なんでずーっと、江戸から上方には移植されなかったのかの謎【文七元結】
愛宕山
「愛宕山(あたご山)」という名の山は、全国にたくさんある。
数十m〜500mほどの標高の山たちである。中には1,000mを超えるものもあるが、なぜかその山頂が放送局の中継局になる程度の高さが多い。中でも京都にある「愛宕山」は、愛宕神社の総本社だ。愛宕山の数だけ、愛宕神社があると言ってもいい。
京都での遊びの中で、祇園で遊ぶという贅の局地は、一般庶民からするとまったく持って現実味のない別天地のような話で、今も変わらず大金持ちの道楽の頂上である。一見さんお断り、の敷居の高さの歴史は長く、そして全国レベルで知れ渡っている。
そんな祇園で遊ぶ遊び団体(金持ち旦那1・芸者複数・従者1・幇間1)が、よし、次の日は!と、愛宕山へ弁当持ってハイキングに行くことになった。距離にして約17km。徒歩なら片道4時間半というところだ。朝に出て、お昼についてお弁当。そういう「山行き」という道楽の一つだ。連れていく全員の日当を出しつつ…だとも思うとなかなかの出費。
当然、これは上方落語だ。
京都が舞台になる場合、どうも大阪人の、京都人への複雑な思いみたいなのが微妙に染み込んでいる気がする。まず大阪の宴席でしくじった幇間(タイコモチ)が、京都でツテを頼って働いている…という「事情」が折り込まれている。どこか鬱屈した感情というか、自分の身と重ね合わせてスネた部分というか、そういうのが感情のベースとして、反発の動機として、練り込んであるのだ。
この噺が、江戸に移植された。
まさか吉原で遊んでた旦那が「よし明日は京都へ行こう」というわけにはいかない。品川か板橋かでしくじった幇間が…というような設定もない。
なんだか大旅行で江戸から京都まで遠征観光旅行してる、同じ編成の遊び団体(金持ち旦那1・芸者複数・従者1・幇間1)が…という前提で始まるのである。
そういう時代だから、すでに江戸から京都へ歩いてきている。
芸者については不明だが、従者、そして幇間は、江戸から連れてきているのである。
その上で、「明日は愛宕山へ行こう」となる。
この設定で、別に無理はないけれど。
江戸周辺にも、手頃な場所くらいあるんじゃないの?
…いや、それがないのだ。
吉原くらいから同心円状に半径17kmの円を描くと、このようになる。
山なんかないのだ。
京都・愛宕山の標高は924m。
落語では山頂まで登ったわけではないようだが、江戸落語に言葉やディテールは移し替えたとしても、「徒歩で遊山に山へ行く」という設定が地理的に成立しないのである。確かに風光明媚、春の山行きはその状況が風景となって眼前に広がるし、「愛宕山」は見た目にも美しい落語である。笑いどころも多い。
お店や人名、地名くらいなら変えられただろうが、高低差だけはいかんともしがたい。まさか架空の山を創出するわけにはいかない。
「愛宕山」が、中身は工夫を加えながらも場面設定が「京都のまま」なのは、そういうリアリティの追求があるからなのだろう。
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百人坊主**
江戸時代の庶民の旅行は、信心と結びついている。というより、信心に託(かこつ)けてしか、旅行することは許されなかったということだ。娯楽の少ない時代、何泊も遠出をして旅行するというのは、祭りと同様、非日常をようやく全身で味わえる、特に若者にとっては、身震いするような楽しみであったに違いない。
現代においても賑わい続けているが、上方に限らず「伊勢参り」は、一生に一度は…!という「日本の巡礼」と呼んでよいほどの人気があるコースだった。
大阪からはまず玉造を経て深江へ。
そこから暗峠(くらがりとうげ)を越えて奈良の尼辻へ至る。
そののち三重県へ向かう。
だいたい片道8日間くらいの行程だったようだ。
もう一つ、まず大阪から船で京都へ行くルートもあった。
伏見あたりまで船で行き、そこからまっすぐ下って大和へ入る。
距離としては遠回りになるが、山越えをしなくていいので、楽だったそうだ。
「伊勢へ行く」というのは当時の数少ない圧倒的パワーワードで、基本的に誰もその思いを止められない。
止めた者にバチが当たるくらいの信仰はあったはずだし、農村の男たちが集まってどんちゃん騒ぎしながら進む、特に帰りは…というくらいのガス抜きを、お上は奮って奨励していたのかも知れない。
だけど荒くれた無教養な連中を多く含むと、やはり喧嘩が起きて…というのが「百人坊主」という話だ。
同じ筋立てが、江戸落語の「大山詣り」存在する。
この噺も上方からの江戸に移植された噺だが、これは、「愛宕山」と違って旅(遠出)が前提になっているので、江戸市中から離れた場所を設定できるのである。
なので、「伊勢」という信仰対象である目的地が「大山(神奈川県伊勢原市)」に変更されている。別に伊勢参りでも良い気がするが、やはり「生活圏からの距離感」が物語の大事なところでもある。
喧嘩の制裁に勝手に坊主頭にされてしまった男が、そーっと先に帰ってきて「残りの連中はみんな死んだ。俺だけ弔いに坊主にしてきたんだ」と留守を預かる女房連中を騙す。みんなで弔いのために…と、なんと女性陣全員の髪を、すっきり剃刀で剃りあげてしまうのだ。
上方の「百人坊主」というタイトルはネタバレも良いところだが、江戸の「大山詣り」も筋立ては同じである。
演じる人によるのかも知れないが、「大山詣り」は「おけがなくておめでたい」で終わる。旅の途中の喧嘩が原因で起こった騒動なので、旅の終わりに「怪我ない」「毛がない」は、かけるにじゅうぶんに値する言葉なのだ。
ところが上方の「百人坊主」は違う。もちろん「怪我なくてよかった」というセリフは出てくるが、剃られたツルツル頭を見て笑ってしまった亭主たちに怒って(死んだと聞かされて泣いてたから)、女房たちは「あんたらも坊主にする!」とやってしまうのだ。
つまり坊主頭が一気に2倍に。
ここから、伊勢参りに行かなかった老人・子供、若者、男女を問わずこの村では丸剃りがブーム化。老若男女、すべてスキンヘッドになってしまった。いくとこまでいくと言うか、ある種猟奇的な想像まで至ってしまうような光景になる。
そして、あれ?一人だけちょんまげのままの人がいる…と思ったら、お寺の和尚さんだった、という謎のオチで終わる。
「全員(百人)坊主頭」だからこそ、坊さんが普通の髷姿、というコントラストはわからないことではないしギャップとしてはオチになるような気もしないではないが、やはりどうも無理がある気はする。上方のこのあたりを「もっちゃり」と呼べるとしたら、もう大胆にバッサリ切り落としているのが江戸の「大山詣り」の、なんとも粋なところと言えてしまうのかも知れない。
文七元結
謎なのは「文七元結」である。
笑える「滑稽噺」たちは、多くが上方から江戸へ、移植された噺だ。
理由は「笑えるから」だ。
今で言うダジャレ(「口合い」という)すら、言えたら座を盛り上げるヒーローと言われたりしたのである。プロの話芸で、しかも腹抱えて笑えるなんて、テレビやネットのある現代では考えられないほどの価値のあることだった。移植する理由としては充分であろう。
移植は江戸→上方ではなく、上方→江戸の方向性で行われる。
なぜならば「大阪の噺の方が面白い」からである。
江戸より、面白い噺は上方に決まっている。
これは、おそらく太閤秀吉の時代からの常識であったのではないかと思う。
お笑いはいまだに西高東低である…というのは、言い方として適切ではないかも知れない。西と言ってももはや今のそれは「関西弁のこと」としか言いようがない状態だ。西で売れた芸人は東を目指す…ならば芸の本場は東京ではないか。
しかしながら、かつては現在のようにここまで地方の文化が東京ミックスになるとは思ってはおらず、交通の便がここまでよくなるなどとも想像は難しかっただろう。時代が明治になって江戸が東京に改名されると、全国で「東京ブーム」が起こった。商品に「東京」とつけると売れるというのである。最先端で、大都会で、帝も移られた場所。
でも大阪には気概と自負があった。面白い噺で、大阪よりに勝てる場所などあるわけあらへんがな。それは、今も続く事実と言える。
面白いから江戸から上方へ移植しましょう、という噺はあまり存在しないのである。
なぜ、少数しか存在しないのか。それは「その必要がないから」だろう。
昭和にいたるまで、
江戸のおもしろい噺<<<上方のおもしろい噺
という通説が、しっかりと根付いていたということであろうと思われる。
では、江戸から「人情噺」をどんどん移植すればよいではないか。
人情噺は、笑いを起こす必要はない。
「話芸」という範疇で扱える。
プロの話術で、ウケなくても鑑賞に耐え得る。
滑稽噺は、笑い声が大きくないと成功とは言えない。
上方にだって人情噺はある。
だけど笑いを取りすぎて、実は論理的であったり人情に根ざしたものであったりという部分が、影に隠れてしまっているのだ。そんな部分は、照れ臭くて前面には出したくない、という大阪人の気質の現れなのかもしれない。
これは勝手な推測だが、「江戸落語嫌い」の大阪の人らは、その恥ずかしげもなく「人情による感動を押し売りしてくる雰囲気」が嫌いなのだ。そしてそれをして「日本文化」だとしようとする、たかが400年程度しかない江戸の伝統とやらを、どこか見下げているところがあるのだ。
逆に江戸落語こそ「粋の極み」と上方落語を下方に見ている人たちもいる気はする。あんなのは笑わせてるんじゃねえ笑われてるんだという気持ちもあるかも知れない。キップもなくイナセもなくヤセガマンもなくセツナさもない、ずるずるだらだらした、「ベタベタした駄弁り」だと。
江戸落語の「人情噺」の、どの部分が「人情に当たるのか」が問題のような気がする。
上方ではそこが問題視されそうな気がするのだ。
人情は移植できない!?
2010年代に入って、「文七元結」が上方に移植されている、という話を聞いた。
桂ざこば氏の高座である。
そもそも江戸では大ネタとして扱われる「文七元結」なので、まずは重鎮クラスがやらないと下のものが扱えない、というような都合があったのだろうか。ではなぜ、兄弟子に当たる桂枝雀や、師匠である桂米朝(共に故人)は、「文七元結」や「鰍沢(かじかざわ)」を移植し、得意ネタにしていなかったのだろうか…。
「文七元結」の場合、人情にあたる部分、理屈では替えがたい、人の気持ちで対応するしかなかった悲喜交々…とでもいう部分は、やはり「自分の娘を女郎屋に売り渡すことになってしまいかねない50両という大金を、命を捨てようとする見ず知らずの若者に、名乗りもせずに与えてしまう」ところだろう。
ここには、目の前の命を助けなければ自分は人間ではなくなる、という判断と、かわいく健気な娘をちゃんと救い出したい、という価値観の揺れが出てくる。そして目の前の判断を取るわけだが、この筋立てが古典として長く残っているということは、観客たちが、何百年もこの部分にグッと来ている、ということでもある。
「そんなの構うなよ」
「娘の方が大事」
「まず店へ連れて行ってあげれば良い」
など、合理的な判断と行動はいくつかあると思う。
だけど…というところだ。「宵越しの金は持たねえ」というような、江戸っ子の気質がベースに理解を助けているから、ああ、そういうところでそういうこと、やっちゃうんだよねえ…わかっちゃいるけど意地張って…かわいそうだけどしゃあねえや。みたいな、言ってみれば映画「男はつらいよ」の寅次郎に通ずる不合理さを受け入れる素地、のようなものがある気がする。
その点、やはり大阪弁で演じられる辰五郎(江戸落語では長兵衛)には、この「てめえの理屈だけはしっかり守らないと気が済まない江戸っ子気質」みたいなものがなかなか感じられない。もちろん、ストーリーは同じなので同じ場面で同じ行動を取ってしまうのだけれど、「助ける理由が違う」ように感じてしまうのだ。そこが上方独自の「文七元結」になっていくためのポイントなのかも知れない。
「やたけた」で「きさんじ」で「自分勝手」だけど人を助けてしまう、矛盾を抱えた新たなキャラクターの創出が待たれる。そもそも矛盾した新しい街・江戸で出来がっていった江戸っ子気質という矛盾した性質に負けないような、言ってみれば「じゃりン子チエのテツ」のような、打算的な部分を含んだキャラクターになっていくのが良いのかも知れない。
それを最初に演じているのが桂ざこば師匠だというのは、やはり象徴的なような気もする。