祖父の危篤まではいかないけど、危ない時

「おじいちゃん、いつもと違って心配な状況みたい。
会わせたい人がいたら連絡するよう、お医者さんに言われました。」

そんなメッセージが今日母から家族ラインに送られてきた。


私は去年から、
台湾人の夫と二歳の息子と台湾に移住した。

つい一週間前、
3ヶ月ほどの一時帰国を終え、
台湾に戻ってきたところだ。

現在はまだ2週間の隔離中である。

一時帰国した理由はいろいろあるが、
一年ほど前からホスピスに入院している祖父の顔を見ることもその一つであった。

両親が共働きであったため、
小学生のころは毎日放課後から夕ご飯まで祖父の家で待っていた。
習い事の送り迎えや遊び相手までなんでもしてくれた。

私が国際結婚するときも、
誰も反対してないのに、
「誰に何を言われても、お前が選んだ相手を信じて結婚すればいい」と言ってくれた。

私が妊娠した時も、
会うたびにお腹をさすって「元気に出てこい」と初ひ孫に声をかけ、
産まれた後も
「お腹の中にいる時から声を聞いていたから、俺の声が落ち着くんだ」
と自慢げに話していた。

私にとって優しくて大好きな祖父である。

祖父は元自衛官で60歳過ぎまでフルマラソンが趣味だったような
元気なおじいちゃんだった。
それが二年前から急に足がおぼつかなくなり、
脳の難病だと診断され、
あっという間に車椅子とベッドの往復の生活になってしまった。

祖父の病気は、
体は衰えるが、認知機能はそんなに影響はないと言われていて、
実際どんどん体の自由が効かなくなっても、
思い出話や息子の話などたくさんおしゃべりをしていた。

だが、最近は徐々に喉の筋肉も弱っていったのか、
それとも別の要因で認知症が進んでしまったのか、
おしゃべりもままならなくなってきてしまった。

「今日おじいちゃんのところに面会に行ったら、『おう』と返事してくれたよ。」
という状況であれば、
「今日は調子がいいんだね!」
ということになるくらいだった。

だんだん反応が少なくなっていく祖父であったが、
ひ孫である私の息子を見ると、
口が緩んだり、目を見開いたり、
普段以上に反応があった。

残念なことに、昨今の感染症のせいで、
子供は室内に入ることができなかったため、
いつも祖父とひ孫の面会は窓越しであったが、
祖父はひ孫を抱っこしたそうに窓に向かって腕を伸ばしてくれていた。

できれば一秒でも多くの時間を祖父と過ごしたい。
そう願っていても、台湾での暮らしもそろそろ目を向けなくてはならない。

台湾に戻る直前は連日祖父の部屋に行き、
祖父が大好きな「知床旅情」をかけながら、おしゃべりをした。
(側から見ると、一方的に私が話しかけているだけだが。)

一時帰国の際は毎回そうであるが、
最後の面会の帰りは、
「もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。さっきのがおじいちゃんに会える最後になってしまうかもしれない。」
という縁起でもないから口には出せない寂しさが身体中に巡って涙が出てくる。

今回もそうだった。
でも不安に潰されそうになっても、毎回祖父は頑張ってくれて、
再会できていた。

きっと今回もそうだろう。
次の一時帰国の際には、コロナも落ち着いて、
息子も一緒にお部屋で面会できるだろう。と考えて、
涙を引っ込ませた。

だが台湾に戻ってきて一週間で、
冒頭の母のメッセージが届いたのである。

そのメッセージがくる30分ほど前、
実は母からテレビ電話があった。

「今おじいちゃんのお部屋にきたよー」
と映し出された祖父は鼻にチューブをつけていた。
表情もなんだかいつもと違ってパッとしなかったし、
母の目を物悲しげだった。

一緒に画面越しの曽祖父を見ていた息子も、
「ひいじいちゃん、お鼻どうした?」と不思議そうに聞いていた。

なんとなく異様な雰囲気を感じながらも、
祖父が寝てしまったのでテレビ電話を切ることにした。

その時に感じた嫌な予感は的中してしまったということだ。

なんで今?
コロナがなかったら息子とたくさん触れ合わせることができたのに。
コロナがなかったら、今すぐに日本に帰ったのに。
私は祖父に十分孝行できたのか?

じわっと涙が溢れてきて、
母にどう返事をしたらいいか分からず、私は3歳下の妹に電話をかけた。

妹は末孫ということもあって、
祖父と1番関係が深かった。

祖父が自分で自由に電話をかけていた頃、
シニア用の携帯によくあるワンタッチの通話機能には、
孫の中で唯一妹の携帯電話番号が登録されていて、
妹が大学進学で上京してからも毎日のように、
どころか毎日何回も電話をかけていたそうだ。

妹は明日の仕事を休むか迷っていた。
私自身がすぐに駆けつけてあげられない無念を妹に押し付けるようで申し訳なかったが、
可能であれば明日仕事を休んで今日実家に帰った方がいいとアドバイスした。

杞憂であればそれに越したことはないが、
ことが急変した時に後悔がないようにして欲しかったし、
妹が祖父の病院に着いたときに、私も改めて電話で祖父と話したかった。

妹は急遽休みを取る段取りを組んで、
実家に帰ることになった。

電車で約一時間、
実家の最寄り駅から祖父の病院まで車で40分ほど。

妹が祖父の病院に到着する間、
私は隔離ホテルの部屋で祖父と電話が通じたときに何を話そうが考えていた。

私は祖父がまだ意識があるうちに、
「ありがとう」と「大好き」が伝えたいと考えた。

陳腐な言葉だが、
今はそれだけ伝わればいいと思った。

ただ、「大好き」はともかく、「ありがとう」はお別れの言葉のようで、
それを耳にした祖父も、
また口にした私も弱気な気持ちになってしまうんじゃないか。

だからと言って、
今まで同じ話をしてるだけで自分は後悔しないのか?
「おじいちゃん、今まで大切に育ててくれて、
いつも味方してくれてありがとう。
これからは私たちが恩返しするから、もう少し頑張って長生きして。」
こう伝えれば、ありがとうの気持ちも伝わるし、お別れの言葉のようではなくなる、よしこれだ!

妹が病院に到着して、
テレビ電話をかけてきてくれた。

「おじいちゃん大好きだよ」
この言葉は難なく伝えられた。

でもどうしても、
「ありがとう」が言えなかった。
なぜだか分からないが、どうしてもしんみりした雰囲気が出てしまうのが嫌だった。

祖父の容態は特に変わらずで、
朝よりは熱が下がっている。
看護師の方の話によると、
祖父の年代は急変する可能性があるから、万が一の時に備えて今後の対応とかを家族の意向を確認したいとのことだった。

つまり、危篤というほどではないが、
安心できる容態ではなく、
今後どうなるのかは誰も分からないとのことだった。

祖父の元に駆けつけてあげることができず、
隔離ホテルの中でめそめそしてるしかできない私であったが、
それでも祖父の状態を共有してくれ、顔を見せてくれた家族に感謝した。
せめて祖父のために祈ることができるからだ。

そう考える中で、
私は数年前の出来事を思い出した。

上記の祖父は母方の祖父だが、
数年前に父方の祖父が亡くなった。
ここでは区別しておじいと表記する。

当時私は東京に住んでいたが、
同棲していた当時の彼氏(現夫)と喧嘩して、
急遽実家に帰ることにしたのだ。

家に到着後程なくして、
おじいの入院している病院からおじいが心肺停止の状態になったと電話がきた。

タイミング悪く、
父は前日から1週間ほどの海外出張に出ており、
また妹も友人と海外旅行に行っていた。

父にはもちろんすぐに国際電話をかけたが、
どうしてもすぐには帰国できないということで、
葬儀屋さんに相談すると、
1週間後にお通夜とお葬式がするよう手配してくれた。

妹は後3日ほどで帰ってくるので、
私と母は相談して、
妹が帰国したからおじいの訃報を伝えようと決めた。

学生の格安旅行なので、
当然帰国便の変更はできないだろうし、
帰ってきたところで、
父の帰国を待つだけだから、
せっかくの旅行は何も心配させずに楽しませてあげたい。

これが最善の策だと、
当時は思い切っていた。

祖父とおじいは、
油断を許さない状態と心肺停止で状況は違えど、
私と当時の妹はすぐに駆けつけてあげられない同じ条件下で、
私は祖父の状況を共有してもらえて感謝している。

あれ?
あの時私は妹にしたことは本当に最善だったんだろうか?
妹だって何もできなかったにしても祈るだけでいいから、おじいを想いたかったんじゃないか?
後からおじいが大変な時に私は遊んでたって後味悪い思いをしなかったか?
どうせすぐに駆けつけられないと私が勝手に思い込んだだけで、
本当は高い航空券を買ってでもおじいの元に駆けつけたかったんじゃないか?

妹から当時の私と母の行動について、
文句を聞いたことが一度もない。

しかし、自分の現状と重ねて、
そんな思いが湧き出てきた。

自己満の謝罪になってしまったかもしれないが、
妹に当時の行動について謝罪した。

すると、
「当時別の選択をしていたら、どうなっていたなんて分からないし、
私もお姉ちゃんもその時選べる最善の選択をしたんだと思う。謝ることはない。」
と返事をしてくれた。

自分自身も、
もし過去に戻れたとしたら、
旅行中の妹におじいの訃報を伝えたか?と考えると、
すぐにYESとは言えない。

どんな選択をしても、
後悔は残るのである。

それでも、その時自分が考えて選べる最善策を選んでいるはずだ。

祖父に関しても、
・なぜ今?
・もっと息子と触れ合わせてあげたかった。
・もっと感謝の気持ちを伝えればよかった。
と止めどない後悔は湧き出てくる。

でもきっと、私は今までも祖父に対して、
自分ではどうしようもない状況のなかにいながらも、その中で自分の最善を尽くしてきたはずである。

・なぜ今?
→自分が日本にいない間に何かあるかもしれないと毎回覚悟しながらたくさん面会に行ったじゃないか。
・もっと息子と触れ合わせてあげたかった。
→病院のルールがある中でも、息子も何度も窓越しの面会に連れて行ったじゃないか。
・もっと感謝の気持ちを伝えればよかった。
→言葉じゃなくても行動で伝えてたじゃないか。

しかも、祖父は今頑張っているとことなのだ。
まだまだ私が祖父のために最善を尽くせる余地はあるのだ。

「もう、あの時は心配したよー。」と、
息子を連れてまた面会に行ける日を祈りながら、祖父を想う。

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