見出し画像

最愛の兄を失った臨床心理士が病んだ人々を救おうとする骨太の社会派ミステリー/『グレイの森』水野梓

 小学校受験に起因する苦悩と救済

 社会派小説の書き手にとって、取材の蓄積が強みになることは間違いない。取材に長けた専業作家も多いが、報道メディアの人間はプロならではの鋭さを備えているはずだ。水野梓はその好例といえるだろう。

 まずは「鈴木あづさ」を紹介しておこう。鈴木あづさは一九七四年東京都出身。早稲田大学第一文学部とオレゴン大学ジャーナリズム学部を卒業し、九九年に日本テレビ放送網に入社。社会部デスク、NNN中国特派員、ドキュメンタリー番組のプロデューサー、読売新聞の編集委員などを経て、報道番組のキャスターを務めた。現在はNNNロンドン支局長に就任している。

 二〇二一年に「水野梓」名義で発表したデビュー作『蝶の眠る場所』は、ドキュメンタリー番組の記者・榊美貴が小学生の転落死を取材し、その祖父である死刑になった男の冤罪疑惑を追うサスペンス。第二作『名もなき子』は介護施設で事故死が相次ぎ、美貴が高齢者介護や無国籍児の問題に対峙する話。第三作『彼女たちのいる風景』は苦難を抱える三人の女性たちのドラマだった。最新作『グレイの森』は小学校受験を題材にした書き下ろし長篇である。

 三十歳の臨床心理士である水沢藍は、大学時代の恩師・斗鬼伊知郎が営む「斗鬼クリニック」に勤め、他人に性欲を感じないアセクシュアルの同僚・潤(本名は潤一)と同居している。ボランティアでこども食堂を訪れた藍は、友人の沙智に小学校教師の井藤由香を紹介され、不登校の六年生・早見綾香の家庭教師をすることになった

 藍は拘置所の近くで倒れた女を介抱し、生気のなさを心配して名刺を渡す。ほどなくその女・山田聡美がクリニックに現れ、息子が小学校受験に落ちたことを語った。藍は綾香のリストカット痕に気付き、綾香の弟・当麻が大澤学園初等部の事件――二十四歳の男が小学校に侵入し、七人の児童をナイフで殺害した悲劇の被害者だと知る。五歳上の兄・貴之を失った藍には、綾香の喪失感が他人事には思えなかった。息子を苦しめたことを悔やむ聡美、弟を亡くした悲しみと家庭や学校での孤立に耐える綾香。藍は二人を救おうとするが、そこには皮肉な事実が隠されていた。

 ヒロインが関係者たちの想いに触れ、兄の死の真実を追い、困難に挑むプロットには王道の面白さがある。しかし本書の肝はそれだけではない。小学校受験の異常性、犯罪者に対する世間の反応、女性の生き方、貧困児童などのファクターを色濃く織り込み、物語と人物に厚みを加えた構成は、本物の社会派の底力を感じさせるものだ。

 根の深い問題を扱いながらも、わずかな光を灯し、読者を導く書きぶりはすこぶる達者。作品ごとにテーマを変えてきた著者には、書きたい題材がまだまだあるに違いない。今後を注視すべき作家の一人である。

最愛の兄を失った臨床心理士が
病んだ人々を救おうとする
骨太の社会派ミステリー

グレイの森 水野梓 定価:本体 1900円+税

みずの・あづさ◎1974年東京都出身。早稲田大学第一文学部、オレゴン大学ジャーナリズム学部卒。報道番組のプロデューサー、新聞社の編集委員などを経て、2023年にNNNロンドン支局長に就任。著書に『蝶の眠る場所』『名もなき子』『彼女たちのいる風景』がある。

文/福井健太
1972年京都府生まれ。書評系ライター。著書に『本格ミステリ鑑賞術』『本格ミステリ漫画ゼミ』『劇場版シティーハンター 公式ノベライズ』などがある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?