手紙A
拝啓
お手紙を読んで、やっぱり、と思いました。そして、「K君は月へ還った」と思いました。
あなたが、K君の溺死について、強い疑問を持っているように私には見えましたので、その解決の手がかりとして、また、K君の短い生涯の記録として、K君と私が出会った、あの不可思議な夜の出来事と、それに関する、私のやや突飛ともいえる考察についてお話しようと思います。
その頃、私は肺を悪くして、海沿いのA町の療養所に入っていました。
熱が下がりきらないために、もともとあった不眠症が酷くなり、あの夜もなかなか寝付けずにいました。
満月のために、とても明るい夜でした。
カーテンを開けて、ぼうっと窓の外の海辺を眺めていると、患者服を着た人影が、満月に背を向けてふらふらと動いているのが見えました。
同じように眠れない人が、散歩をしているのだと思いました。しかし、次第に目が明るさに慣れてきて、より鮮明に捉えられるようになるにつれて、その人影の奇妙な行動に魅せられていきました。
その人は、俯いて足元を見ていました。そして、前後左右にふらふらと動いているようでした。落とし物なら、月の方を向いているはずなのに、その人は全く月に背を向けていたのです。
眠れずに暇を持て余していた私は、その人物の不条理な行動を好き勝手に考察する、やや悪趣味な娯楽に興じていました。
私が、その人に声をかけることにしたのは、退屈な病院での暮らしを一変させるような身勝手な期待を、その人に託していたからに他なりません。
しかし潮風は、私の騒がしい考えを削いで、いつしか澄み切った炯眼だけが残っていました。
相変わらず、その人は影を真剣に見つめて、前後左右に行ったり来たりしていました。
こちらには気付いていないようだったので、私はすぅっと息を吸い込んで声をかけました。
「落とし物ですか?」
月の方を向いていないので、そうでは無いことは分かりきっていました。これは、話しかける口実に過ぎませんでした。
こちらへ振り向いたその人は、澄んだ美しい声で
「なんでもないんです。」
そう言って、照れたように笑いました。
私たちは、砂浜と道路をつなぐ階段に並んで座りました。先ほどまでの奇妙な行動について尋ねると、少し迷っている様子でしたが、潮風が一段と強く吹いたとき、さらりと風に乗せるように彼は話し始めました。
「じっとね、自分の影を見つめていると、だんだん影が実体を持ち始めて、ついには、人格を持って動き始めるのさ。けれどね、ただの影じゃいけないんだ。空からの光、月の光なんかが、平行光線になっていて、僕はいちばん良いものだと思うんだ。影をゆらゆら動かしてやると、砂利から原石を見つけるみたいに、より鮮明に現われてくるのさ。そして最後には、影が僕を奪い去ってくれるのさ。」
これが、K君の口調でしたね。
彼は、この事象の根拠を、どこか神秘の國に置いているように感じました。
風に靡いた長い前髪の下に、彼の柔らかい瞳が見えました。
「影が実体を持ったら、あなたは消えてしまうの?」
私が尋ねると「僕は、月へ還るんだ。」
そう言って、また笑いました。
彼には少年のような愛嬌があり、院内の皆から、K君と呼ばれていたので、五、六歳ほど年上でしたが、私も皆に倣ってK君と呼ぶようになりました。
私たちは、度々互いの病室を訪ねあうようになりました。もっとも、私の病状が良くなっていくのと反比例して、K君の病状は悪化していくばかりでしたので、彼が私の部屋へ来ることは、結局ほとんどありませんでした。
知り合ってすぐの頃、中庭から朝焼けの海を眺めることが、二人の流行りだった時期がありました。
ある時、一隻の漁船が太陽の前を横切り、それが逆光になって、さながら影絵が動いているようだ、という話で大いに盛り上がったことがありました。
「あの船は、影に奪われてしまったのね。」
「影が、実体を持つことの証明だ。」
私たちは、熱心にそんなことを論じていました。
そんな折、私の方は退院が決まり、二人であちこち撮って回ったフィルムをK君にあげようと考えましたが、先ほど書いた通り、K君の病状は日に日に悪化していき、この時には彼の病室はいつも閉め切られていて、先生方とごく親しい人しか会えなくなっていましたので、仕方なくフィルムは看護師さんにお願いして、私はA町を去りました。
あなたのお手紙で、K君の溺死を知った時、きっと「K君は月に還った」のだと思いました。しかし、そもそもとして、どうして彼は影に実体を与えたのか、今となっては誰にも分からないことであります。
それでも、この結末が彼の望んだものであったなら、私は涙を呑もうと思います。
最後に、K君が旅立った、あの不可思議な夜のことを、思い出を土台に組み立てて、終わりとさせていただきます。
その夜の月齢は、十五・二。月の出が六時三十分。十一時四十七分に月が南中する時刻だと、本暦にはありました。そしてその夜は、本当に影が「見えるもの」になり、K君の記憶と心を奪ったのです。
空っぽになったK君は、影に手を引かれるように、するすると海へと歩み入っていきました。
記憶と心は影へ、肉体は海へ、そして意識ともいいましょうか、K君の魂は、月光に逆らって、月の方へと登っていきました。
彼の身体は、沖の方へ倒され、浜辺へと叩きつけられました。
ついぞ、肉体は無感覚で終わりました。そして、影が見送るなか、K君の魂は、月へ月へ、飛翔し去ったのであります。
敬具