曹操の子どもたち
三国志の英雄のひとりである曹操の子と言えば、誰が思い浮かびますか? 張繡に奇襲されて戦死した長男の曹昂と、魏の初代皇帝となった曹丕、そして曹丕の同母弟である曹彰、曹植の4人が有名ですね。また、曹丕たちとは母親が異なる曹沖も、若くして亡くなってしまいましたが非常に賢かったことを示す逸話が残っています。しかし、歴史書の『正史 三国志』(ちくま学芸文庫)を読むと、曹操には男子だけで25人も子がいたそうです。女子もたくさんいそうですが、存在がはっきりしているのは4人です。ここでは男子について見ていきます。
13人の妻と25人の男子
歴史書『三国志』には、曹操の13人の妻と25人の男子が記載されています。曹丕が皇帝の座についてから皇太后になった正妻の卞夫人以外は、男子の母親として記録が残るのみで、詳しいことはわかりません。以下がその一覧です。
劉夫人=曹昂(豊愍王・197年没)、曹鑠(相殤王・早逝)
卞夫人=曹丕(文帝・226年没)、曹彰(任城威王・223年没)、曹植(陳思王・232年没)、曹熊(蕭懐王・早逝)
環夫人=曹沖(鄧哀王・208年没)、曹拠(彭城王)、曹宇(燕王)
杜夫人=曹林(沛穆王・256年没)、曹袞(中山恭王・235年没)
秦夫人=曹玹(済陽懐王・早逝)、曹峻(陳留恭王・259年没)
尹夫人=曹矩(范陽閔王・早逝)
王昭儀=曹幹(趙王・261年没)
孫姫=曹上(臨邑殤公子・早逝)、曹彪(楚王)、曹勤(剛殤公子・早逝)
李姫=曹乗(穀城殤公子・早逝)、曹整(郿戴公子・218年没)、曹京(霊殤公子・早逝)
周姫=曹均(樊安公・219年没)
劉姫=曹棘(広宗殤公子・早逝)
宋姫=曹徽(東平霊王・242年没)
趙姫=曹茂(楽陵王)
没年もわからず「早死した」としか記録されていない男子は曹鑠ら9人。上記一覧では「早逝」と表記しています。曹操よりも早く亡くなった男子は曹昂、曹沖、曹整、曹均の4人です。彼らの諡には「殤」や「愍」「哀」「懐」の字が含まれています。
生まれた年が分からないので早逝した9人のうち何人が曹操より早く亡くなったのかはわかりませんが、後漢の丞相にして魏王にまで昇りつめた曹操ほどの立場でも、戦乱や病気によって子の半数を失ってしまう時代でした。曹操は220年に66歳で亡くなりましたが、後継ぎの曹丕は同年に皇帝になったものの226年に40歳で亡くなりました。曹丕の子で魏の明帝・曹叡も36歳で亡くなっています。こうしてみると、戦乱の時代を生き抜いた曹操が割りと長寿であり、40歳前後で亡くなるのは珍しくないようですね。
それでは、ここからは早逝して逸話が残っていない子を除いて、曹操の子について歴史の記録をもとに、想像をふんだんに加えて語っていきます。
卞夫人の子どもたち
曹操が丁夫人と離縁した後、正妻のポジションについたのが卞夫人です。彼女が生んだ4人の男子のうち、曹丕、曹彰、曹植は物語『三国演義』にも登場し、特に曹丕と曹植はそれぞれに取り巻きがいて、どちらを曹操の後継者にするかという政治的な争いが起きていました。その前にも、曹植が曹丕の妻・甄夫人に横恋慕しているとの話もあり、多くの創作物で2人の兄弟の関係は非常にドラマチックに描かれます。
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