信仰もそんなに悪いもんじゃないvol.3「親から子へ」
信仰3世 元宗教家という立場から、今回は信仰の継承にまつわることについて綴っていこうかと思います。
”宗教2世問題”って…
宗教2世について語られる時に必ずついて回るのが、親から子への信仰の継承にまつわる問題ですね。多く取り沙汰されるのはやはり、継承が上手くはいっていないケース。親からの強要があった場合など、望まれない信仰がひきおこす不幸は数多く存在するのだと思います。本来人が幸せに生きるための智慧として機能するはずの信仰によって耐え難い苦痛を強いられる不条理は許されてはならないものです。
ただそれでもやはり、「宗教2世」がそうした問題を語る上での代名詞のようになっている現状は、おかしいと思うのです。”宗教2世問題”とか目にすると、「いや、問題ちゃうわ!そこくっつけんなよ〜」とか正直思います(笑)何か宗教2世という存在そのものが問題をはらんでいるような、そこまで言わないまでも、信仰をつなぐことに積極的な意味を見出すことがいよいよ難しくなってしまったことが感じられて、なんとも言えない気分になります。
私も字面通りの意味合いで言えば、宗教2世というか、正しくは宗教3世の人間です。が、私が祖父の代からの信仰を引き継ぐにあたって何の問題があるはずもなく、むしろごく自然なこと、そして幸福なこととして大切に思っています。そういう2世3世だってたくさんいるとは思うのですが…
今の世の中においては子供達の代への信仰の継承なんて口にすることもはばかられるような、何か得体の知れないモヤのようなものがあります。自分たちの信仰について公に話すことが妙に難しい、だから信仰の継承が上手くいっているケースは表には出て来ない、そもそも世論としては宗教の問題性について提起したいのであって上手くいっているケースには興味がないし、いかなる布教活動にも加担したくはない━━━ というような、信仰者としては何とも息苦しい状況下にあると幼い頃からずっと感じてきました。ちょっと言い過ぎの部分もあるかも知れませんが、いや実際、信仰2世側からすればおかしな状況が続いています。
でも仕方のないことです。どうにもならないことです。特に日本における宗教アレルギーとでも言うべき拒絶反応も、十分過ぎるぐらいの理由があってのことで、これまでに社会が経験してきた”経緯”からすれば当然のことだと理解していますし、自分自身だって「宗教って何かコワイ」という感覚も持ち合わせてはいます。
語られるべき信仰
ただ━━ そろそろ流石に、このままじゃいけないだろうと思うのです。信仰者が自分たちの口で、自分たちの信仰についてもっと公に語る必要を感じています。そうでなければ、このまま消えて無くなってしまう。多くの団体が既にそういう瀬戸際にあります。
別に何か声高に布教活動に専念しようとか、そんなことではなくて、もっともっと素朴なこと、このコラムのタイトルにあるような「信仰もそんなに悪いもんじゃないよ?」というスタンスの発信がもっと増えるべき、というか増えて欲しいと願っています。
私は宗教3世ですが、もともとは宗教家でした。父も、祖父も同じく宗教家として務めていましたので、宗教家3世といったところでしょうか。思うところがあって、今は信仰の現場を離れることにしました。その”思うところ”というのがつまり、もっと別な切り口で自分たちの信仰を公に表現していく必要性を感じたということだったりします。
これから少しずつでもそれを形にして行けたらと思うのですが、その手始めというか、私が宗教家という道を選択した時のことを綴らせていただきます。
信仰の継承というテーマを考える上で、私にとっては重要なできごとでした。
「宗教家なんて道を選ぶのはどんな考えの上でのことだろう?宗教家3世って、やっぱりそれが代々の務めだったりするの?」━━ いやいや、全然そんなことは無かったんです。
私にとっての継承
私が宗教家を志すようになったのは祖父の影響というか、祖父のように生きてみたいと思ったからです。70年余りの間、宗教家としてひたすらに人の幸せを祈る祖父でしたが、そんな祖父自身がとても幸せに見えたのです。
百歳を越えても現役の宗教家でしたが、何か高尚な教えを説き伏せるような感じはまるで無くて、いつも何と言うかニコニコとしていました。時には多くの人を前に登壇して話すこともありましたが、皆が笑顔で迎えてくれました。祖父が信仰を通じて学んだ人生観などをお話するのですが、「人生は楽しかるべき」と話す祖父が、何だか一番楽しそうでした。
そんな祖父へのあこがれから宗教家としての道を選んでみようとはしたものの、いざとなると怖気づくというか、躊躇してしまう自分がいました。
宗教家になるということは人の信仰の支えとなるような働きを自分が担うということです。責任の重大性に気付いて、果たして自分に務まるだろうかと…こんな思いを祖父に投げかけてみました。どうしたら良い?と。
そうすると祖父はなんとも淡々と答えてくれました。
「自分にできるかどうかなんて考える必要は無いというか、考えても意味がない。だって宗教家としての務めは自分がするんじゃなくて、神様にさせていただくんだから。
そのことを有り難いと思って、人様の幸せを祈って、気付いたことは何でもやったら良い。
大事なのはできるかどうかよりも、やりたいかどうか。やってみたいんだったら、やってみなさい。
自分は代々宗教家を務める家に生まれたんだから、自分も宗教家として務めなきゃならないんだ、とか。そんなこと少しも考え無くて良いから。やりたいことをやったら良い。
宗教家よりも人のお役に立つ、素晴らしいお仕事だって世の中に一杯あるからね。でも、ワタシはこうして宗教家として務めさせていただいて、ホントに幸せなことだったと思ってるよ。やりたいんだったら、やってみなさい。きっと良いことに繋がるから。」
こう話してくれた当時、祖父は99歳だったかと思います。この話を聞いて、私は宗教家になってみることにしました。
あるべき信仰の継承
昨今の信仰の継承にまつわる問題を耳にした時、この祖父とのやり取りのことを思い返します。
熱心に信仰すればこそ自身の子・孫にだってこれを伝えたいと思うのは自然なことですし、場合によっては教義によってそれを義務付けられていることもあるわけですが、これが往々にして上手く行きません。
いかに自分の子供と言えど、個人に信条を押し付けることはできません。今後ますます、この傾向は強くなっていくでしょう。
それを知ってか知らずか、祖父は私に「代々の信仰だから、自分もやらなくちゃなんて少しも思わんでいい。」と言ってくれました。
逆にこう伝えることで、私が本当に自分の選択として宗教家としての道を選べるように促したのかも知れません。私が宗教家を選んだのは、私がやってみたかったからです。と、胸を張って言うことができます。
宗教家という職業を「聖職者」と言ったりします。特に信仰者の内側の集まりなんかでは「こんな尊いお仕事は他にはありません!」というようなフレコミで奉職者を募ったりするイメージ(※飽くまでもイメージです)がありますが、祖父は全くそういうことは言いませんでした。
「宗教家よりも素晴らしいお仕事だって世の中にいくらでもある。」そう言ってのけることで、数ある職業の中から自分で選んで宗教家になることを私に促してくれました。
「代々の信仰なんて継がんでいい」「宗教家よりも良い仕事はいくらでもある」そんなことを言いながら、しかし祖父自身は「本当に有り難いことだった」と心底思っているんです。
「何が有り難かったかって、ワタシはこのお務めを通して人間を変えてもらった。”人生は楽しかるべき”楽しく生きる生き方を教えてもらったから、こんな有り難いことは無かったよ。」
そう話す祖父の姿を見て、自分も変わっていけるだろうかと思って宗教家の道を選んだ訳です。
個人的なエピソードですが、あるべき”信仰の継承”がここから読み取れる、などと言うとちょっと盛り過ぎでしょうか?でも本当に理想的な形で私は私の信仰を選ぶことができたなぁと、それを促してくれた祖父に、感謝しています。
こんな宗教2世だっているんだということを、もっと伝えたいし、もっと知ってみたい。そう思います。
信仰を強要されて、束縛されて生きることは本当に辛いことです。その一方で、強要された訳では全く無く、自ら選んだ道として信仰を継承する者も少なからずいて、私もそんな信仰者の一人です。
何より伝えたいのは、こんな風にして信仰について祖父を始め家族と思いを巡らして、コミュニケーションが持てることの素晴らしさです。自分が大切にしてきた信仰について、子や孫に語る。そんな親の背中を見て、自分もまた同じように生きてみようと思う。そういう幸福な関係性を築くための支えになり得るのが本来の信仰です。信仰の継承って、そういうことです。
できることから
とかくネガティブな発信が目につきやすい昨今ですが、だからこそポジティブなメッセージを当事者側から送り続けることが大事なのかも知れません。
ツールは色々ありますし、今後も地道に続けていれば、何かに繋がることもあろうかと。
何かできることはないか。気付いたことは何でもやってみようと思います。祖父がそうしてきたように。
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