源義経はチンギス・ハーンになった!?
こんにちは、トクです。今日は、いつものような、うつ病のお話ではなく、歴史上のちょっと不思議なお話をしてみたいと思います。
学生時代は、歴史の授業中が結構好きでした。歴史にはロマンを感じます。しかし、教科書に載っている歴史は真実なのでしょうか?
歴史は常に勝者の手によって書き換えられて来ました。古事記、日本書紀の時代からずっとです。敗者側の書いた歴史書は偽書として扱われているのです。
そんな、一方向の視点からしか書かれていない、教科書は真実を伝えたているとは思い難いのです。
さて、前置きが長くなってしましましたが、今回は、源義経について書いてみたいと思います。源義経があのチンギス・ハーンになった。という驚き話しです。
ご存知の通り、源義経は、兄頼朝の怒りを買って追討令を出され、最後は奥州平泉で自決したことになっています。
義経が頼朝の怒りを買った理由としては、義経が頼朝の許可を得ずに、朝廷から官位を授かったことが挙げられています。
しかし、これにも色々な説があり、力を付け過ぎた義経に対して恐怖を覚えた頼朝が、手遅れになる前に殺してしまおうと考えたという説もらうことがあります。
このように、歴史の出来事一つひとつには様々な解釈、説があるのです。
特に、人間の感情が絡んで来るとより一層それが顕著になります。
もっとも、人間の行為は、すべて感情が元にあるので必然的に歴史上の出来事には人間の感情が絡んで来るのですが。
さて、話を義経に戻します。兄頼朝の追討令を受けて北へ逃れた義経ですが、定説では奥州藤原氏に匿われていたことになっています、そして、藤原忠衡の裏切りに合い、最後は自決したことになっています。
話が少し戻りますが、山伏に扮装した義経一行が奥州に逃げ延びる前に、今の石川県の安宅の関で富樫泰家に正体を見破られます。
その時に、義経の家来である弁慶が「東大寺復興勧進のため諸国を廻りおり候」と形だけの巻物を広げて勧進帳の空読みをして欺いた。
また強力(荷役)姿の義経が咎められようとすると、弁慶は金剛杖をもって義経を打ち据えた。
それを見た富樫泰家は、弁慶の忠誠心に感動して安宅の関の通行を許してしまった。という話が残っています。これが歌舞伎で有名な勧進帳ですね。
この富樫泰家の行為がなかったら、義経=チンギス・ハーン伝説も生まれようがなかったのです。
さて、また話を戻しますが、藤原忠衡の裏切りに合い、最後は自決したことになっている義経なのですが、義経は本当に奥州平泉で自決したのでしょうか?
何故、ここ疑問が生じるかと言うと、義経の首実験が出来ていなかったからなのです。それでは、何故、首実験が出来なかったのか。
それは、不思議なことに義経の首が鎌倉に送られるのに43日間もかかっているのです。当時でも普通なら20日あれば行けた距離なのに、何故、倍以上の時間をかけたのか?
季節は6月です。普通に行ったら首実検で頼朝は首の持ち主が義経ではないことが分かるでしょう。
と言うことは、鎌倉に送られた首は義経本人のものではない・・・。義経の首ではなかったからこそ、わざと時間をかけて首が傷むのを待って運んだ・・・。
では、誰の首だったのか?これも一説によると、義経の側近で義経によく似た姿をしていたいわゆる影武者の杉目太郎(杉妻太郎)だったという説があります。
では、自決しなかった義経は、その後どうしたのか?
ここからがいよいよ本番です。いや~本当に前書きが長くなってしまいました。本当にお待たせしました。
自決をしなかった義経は、実は北海道に渡ったのです。
北海道には義経ゆかりと言われる地がたくさんあります。ほぼ北海道全土にわたってあります。
中には義経を祀った神社まであります。義経はアイヌの人々と融和し、農耕や舟の作り方、操法、機織り等の技法を伝授し、アイヌは義経をホンカンカムイと呼んだという話まで、まことしやかに伝わっています。
そもそも、義経がかくまわれていた奥州藤原氏と蝦夷とは当時から海洋貿易による繋がりがありました。だから、義経が北海道に渡った可能性も大いに考えられるのです。
では、なぜ北海道に渡ったのか?それはアイヌ民族を従えて鎌倉に逆襲をかけようとした。そんな説もあるんです。
当時の蝦夷地には奥州藤原氏との交易で得た莫大な財産があったことは、出土した古銭郡からわかっています。
義経はアイヌ民族の戦力と財力を手に入れようとした・・・。さらには、蝦夷地に農耕を教えて兵糧も確保しょうとした。
その証拠としては、アイヌ民族の間では、義経は農耕の神様として祀られているのです。
ここまでは、なんとなく理解できるのですが・・・。
しかし、歴史上では義経が鎌倉に逆襲をしたという証拠はありません。
さらに不思議なのは、海を渡ったロシアに源氏の家紋である笹竜胆の紋が付いた建物があるのです。
ということは、義経は北海道からロシアに渡った?そしてモンゴルまで辿り着きチンギス・ハーンとなった?!
話が一気に飛んでしまった感があるのですが・・・。義経が自決をしたとされる年令は31歳です。
仮に自決をせずに蝦夷地に渡り、さらに海を渡ったとしたら・・・。各地に残る伝承によると、蝦夷地を転々として大陸に渡ったのが47歳頃になるそうです。
これは、チンギス・ハーンがモンゴル帝国を築いた時の年令とほぼ同年齢なんです!
歴史上に義経がいた頃には、チンギス・ハーンは歴史上に出て来ません。
そして、歴史上から義経が消えたらチンギス・ハーンが歴史上に現れた・・・。
ただの偶然と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、実は私はもう一つ証拠として上がっているのが「弓」なのです。
当時のモンゴルでは小さな弓を使っていたのですが、チンギス・ハーンの弓だけは大きな弓だったのです。そして、その大きな弓を使っていたのは日本人だけだった・・・。
逆にチンギス・ハーンが源義経でなかったとしたなら、何故、チンギス・ハーンが大きな弓を持っていたのかが疑問として残ります。
こんな話を聞くと、源義経は実はチンギス・ハーンだった説も信ぴょう性があるとまでは言えませんが、まるでデタラメの空想だとも言いきれない気がしてきますね。
あの広大なモンゴル帝国を築いたのが日本人だったと考えるのはとてもロマンを感じますね。
時代は違いますが、モンゴル帝国が日本を侵攻して来たのは、チンギス・ハーンの遺志を叶えるためのものだったかも・・・。そんな気もしてきました。
いかがだったでしょうか?お楽しみ頂けたでしょうか?私は、スピリチュアルな話も大好きですが、この話のようなロマンがある話も大好きです。
世の中実際に歴史上の出来事には、時間が経ってから修正されるものもあります。証拠となるものが後から出てくるケースがあるからです。
義経=チンギス・ハーンとまでは行かなくても、義経が奥州平泉で自決はしていずに、北海道にまで逃げ延びた証拠が出てくる日が、いつか来るのかもしれません。
それでは最後までお読み頂きありがとうございました。
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