかったですし、自分自身もその問題にもっとチャレンジをしたかったです。現在は自分の出場機会が増えている中で、より自分がやらなければいけないと感じています。
GKとしても、徳島ヴォルティスの選手としても、僕はまだまだ力が足りない部分があるし、もっともっと追求していかなければいけないです。その中でも一番大切だと思うのが、想いや姿勢を持ってピッチに立つことです。そこだけは、どんな環境だとか、どんな結果だとか関係なく、どんなときも絶対に大切にしたいです。そういう想いや姿勢を持ってピッチに立つことができていれば、徳島の人は見捨てずに助けてくれるんじゃないかなって思っています。
――ホーム最終節、どんな姿を見せたいですか?
今シーズン本当にいろんなことがありました。それでも付いてきてくれたサポーターの人たちに、スタジアムに来て良かったと思わせられる試合をしたいです。
――最後に、“田中颯”の夢や目標を聞かせてください。
「日本一のGKになる」という目標をずっと持っています。自分には可能性があると思っているので。まだまだ未熟ですけど、いろんな人の力を借りながら少しずつでも近づきたいです。そして、今は徳島がJ1に定着するためにすべてを尽くしたいです。