廓庵禅師 十牛図~序文
廓庵禪師『十牛圖』
總序(そうじょ)
夫諸佛眞源、衆生本有。因迷也沈淪三界、因悟也頓出四生。所以有諸佛而可成、有衆生而可作。是故先賢悲憫、廣設多途。理出偏圓、教興頓漸。從麁及細、自淺至深。末後目瞬青蓮、引得頭陀微笑。正法眼藏、自此流通。天上人間此方他界、得其理也、超宗越格、鳥道如而無蹤。得其事也、滯句迷言、若靈龜而曳尾。
間有(間此)清居禪師、觀衆生之根器、應病施方、作牧牛以爲圖、隨機設教。初從漸白、顯力量之未充、次至純眞、表根機之漸熟。乃至人牛不見、 標心法雙亡。 其理也已盡根源、其法也尚存莎笠。遂使淺 根疑艀、中下紛紜。或疑之落空亡、或喚作墮常見。
今見則公禪師、擬前賢之模範、出自己之胸襟、十頌佳篇、交光相映。初從失處、終至還源、善應群機、 如救飢渇。
慈遠是以探尋妙義、採拾玄微、如水母以尋眈、依海蝦而爲目。初自尋牛、終至入禍、強起波瀾、横生頭角。尚無心而可覓、何有牛而可尋。顔至入禍、是何魔魅。況是祖祢不了、殃及兒孫。不揆荒唐、試爲提唱。
夫(それ)れ諸仏(しょぶつ)の眞源(しんげん)は衆生(しゅじょう)の本有(ほんぬう)なり。迷(まよい)いに因(よ)るや三界(さんがい)に沈淪(ちんりん)し 、悟(さとり)りに因(よる)にや頓に四生(ししょう)を出(で)ず。所以(ゆえ)に諸仏(しょぶつ)として成(な)るべき有(あ)り、衆生(しゅじょう)として作(な)るべき有(あ)り。是(この)の故(ゆ)に先賢(せんけん)悲憫(ひみん)して、広(ひろ)く多途(たと)を設(もう)く。理(り)は偏円(へんえん)を出(だ)し、教(おしえ)は頓漸(とんぜん)を興(おこ)こし、麁(そ)より細(さい)に及(およ)び浅(せん)より深(しん)に至(いた)る。末後(まつご)に青蓮(しょうれん)を目瞬(もくしゅん)して、頭陀(ずだ)の微笑(みしょう)を引(ひ)き得(え)たり。正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、此(こ)れより天上(てんじょう)人間(にんげん)此方(このかた)他界(たかい)に流通(るず)す。其(そ)の理(り)を得(う)るや 、宗(しゅう)を超(こ)え格(かく)を越(こ)え、鳥道(ちょうどう)の跡(あと)無(な)きが如(ご)し。其(そ)の事(こと)を得(え)るや、句(く)に滞(とどこお)り言(こと)に迷(まよ)い霊亀(れいき)の尾(お)を曳(ひ)くが若(ごと)し。
間(このころ)清居禅師(せいごぜんじ)有(あ)り、衆生(しゅじょう)の根器(こんき)を観(み)て病(やまい)に応(おう)じて方(ほう)を施(ほどこ)し、牧牛(ごぼく)を作(もち)いて以(もっ)て図(ず)を為(な)し、機(き)に随(したが)って教(おしえ)を設(もう)く。初(はじ)めは漸白(ぜんぱく)より力量(りきりょう)の未(いま)だ充(み)たざることを顕(あら)わし、次(つ)いで純真(じゅんしん)に至(いた)って根機(こんき)の漸(ようや)く熟(じゅく)するところを表(あらわ)す。
乃(すなわ)ち人牛(じんぎゅう)不見(ふけん)に至(いた)って、故(ゆえ)に心法(しんぽう)双(なら)び亡(ぼう)ずることを標(あら)わす。其(そ)の理(り)や已(すで)に根源(こんげん)を尽(つ)くし、其(そ)の法(ほう)や尚(な)お莎笠(さりゅう)を存(ぞん)す。遂(すい)に浅根(せんこん)をして疑誤(ぎご)せしむ。中下(ちゅうげ)は紛紜(ふんうん)として、或(ある)いは之(これ)を空亡(くうぼう)に落(お)つるかと疑(うた)い、或(ある)いは喚(よ)んで常見(じょうけん)に堕(お)つると作(な)す。
今(いま)、則公禅師(そっこうぜんじ)を観(み)るに、前賢(ぜんけん)の模範(もはん)に擬(なぞら)え、自己(じこ)の胸襟(きょうきん)を出(だ)し、十頌(じゅっしょう)の佳篇(かへん)、光(ひかり)を交(まじ)えて相(あい)映(えい)ず。
初(はじ)め失処(じっしょ)より、終(お)わり還源(かんげん)にいたるまで、善(よ)く群機(ぐんき)に応(おう)ずること、飢渇(きかつ)を救(すく)うが如(ごと)し。慈遠(じおん)、是(これ)を以(もっ)て妙義(みょうぎ)を探尋(たんじん)し、玄微(げんび)を採拾(さいしゃ)す。水母(すいぼ)の以(もっ)て飡(さん)を尋(たず)ぬるに、海蝦(かいけ)に依(よ)って目(め)と為(な)すが如(ごと)し。初(はじ)め尋牛(じんぎゅう)より、終(お)わり入鄽(にゅうてん)に至(いた)って、強(し)いて波瀾(はらん)を起(お)こし、横(よこし)まに頭角(ずかく)を生(しょう)ず。尚(な)お心(こころ)として覓(もと)むべき無(な)し、何(なん)ぞ牛(うし)として尋(たづ)ぬべき有(あ)らんや。入鄽(にゅうてん)に至(いた)るに洎(およん)では、是(こ)れ何(な)の魔魅(みま)ぞや。況(いわん)や是(これ)れ祖祢(そねい)了(りょう)ぜざれば、殃(わざわ)い児孫(じそん)に及(およ)ばん。荒唐(こうとう)を揆(はか)らず、試(こころ)みに提唱(ていしょう)を為(な)す。
まったくもって仏性というものは、祖師も衆生も全く同じであるが、仏性が分からないから迷い苦しむし、悟ることで、生死を重ねて、たえることなく、三界六道の迷界をはてもなくめぐる『生死流転』の苦しみから脱却できる。それだからこそ諸仏となるべき直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁=因縁があり、迷いの世界にあるあらゆる生きる類の衆生と成るべき物事の正しい道筋=道理がある。このことから歴代の祖師方は悲哀され、解脱の道をいろいろと歩まれてきた。説き方は婉曲(えんきょく)も端的(たんてき)も有り、導き方も単刀直入から、積み重ねる修行法も多く、粗より細におよんで、浅より深に至ることが出来る。決定的なのは霊鷲山で釈尊の心が摩訶迦葉に伝えたことだ。この時より解脱のそのときのあり様が伝わり得る事となり、世界にあまねく広まることとなった。仏法というものは一切の道理を超越しており、鳥が空を往来して全く跡形も無いが如く理念という様子から離れたものである。是れを体得するには祖師の経典・祖録を学ぼうと多くの修行者がさまざまな語句に囚われて迷い、その固定観念や既成概念といった悪弊から逃れることが出来ないこともある。
最近、清居禅師が説いた書物が出回っている。清居禅師は修行者の内容をとても見極めつつ間違いを指摘している。修行の過程を牛に喩えて絵で顕し、修行者に分かり易く教えている。初めは手懸かりさえも分からぬ様子を真っ黒な牛で表し、修行が進むにつれて白くなり、修行が純熟していくことを表している。人も牛も居なくなった処を、殊更に強調し『非常に自由な解脱の境地に達する』という意味の”心身脱落”として顕している。その理(ことわり)は最も大切な処を説いてはいるが、その法は未だ真髄でも奥義でもない。だから初心者を誤認させてしまう。中下は色々詮索するので、或る者は人牛不見を虚無感に落ち入るのではないかと疑ったりするだうし、或る者はそこを極点だとして拘るかもしれない。
今、則公(廓庵)禅師の十牛図をまじまじと観ると、(廓庵)禅師自身が祖師の示す通りに修行して自己の仏性を悟り、それを勝れた十篇の頌で表現している。それらは絵と相俟って仏道修行の様子を詳しく言語化した素晴らしいものである。
牛の失踪から始まり、終わりには物事の本源に体達する修行した過程を、実に適確に示して、飢えには食物を、渇きには水分を与えて救うように説明がなされてある。
私は(慈遠)この十牛図に出会ったことから、仏法の奧義を徹底して究めることが出来た。目の無いクラゲは餌を探すために、好物の蝦が好む液体を放出して誘い込み、その蝦の目を頼りに餌を得るが如く、是の十牛図は修行者であれば誰にも適応している。
初めの尋牛より、終わりの入鄽垂手までの全体は、あえて波瀾を起こし、恰(あたか)も横面に生えた角(つの)のようで見苦しくもあり邪魔である。求むるべき本来の心は無いにも関わらず、何故か牛に喩えて探さねばならないのか。最後の入鄽に至っては何と言うのか決して正気ではないだろう。しかし歴代の祖師方の真意をここで理解し得なければ、仏法の命脈は断絶し、その災いは将来の全人類に及ぶことは、荒唐無稽を承知の上で、及ばずながら歴代の祖師たちの真意を伝えるべく提唱することにした。
『真実とは何か?』というと、世界の「理(ことわり)」を知ることで、あらゆる固定観念・執着を超越して、大空を飛ぶ鳥のようにどこにも跡をとどめない自在さを得る。
物事の表面だけを見て最奥を知ったと勘違するのは、言葉に惑わされて迷いを深めただけで、亀がしっぽを引きずって跡を残してしまうような愚行でしかない。
『自力』だとか『他力』だという理屈を超えて、理論には、それぞれ風格がある。
その格さえも越えたところに本当の答えは存在する。
鳥が空を飛んでも跡は何も残らないように、本当の答えとは解った理論さえも忘れてしまう。
発した一言に滞って、足跡を消そうと利口に振る舞うが、足跡を消した亀の尻尾の跡が残こることはどうにもならない。
廓庵禪師『十牛圖』開題
乙川弘文老師から「アメリカに面白い日本人青年がいるよ。」ということで、Apple創業者の故人がネバダに住む僕のところを訪ねて来て会ったのは二十五年ほど前である。
氏からの問いに「悟り=結果を求める修行は、それ自体が悟りを得るためだけの修行に終始してしまう。もし悟ったとしても、悟ったそのものを疑い、悟りを得た自己すらも疑ってこそ、悟りを超えたところに真実がある。」と僕は伝えた。
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