
「信仰もそんなに悪いもんじゃない」:表題から伝えたいこと
MIKI FARM MAGAZINE vol.11
noteメンバーシップを開設していますが、ほぼ全文を公開しています。
現在、新規就農に向けて準備中。MIKI FARM開園に向けたドネーションを募っています。
農とアートと信仰をクロスオーバーしてエッセイを綴っています。
信仰3世で元宗教家としての体験から、これまでにも「信仰もそんなに悪いもんじゃない」と題して信仰にまつわるエッセイを書いてきました。
信仰。宗教。物議を醸しがちな話題ですから、これまでも言葉を選びつつ嘘の無い表現を心がけてきました。なかなか思うようにまとめられず、難しさを感じながらも継続中です。
何篇か書き連ねて反芻を繰り返したおかげで、少しずつ自分の頭の中の整理ができてきたかも知れません。宗教・信仰という繊細なテーマをどう書き起こしたら良いのか、自分なりにではありますが、少しつかめたような気がしています。
オブラートに包んで曖昧にすることなく、ストレートに表現しながらも、信仰に馴染みのない方にも伝わるようにするための糸口が少しずつ見つかってきました。
以前に綴った内容と重複する部分もあるのですが、改めて「信仰もそんなに悪いもんじゃない」というタイトルに込めた思いについて書かせていただきます。
「信仰もそんなに悪いもんじゃない」
この言葉を繰り返しメッセージとして発信することで、何か宗教的な勧誘をしたいわけじゃないんです。
いや、そんなことは望むべくも無いという方が正しいかも知れません。
私自身がこれからも信仰を続けていくことを望むならば、同じ信条を持つ仲間を増やしたいのはやまやまなのですが、とてもじゃありませんがそれが許される状況にありません。社会的に、です。
本当は「信仰って良いもんだよ」と言いたい。声を大にして。言いたいけれども、言えない。
だから、婉曲的に「そんなに悪いもんじゃない」と言っている、というのがこのタイトルの真意です。
宗教勧誘なんてモラルに反するものだと、皆が思っています。”宗教勧誘お断り”は公序良俗を守る上で最低限必要なマナーであると。
「宗教2世問題」という言葉も、すっかり耳に馴染んできました。
宗教2世=問題を孕むものという認識は、もはや社会通念となりましたね。なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか。
子供たちへの信仰の強要はあってはならない。例え親子と言えども、個人の信条を押し付けてはならない。望まれない信仰によって引き起こされる不幸を無くさなければならない。
そのことを否定するつもりはありません。その通りです。
ですがしかし、どうしようもなく私個人の感覚からはかけ離れているのです。
私にとっての信仰
両親や祖父母が大切にしてきたものを、私もまた大切にしたいと思い、それを我が子にも伝えてあげたい。私にとっての信仰は何も特別なものでは無く、それだけのことです。
今はまだまだ幼い子どもたちが成長したら、いつかは伝えたい。祖父母が生きたひたむきな人生のことを。
「君らのひいお祖父さんは、立派な人だった。いつも世のため人のため、幸せを祈っていた。自分のことは横において、人の言葉に耳を傾けて。100歳を越える長生きをしたけど、それはいつも変わらなかったよ。
でもね、そのことが他ならないひいお祖父ちゃん自身を幸せにしたんだ。お父さんも、そんなお祖父ちゃんのことを誇りに思っている。お祖父ちゃんのように、生きたいと思っているよ。」
こういう思いも、歪んだ”マインドコントロール”の結果なのでしょうか?”洗脳”でしょうか?そんな訳がありません。
私が信仰を抱いて生きているのは、簡単には語り尽くせない”背景”があるからです。それは決して迷信などではなくて、信仰のもとに集った人と人の関係性が折り重なったリアルなものです。
社会はしかし、その背景に目を向けようとはしてくれません。
この国において何かを信じる人も、何も信じない人も、根っこの部分で抱える問題はみな同じ”盲目”ではないでしょうか。
本来の信仰って、そういう盲目に気づいて自ら目を開けることにあるのだと、私は思っています。
相手が何を見ているのか、お互いに耳を傾けることだと思っています。
そうであって欲しい。私の信仰も、そういうものであって欲しかった。
別の文脈
先に述べたように、私は宗教的な勧誘はしません。
元々宗教家として神職を預かっていたものとして申し訳ない思いもありますが、私の信仰が団体として存続するかどうかは、もはや静観して見守りたいと思っています。
すでに宗教家としての職責を離れた私が、そこに積極的に関わることは適わないわけですし。
ただ、信仰そのもののことについて、黙っていることは出来ません。
どうにかして守りたい。信仰そのものを。
信仰を語ることがどうしようもなく難しい世の中であるのなら、それを何か別の文脈に繋げて、人の理解を得られる形に整えた上でしっかりと語り継いでいきたい。
祖父を始め、多くの皆さま方が信じ、一心に祈り続けてきた「誠」を、自分なりに受け継いで、後世につないでいきたい。そこに何の価値も見いだせなくなることをただただ受け入れるなんて、到底できません。
だからこそ、私は宗教家という立場を離れて、一個人に立ち返ることにしました。自分の信仰を、何か全く別のものと繋げるために。
今日はここまで
──やっぱり、何だかイマイチ伝え切らないですね。今のところは、ここまで。
私と同じように特定の信仰を持っていて、それを大切に思っている人にとって、何かしらの共感を得られるものであったなら幸いです。
または、特定の宗旨を持たない人も、「何か良くわからんけど、変わった人いるもんだなぁ。」と、わずかでも関心を抱いて下さったのならそれもありがたいことです。
メディアでは表立って語られない、宗教2世の本音です。
これからも地道な更新を続けていきます。
読んでいただき、ありがとうございました。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?