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祈りと感謝:”献金”のあるべき形
14日、高知地裁はパーフェクトリバティー教団の献金勧誘行為に違法性を認め計1139万円の支払いを命じた。
昨日飛び込んできたニュースです。
”忸怩たる思い”とは、こういうものでしょうか。やるせないです。
私は、元はPL教団所属の教師、宗教家でした。
現在は教団を退職していますが、一会員として信仰を続けています。
このnote記事を更新しようとしていた、丁度そのタイミングに冒頭のニュースを目にしました。
教団からは本件についてのコメントは発表されてはいないとのこと。今後のことを注視していたいと思います。
この判決の是非について私が何か語ることは全く適切ではないでしょう。しかし、私もかつては信仰の現場に携わっていた訳ですから、決して他人事ではありません。自分のこととして、重く受け止めています。
教団を退職した私ですが、信仰を辞めたわけではありません。一人の信仰者として自身の信条を積極的に語っていくことで、より良い信仰の在り方を考えて行きたいと思っています。
PLの信仰者であることを公言していますので、少なくとも「献金」というものが私にとってどのようなものなのか、明らかにしておく必要を感じました。
これから綴るのは、この度明らかになったこととは直接的には関係しません。飽くまでも私にとっての”献金”について、述べさせていただきます。
感謝以外の何ものもなく
私は祖父の代からPL教団の布教師を務める家庭に生まれ、教団の中で育ちました。
つまり、PL会員の皆さまの献金によって、私たち家族が暮らしてきたのですから、そのことについては感謝する以外の何もありません。
また、祖父や父と同様に、私自身も布教師として教団に奉職していましたので、実際に会員の皆さま方がどのようなお気持ちで浄財を投じて下さっていたのか、良く存じ上げております。
私が布教の現場を預かっていたのは短い間ではありましたが、思い返すほどに尊い日々でした。
教会に訪れる方々それぞれが携えた深いお悩みや、真摯な願いに耳を傾け、それを神に届けんと一緒になって神前で祈りを捧げる。幾度も幾度も、来る日も来る日も手を合わせて。
「そうか、私がこれまでお世話になってきたのは、皆さま方のこういう思いが籠められた、尊い浄財だったのだな。」と、知ることができました。
すでにもう信仰に携わる現場を離れている訳ですが、今も時折、当時のことを思い返します。
献金とは、祈りと感謝で巡るものです。そういう巡りの中で、私は育ってきたのだということ、そして私の子どもたちもまた、短い間でしたがそういう幸せな関係性の中で日々を送れたのだということに、心から感謝しています。
祈りと感謝の経済圏
今考えているのは、信仰を介さずともこの”祈りと感謝の経済圏”とでも言うべきものが成立する方法はないか、ということです。商品に対する対価としての経済活動からは、ともすると”心”が抜け落ちてしまいます。
お互いの心があり通う経済、その糸口を、私は農業の中に見いだしています。
(CSA community supported agriculture、産消提携、コミュニティとしての農園──この話は、また別の機会に…)
”献金”が理想的な関係性の中で巡るのであれば、とても幸せなコミュニティが形成されます。しかし、それがなかなか簡単なものではないことも確かです。
この度の判決の中でも指摘された違法な献金勧誘行為とは何だったのか。どこか行き過ぎた部分があったために崩れた関係性が不幸を招いたのだと理解しています。それはもちろん、「双方が納得しているのであればいくらでも良いだろう」というような乱暴な考えではありません。過度にはならない適切な範囲が守られることが何よりも重要で、しかしとても難しいことです。
しかるべき形の献金運用、節度が守られるためにはどのような姿勢で、これに臨めば良いのでしょうか。
答えてくれたのは、私の大先輩、祖父でした。
「献金なんて✕✕✕」その真意
祈りを介して金銭を取り扱う、そのことの難しさは経験の浅い宗教者が直面する大きな壁でしょう。私も例外なく、そうでした。
信仰熱心な会員さんに対して、献金を募る。それがどうしてもできなかった。自分の行いが、思いが、何と言うかヨコシマなものに思えて仕方がなかったのです。
「どうすれば会員さんに対して、献金のことを説明できますか?」
そう尋ねると祖父は、こう答えました。
「献金なんて簡単だ。入れりゃ良いんだもの。」
私「…え?」
耳を疑いました。尊い尊い浄財を募るのに対して、「入れりゃ良いんだ」なんて…酷すぎる。
でも、祖父が言いたいのはそういうことではありませんでした。
「皆、献金をするんです。献金をして、お金を入れて、それで”おかげ”が頂けると思って後は何にもしない訳だね。それはね、迷信です。」
「PLはそういう信仰じゃない。実行の教えだからね。この教えを実行することで自分を変えさせて頂くんだ、と。世のため人のための私になるんだ─と。それが幸せな生き方なんですよ、ということを私たちは信じている訳だね。
祈って祈って、気づいたことは何でも実行して、そうしていたら、必ず何か変わってきますよ。言うなればそれが、”おかげ”なんだね。」
「そうしたらね、『ありがたいなぁ』という気持ちになるでしょう?そういう気持ちが湧いてくるでしょう?その時に籠めるのが、献金です。『ありがたい』という気持ちに応じて、惜しみの掛からない分だけ籠めたらいい。」
「だからね、献金を募るんだったらPL教師はとにかくこの教えを会員の皆さんに伝えなきゃいけない。教えを知って、実行して、良かったなぁと、そういう気持ちになってもらわなきゃならない。
そのためにはね、『献金が欲しいから教えを伝えよう』なんて、そんなんじゃ駄目だよ。」
「本当にこの人を救うんだと。そのためには先ずこの人の話をよく聞いて、神様に手を合わせて、『神様、どうすれば良いでしょうか──』と、祈る。そうしたら授かるものが、きっとある。それを伝えて、一緒に祈って、実行して、そしたら体験があって少しずつ少しずつその人が変わっていく。簡単じゃないのよ。でも、こんなに面白い、ありがたいことは無いよ。」
「だからね、献金よりも何よりも、この教えを実行しようと、人様のお役に立とうとすることだね。それを皆さんにお伝えするのが、私たちの仕事だね。」
概ね、以上のような内容でした。
祖父が言いたかったのは、献金そのものによって何かご利益が得られるというような考え方は献金本来のあり方ではないということ。
飽くまでも信仰によって人を救うのが宗教家の役目であるということ。
そして、それに対する感謝のお気持ちとして献金があるのであって、始めからそれをあてにするようにして教えを説くのは間違っているということ。
直接的にそう言い放ったわけではありませんが、私はそのように受け止めました。
すでに宗教家としての務めを終えた私ですが、祖父から学んだことは当時も今も変わらず胸に刻んでいます。
※もちろんこれは私個人の解釈であって、同じPLの信仰者でも捉え方は様々かと思います。まして、教団としての公式なものではありません。
専ら私の、宗教家としての心得として学んだことです。
草の根の信仰者として
この度の一報を目にしたとき、祖父の話を思い出しました。
この献金を募るにあたって、一体どんなやり取りがあったのだろう?
「献金をすることで、あなたは救われます。」
などという形ではなく、
「あなたを救いたい。先ずはお話を伺わせてはいただけませんか?」
と、誠心誠意お応えしたのであれば、無理な献金を募って訴訟沙汰になることなど、無かっただろうに…。
そこに言及することは、もはや私に許される範疇にはありませんね。
ただ少なくとも、本件でもってこれまで積み重ねられてきた”祈り”と”感謝”の営みが、人の弱みに付け込んで搾取を行う非道と置き換わってしまうことだけは避けたいのです。
そのためにも、教団本部の発信を待つのみでなく、草の根の信仰者として、私たちが大切にしてきた信仰のことをオープンに語っていく必要を感じています。
PLを知る方も、知らない方も、読んでいただきありがとうございました。
MIKI FARM MAGAZINEとして、農とアートと信仰をクロスオーバーするエッセイを更新中です。
前回・今回と専ら信仰にまつわる内容でした。次回からは、平常運転。農業のお話に戻していきます。