人間に生まれて来たことは超ラッキー!
こんにちはトクです。本日もお読み頂きありがとうございます。
今回は、仏教的、スピリチュアル的に人間に生まれて来たことは超ラッキーなことである。そんな風にはお話しを書いてみたいと思います。
それともこんな苦しい人生を送るならいっそ犬や猫に生まれれば良かったと思いますか?
実は、私は後者の方でした。
難治性うつ病で10年以上も苦しみ。仕事も休職と復職を繰り返す。
周りの職員からは「うつ病の人」というレッテルを貼られ、まともな仕事を与えられない。
仕事もないのに職場のデスクにいるのは地獄絵です・・・。うつ病等の精神的病を患った経験がある方なら、同じような経験があるのではないでしょうか?
こんな苦しい思いをするのならば、いっその事犬や猫に生まれて来たかったと何度もそう思いました。
そんな思いから、リストカットや自殺未遂を繰り返したのです。
ところで、話は変わりますが、人間に生まれることはとても奇跡的なことで大チャンスである。
そんなお話を書いてみたいと思います。
これは仏教の開祖であるお釈迦様が弟子の阿難尊者に問われた言葉です。
「お前は人間に生まれて良かったと思うか?」
阿難尊者が「もちろん良かったと思っています」と答えると、すかさず「では、どのくらい良かったと思っている?」とさらに尋ねました。
阿難尊者が答えに窮していると、お釈迦様は人間に生まれることがどれほど確率の低いことか話し始めました。
広い広い海(太平洋と思って頂ければ良いと思います)のそこに目の見えないカメがいる。
そして、その広大な海に一本の丸太が浮かんでいる。その丸太にはちょうど亀の頭がはいる大きさの穴があいている。
丸太は風邪に吹かれて北へ行ったり南へ流れたり、東に行ったり西に流れたりしている。
そして、目の見えない亀は100年に一度だけ息をするために海面まで上がってきて海の上に頭を出す。
さて、この目の見えないカメの頭が、丸太の穴に入ることはあるか?
こう問われた阿難尊者は「絶対にないとは言いきれませんが・・・。とても低い確率でほとんど無いと言っても良いと思います」と答えました。
するとお釈迦様は「人間に生まれるということは、この亀の頭が丸太の穴に入るよりももっと難しいことなのだ」と答えられたのです。
「人身受け難し、今すでに受く」ですね。
人間に生まれて来るのは奇跡的な確率であることは分かったとしておきます。
しかし、いくら確率が低く奇跡的な確率であっても、人間に生まれて来ることが苦しみであったなら意味がありません。
先述のとおり、私は難治性うつ病で10年以上も苦しみました。仕事が出来ない苦しみの他にもお金が無いと苦しみも味わいました。
住宅ローン返済が滞り、自宅を手放さなければならない危機もありました。
そんな苦しみに満ちた人生であっても、人間に生まれて良かったのでしょうか?
ここからまた、話が戻ります。
そもそも人間とは生まれては死に、また、生まれては死ぬを繰り返している存在です。それを輪廻転生と言いますね。
仏教では「六道輪廻」と言って6つの世界をグルグルと回っている言います。
その6つとは上から順番に
〇天界
〇人間界
〇修羅界
〇畜生界
〇地獄界
です。
天界とは寿命が何百年とあり何不自由のない生活が出来る世界です。しかし、いつか必ず死んで天界から去らなければならない時がやって来ます。
修羅界は常に戦いがある世界です。世界大戦が毎日起きているような世界なのかもしれません。
畜生界とは、牛や馬。犬や猫といった動物の世界です。弱肉強食の世界ですね。牛や豚のようの人間の食事となる為に生かされているものもあります。
地獄界とは、まさに血の池地獄や針山地獄といった世界です。お腹が空いてたまらないのに、食べ物を口の近くに持ってきた瞬間に、その食べ物が燃えて無くなってしまう。そんな苦しみに満ちた世界です。
さて、人間に生まれて良かったの話に戻ります。
一見すると人間界よりも天界に生まれた方が良いような気もするのですが・・・。
人間の本質である魂の目的は、この六道輪廻から脱出することです。いわゆる解脱ですね。
悟りを開くとも言いますね。
それを考えると、人間が一番解脱するチャンスがあるのです。
天界では享楽に溺れるあまり、解脱自体に興味が無くなってしまうようです。そして、いざ寿命が来た時に苦しむのです。
天界の住人とはいえ、いつか必ず死んでいく運命なのです。
修羅界は戦いことに精一杯で解脱どころではありません。
畜生界は本能のままに生きる世界なので解脱は考えられません。
地獄界は苦しみのために、現在どころではありません。
こうして6つの世界を見てみると、輪廻転生から抜け出すには人間に生まれることが最大のチャンスなのです。
だから、人間に生まれて来たことを喜びなさい。ということなんですね。
もちろん、人間に生まれて来たから全員が解脱出来るかといえばそうではありません。
仏教的には修行をしなさいと、言うのかもしれません。
しかし、スピリチュアル的には解脱とは「思い出すこと」。
私達はすべて同じ「大いなる存在」の一部であったこと。其れは今現在でも変わりないこと。
それさえ思い出せば、そのまま救われる。
「救われる」という言葉自体が適切ではないのかもしれませんね。
それだけの違いしかないのです。
これを仏教を浄土真宗的に言うと「阿弥陀仏に救い取られている」となるのかもしれません。
ここまで、拙い仏教の知識とスピリチュアル的な知識を自分なりに組みあわせて話をまとめてみました。
仏教に詳しい方が読まれたら「これは解釈が違うよ」という点が多々あるかもしれません。
その点はご容赦頂きたいと思います。
それでは最後までお読み頂きありがとうございます。