信仰もそんなに悪いもんじゃないvol.2 「そもそも信仰って何だろうか?」
信仰3世 元宗教家という視点から自身の宗教観を綴っています。
前回の記事。
「信仰って何?」という問いかけに対しては無限に答えがあるというか、答えが人それぞれで変わってくるかと思います。どれが正しいということも無く、間違っているということも無いですし、個人の信条は自由であるべきですよね。
だからと言ってこの問いかけに意味がないかというとそんなことはなくて、むしろ答えの出ない問いかけを続けること自体にとても大きな意味があると思っています。
「自分にとっての信仰とは?」という自問自答がそのまま他者の信仰への理解に繋がります。
狭量な宗教観しか持ち合わせていなければ他人の信条を理解を持って受け止めることはできないし、そもそも信仰なんて興味無い、と言い切ってしまえばそれこそ無関心という大きな壁となってしまう。
信仰を巡る数々の問題の根底には、互いの信条への理解の欠如があると感じています(信じていないということへの理解も含めて)。「信仰とは何か」この問いを重ねることが、諸々の問題の根本的な解決への糸口になるはずです。
私にとっての信仰
ここまで偉そうに口上を述べたところで、「じゃあアナタにとっての信仰って何?」と聞かれるとよっぽど気の利いた答えでなければちょっとマズいことになりますが(笑)
飽くまでも私にとっての信仰についてお答えするもので、全ての信仰がこうあるべきとか、押し付けがましく申し上げるものではありません。私個人の生の感覚として伝えたいのは、私が信仰しているのは”迷信”じゃなくて”リアル”なものだということです。
「私の信仰こそが真実です」とか、カルトじみたことを言うつもりも微塵もありません。私のようなもともと宗教家だった人間がこんなことを言うのもちょっと問題かも知れませんが、いわゆる教条主義的な偏った教義を頑なに信じる感覚は全く持ち合わせていません。どんなに素晴らしいものであってもそれを絶対視してしまうことは妄信につながって、つまりそれは迷信になってしまいます。私が信じているのは、そういう類のものではありません。もっとリアルなもの、現実に即したもの、信仰を通して紡がれる人と人の繋がりのことを信じています。
信仰の場には色々な方が集います。どんな社会でも人間模様は様々ですが、普通は無用な軋轢を産まないためにも皆それぞれパーソナルな部分は表に出さずに過ごしています。
信仰のもと集った皆さんは、それぞれがそれぞれの苦しみや願い、思いを携えてそこにいらっしゃいます。そしてそれを惜しげもなく赤裸々に吐露して行かれます。その思いをくみ取らせていただくのが宗教家の務めであったりします。
信仰があればこそ最も大切な、パーソナルな事柄までも全てさらけ出すことができる。そしてそれに対して耳を傾ける事ができるのもやはり信仰があればこそで、お互いに信じているものを共有している前提の上にだけ成立する深い深いやり取りが確かに存在します。これは迷信などではない、”リアル”です。
祖父の姿を見て
私は私の信仰の現場で人とのつながりの力を肌で感じてきましたが、それに気づかせてくれたのは同じく宗教家であった私の祖父でした。
祖父はもともと航空機の設計技師でしたが、戦後間もなく縁あって宗教家としての務めが始まりました。元々が根っからのエンジニアでしたからそもそも人と話すのが苦手で(笑)大変な思いをしたそうです。
「私のような人間が人様に教えを説いたり、人を救ったりするなんてとんでも無い。早く辞めさせて欲しい。」と心から願っていたそうですが、祖父の上司(と言うかお師匠)はそれを聞き入れてはくれませんでした。
祖父にとっては苦しい苦しい宗教家としての修行の日々でしたが、ある時ふと思い至ったのだそうです。
「自分がするんじゃなくて、神様にさせていただくんだな。自分がどういう人間であるかは関係ない。ただただ人様のお役に立てばいいんだ。」
そう気づいてから、祖父は変わりました。何も思わずただただ人の思いに耳を傾けて、一緒になって祈る。自分は何もできないけど、とにかく務めさせていただこうと。そうすると不思議と周囲がどんどん変わっていって、次第に多くの人から感謝の言葉を掛けられるようになりました。技士だった頃の祖父は通りに人集りがあれば避けて通るような人でしたが、いつの間にか多くの人が祖父を慕って人集りを作るようになりました。祖母と二人して「ホントに不思議なことだねぇ」と話しながらひたすらに続けて、あれよあれよという間に気づけば齢百歳を越えていた、とのことでした。
「何がどうなるのかなんて分からないけど、何でこうなったかなんてさっぱりだけど、ホントに有り難いことだったと思うよ。」そう話す祖父母の姿を見て、私も同じように宗教家として務めてみたいと思ったのです。
これが私の信仰の”リアル”です。百歳になっても「世のため人のため」で、人から求め愛される人生を自分も送ってみたい、きっと出来るはずだ、ということを信じています。だからこそ祖父がその生涯を掛けて貫いたPLの信仰を私も信じていますし、大切にしたいと思っています。
新しい宗教観を求めて
とってもパーソナルな私の思いを綴りましたが、実はこれがかなり普遍的な宗教観にも通ずるものだと考えています。
「私も”あの人”のように生きたい」
これがほぼ全ての宗教団体に共通する根っこの部分の構造かも知れません。仏教で言えば、皆がブッダの教えに沿った生き方をする”菩薩”になれることを信じている訳で、それを最も端的に表したのが「成仏」という言葉です。菩提心と言ったりもします。
私自身は私にとっての”あの人”を持っているわけですが、それが全てとは思っていません。ものすごく乱暴な言い方をすれば、”あの人”の部分に入る人物”X”は本当は誰だって良いのです。生き方の指針と成りうる人物を思い描き、それを他者と共有しながら「私もきっと」と道を修めるのが最もオーソドックスな信仰のあり方かと思います。
”X”を選定する上で間違ってはならないのは、決して依存しないことです。「”あの人”ように生きたい」と精進するのは飽くまでも自分自身です。これがいつの間にか、「”あの人”の言うように生きたい」とすり替わってしまった時、悲劇が起こるのかも知れません。表面的な個人崇拝は信仰の本質から外れたものだと思っています。信仰の本質は自ら選び進んで生きる姿勢そのものにあるはずです。
実在としての"X"に依存してはならないというか、極論で言えば、人物”X”が実在したかどうかも大きな問題では無くて、大切なのはいかにリアリティを持って人物像を共有できるかということです。逆から言えば、いかに上質なフィクションを描くかということでもあります。そういう観点に立てば、信仰が成立するために正当性や妥当性、真偽の如何、すべての人に当てはまる絶対性など必要では無くて、どれだけ魅力的な人物像あるいはストーリーを共有できるかという感性の問題、人それぞれに異なる相対的なものを追求しているのだと分かります。
自分の持つ信仰こそが本物だなんてナンセンスな考えです。唯一絶対の”X”なんて存在し得ないし、むしろ多様な答えが存在することを楽しむ土壌を皆で育んで行けたら、それだけ世界が豊かになるんじゃないだろうかと。
私が信仰しているPLには、「人生は芸術である 宗教もまた芸術である」という言葉が先人によって遺されています。真意は分かりませんが、私の宗教観を形作った言葉かも知れません。
宗教を一種の集団アートとして捉え直すと、とても面白い交流が産まれるんじゃないかと思っています。どうしてもお互いの信仰について、当たらず触らず、互いに不可侵のものとしてしまいがちです。
信仰を神聖視したり、得体の知れないものとして嫌厭したり…そうではなくて多様な表現のあり方を積極的に受け入れて、現代アートの美術館みたいにごちゃ混ぜの世界を楽しめたら、きっともっと平和な社会になっていけるんじゃないかと、そんな風になったら良いと個人的には望んでいます。
まとめ
上質なフィクションを共有することで生まれるリアルな繋がりが持つ力を信じる。それが私にとっての信仰です。実際、私の祖父が百歳を越えても現役のまま人生を全うできたのは、信仰による繋がりの支えがあってこそのことです。求め、求められて、それに応えんとする幸福な関係性が、祖父が信仰によって受けた最大の恩恵でした。
こんな繋がりが信仰の垣根を越えて広がって行けば良いなと、そうするにはどうしたら良いのかをこれから考えて行きたいと思います。