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#9 誰も知らない廃墟で君と

 春は、市営団地の駐車場を見下ろす高台一択、染井吉野を綺麗に見るなら絶対に外せない場所。

 夏は隣町の香取神社、境内のけやき下のベンチは心地好い風が通る道、板チョコモナカが隣にあれば何時間だって座っていられる。

 秋を感じたいなら西小近くの通称三角公園、園内の林は銀杏の樹が多く、時季にはその実の匂いで充満する。

 そして冬と言えばやはり町の南、ゴーストタウンと呼ばれる一帯。ぼた山を切り崩して造成されたものの半分以上に買い手がつかず放置状態の宅地、区画された更地が視界いっぱいに広がるその光景は時間が止まっているように感じさせてくれる。更に言えば、終点の一つ手前のバス停で辛うじて営業しているショッピングモールから平成情報なんたら大学に抜ける通りをひたすらに歩くコースが一番にお勧め。奥へ進む毎に建物の数が減り、たまに車とすれ違うだけで人影なんかは全くなくなり、やがて見渡す限りの更地にたどり着けば其処を現実と地続きの場所と理解しながらも自分が死んだ後の世界を覗き込んでいるような、そんな不思議な気持ちになれる。

 或いは夜中にふと目覚め、ブルーライトの残像の向こうに天井の一角を眺めているその時に抱く、自分以外の人間は全て意識下の産物でありこの部屋だけが世界の全てだ、なんて妄想と同じ、重力を解いて世界を俯瞰した気分で味わう歪んだ優越感だ。

 ともあれ。

 散歩の楽しみ方も四季折々だという話。

 なんて言い方をすれば趣味人だと捉えてくれるかしら。

 けれど僕の場合、歩くのが好きと言っても現実逃避願望がその実相、何処にだって行けるような気分を抱いてひたすら歩いている内に疲労感で頭が空っぽになる瞬間を迎えたいだけの、ちょっと情けない動機。

 今だって、今朝あった嫌な出来事から逃げている。

 高校時代から十年続いた彼女に三行半を叩きつけられた現実から目を背けたいが為に歩いてる。

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 今日は八月十二日、チーバくんのツイートによれば君が代記念日でありエルヴィン・シュレディンガーの誕生日。

 大学受験失敗に始まる僕の漂流は、現在、一時的な停泊の積もりだったコンビニエンスストアの夜勤を三年続けている状態、そして昨日の出勤途中に、長い尾鰭を引いて泳ぐ琉金をあしらった紺地の浴衣姿の彼女が男と腕を組んで歩いている現場を目撃してしまったという次第。

 バングラデシュ出身の同僚に迷惑を掛けながら、気もそぞろに仕事を終えて、今朝、出勤前の彼女を電話で捕まえて質したところ、相手の男とは関係を持って三ヶ月目、正式に交際を申し込まれており、昨晩は一緒に盆踊りに出掛けたのだと回答された。僕のバイト先を知らぬ訳でもあるまいと訊くと、別れ話を切り出し難く、わざと見付かりそうな場所を選んで歩いた、今はようやく発見してくれたという気持ち、これで互いに吹っ切ろうなどと言い渡された。

 一方的な話だと憤慨したとして誰が僕を非難出来ようものか、決まった相手の存在を認識しながら粉をかけるだけではおさまらず関係に持ち込むような手合いは須く笑えない禿げ方をして養毛増毛或いは植毛の為に借金塗れになれ。

 とは言いつつ、節目に指輪の一つも用意出来ない自分が不甲斐なく、彼女の言い分を僕は呑み込んだ。

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 目蓋に溜まった汗が眼球に刺激を広げながら視界をぼかす、肩口でそれを拭ってはただひたすらに足を前に蹴り出して進む夏の散歩はやはり好い。

 気付けば僕の足はゴーストタウンに向いていた。

 幹線道路に出るその道は、歩道は勿論、自転車専用レーンも敷設されておりきっと大通りにする予定だったのだと思われる。それを逆行するように、延々と続く更地を突っ切った先、舗装が途切れた地点に黒と黄のコーンバーが頼りない存在感を以て設置されている。その向こう側にはなにがあるのか、それとも行き止まりか、確かめた事は未だ一度もない。

 バイト先に電話をし、欠勤希望の旨を韓国出身の副店長に伝えた。

 炎天下に往く死後の世界もなかなか乙なもの、ならば今日こそ本当に何処までだって到達し得る、そう思った。

 そして。

 スリットにペニスを挿す想像をしながら境界線を跨いだ僕は、その先で巨大な墓標を発見する。

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 今の暮らしを続けた先の将来には不安しかない、と言われてしまえばそりゃあ反論の余地はない。計画性や努力、根性が足りないという指摘が客観的に見たら尤もだとしても成功体験のない僕には強者の理論、どこに隠れようとそれが追い掛けてきて実らない努力も届かない根性も計上されない始末、ならば社会に自分の居場所はなくていい。なんて考え方はきっと怠け者の理屈として切って捨てられる、だから口にする事なんか出来なくっていつだって僕は孤独だ。

 などといつも同じ場所に行き着く思考を、頭の中を空っぽにするべくに無意識の内に走らせていた為か、それとも同じ歩幅で砂利を踏み続ける単調なリズムに意識が微睡んでいたからか、それが突然に目の前に現れたように僕には感じられた。

 冷たく意味なく存在する奇妙な無機物。

 ところどころ黒ずんで、二度と息を吹き返す気がないという顔をしたねずみ色の並列がその存在感を以て青空を背景に従えている。

 十二階建てのおそらくは集合住宅が五棟、建設途中で打ち捨てられてあった。

 硝子の嵌まっていない窓は目玉のない眼窩、幾つものそれに見下ろされ、自分の存在が不確かになってゆく恐怖を感じながら足を進め、四棟目の屋上で何か白いものが翻るを見た。縋るように追い掛け、それはマキシワンピの裾だったと判明した。

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 きっと誰も知らない廃墟、それも手すりもなく据えた臭いが満ちる階段を十二階分も上がった屋上に独りでいたのだからそりゃあ、余っ程だ。

 直ぐに自殺志願者だと判断して当たり前だったのかも分からない、けれどそう出来なかった理由は自分にも不明。床から三十㎝程度高いだけの、建物の縁に設けられた外枠に外側を向いて腰掛けていた長い黒髪の彼女の、屋上に到着した僕を刹那に振り返って見せた無表情は街で行き違う人たちに貼り付いているそれ。

 地表を手繰り寄せるみたいに建物の縁に近付けば即ち安全地帯が狭まる道理、否応もなく屋上の高さを実感させられる。高所恐怖症の気のある僕は、彼女の傍までたどり着いた時には四つん這いになっていた。外枠に背中を預け、尻の下に地べたを感じてやっと人心地ついた。

 そうして僕が彼女に向けて発した一言目は、状況を客観的に見たなら随分と間の抜けたものだったかと思う。

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「こんにちわ。今日も暑いですね」

「ここに来るのは初めて」

「え。ああ、うん。なんか偶然にたどり着いた感じ」

「好い眺めだよ。独りぼっちになれた気分。外、向いたらいいのに」

「実は、怖くってね。君は怖くないの」

「あたしもね、実を言うと今日が初めてなんだ、ここに来たの」

「そうなんだ。偶然見つけた感じ」

「でも、さっき飛行機が飛んでって台無しにされちゃったけど」

「珍しいんだね。女の子ってやたらとつるみたがる印象だから」

「ここ、立ち入り禁止だよ。お兄さんも悪だね」

「ほんのちょっと道を間違えただけだよ。君と同じくね」

「本当は怖がった方がよかったんだと思う。空っぽだって他人から教えられるより自分で気付きたかったもん」

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 大変に夏を感じさせる、ちょっぴり古風な、白地に小さな向日葵が沢山咲いたワンピース。とても落ち着いた喋り方かと思えば声音を使ってお道化たりもする。姿かたちは女性、仕草は少女。ものの数分で惹かれていた。

 彼女は靴を履いていなかった。

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「ねえ君、もしかして自殺しようなんて思ってない」

「だとしたら、止めてくれる」

「説得はしてみようかな」

「生きてればきっと好い事があるよ、なんて言ったりして」

「今の僕には説得力のない言葉だなぁ、それ」

「へえ。真摯なんだ」

「見た目通りだと思うけど。それじゃ意外性がなくて詰まらない、とか」

「そんなふうに言われてよく女の子から振られるタイプ」

「何度も振られるほどそういう場所に出掛けてた事もないけど、安く見られるのは常かなぁ」

「正直な見方をされてたんだね。でも、別に堪えてない」

「僕の事はどうだっていいよ。君は、ちやほやされるでしょ」

「そういう嘘吐きしか寄ってこなかった。だから空っぽにされちゃった」

「気付きたかったってさっき言ったよね。だったら自覚したって事なんだからさ、これからは巧くやれるようになるんじゃない」

「そういうものの見方をしたらあたしもあたしに嘘を吐いてた人間と一緒になっちゃうの」

「そうかな。そういう人種とは距離を置いて、そんで同じやり方をしなければ自ずと道も見えてくると思うけど」

「そうかな。そうなのかな」

「実感を以て僕も言える訳ではないけど、安く見られても堪えてないふうに僕が君にそう見えてるなら、うん、この生き方が少なくなくとも間違いではないって僕は言えるな」

「そうなんだ。へえ、そうなんだ」

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「だったらもう少し」

 と彼女が言って、屋上の外側に向けていた身体を回転させ縁の上に立ち上がる。その動きを追い掛けたワンピースの裾がふわりと舞う。

「生きてあげようかな」

 えい、と勢いをつけて縁から内側に、話している内に胡坐をかいていた僕のずっと先に飛び降りた彼女が、軽い前傾姿勢のまま、臀部を両手で叩きながら僕を振り向いて、微笑んだ。

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「でもね」

 と、上体を起こした彼女が。

「ごめんね、あたしも嘘吐きになっちゃった」

 改めて振り返って僕に見せたそれは、僕が夜勤を終えて帰宅する時に行き違う駅に向かう人たちが貼り付けている無表情。

「幽霊なんだ、あたし。もう死んでるんだ」

 彼女は靴を履いていなかった。

「さっき、歩いて来るあなたの姿がここから見えて、それで急に怖くなって飛び降りちゃった」

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 お道化て冗談を飛ばす調子とは違う落ち着いた喋り方、表情も然り、だけど俄かに呑み込み難い話に僕の頭は混乱する。或いは行き違う人たちを生ける屍みたいだと思った事が確かにあるけど幽霊だとしたら駅に向かう必要がまるでなくなってしまう、だから駄目だ、死んでいるだなんてそれは認められない。ともあれ屋上の縁から身を乗り出して下を覗き込めば真偽は判然とする道理、性質の悪い嘘だと思いたい気持ちが苦笑いになって頬に表れている事を自覚しながら僕はもう一度四つん這いになる。ちょっと待って、こんな時に電話だ。韓国出身の副店長からだ。突き出した尻に彼女の足の裏の感触。はいもしもし。独りで死ぬのは怖いからあなた道連れね。え、今なんて言いました。ごめんね。彼女の足が蹴り出され僕の身体が屋上の縁から押し出され、これはなかなかに性的興奮を覚える行為。もっとお願いしてもいいですか。代わりが見付からないからどうにか出勤してくれないか、ですか。分かりました。あ、携帯落としちゃった。僕とどっちが先に壊れるかな。とにかく副店長、事情は分かりましたからなるべく出勤する方向で努力しますけど、根性出してみますけど、僕、今日は本当に何処までも往ける気がするんですよねえ。

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 誰も知らない廃墟で君と。

('02.6.17)

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