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track 03 「予習した通りにやってこの態」
その仲間内で男子寮と言ったら、携帯の電波はおろか外来語も届かない山奥の孤児院出身者の内の、男子ばかりが集まって共同生活の場としている二階建てアパートの事を指した。市立宝町高校からは徒歩でおよそ三十五分、最寄の宝町駅からも二十五分を要するという立地について不満を言うものは住民の中には居なかったが、帰路を含めると気軽には立ち寄れないという理由で外部には不評だった。
その男子寮の、娯楽室と呼ばれ出入り自由の共用部屋となっている101号室にて、住人の一人である清渚水流、通称清流がテレビ番組を眺めくつろいでいたところへ、同じく住人の小龍包虫男、通称小虫が申し訳程度の短いノックと同時になだれ込むように入室してきたかと思うと。
「ちょっとこれ、見てみてくんねえか」
自身の携帯電話を突き出し、続けた。
「文字に起こしてまで伝えようとした情報、だとすればそこに何某かの意図が込められてなきゃあ理由がつかない、詰まり俺はこれを暗号だと睨んだ訳だがしかし解読がどうしても、出来ねえ。清流、お前はどう読む」
文字会話アプリが開かれた状態の画面、メッセージの送信者は市立宝町高校の後輩、千葉今日太、そしてその内容がなるほど目眩必至の他愛のなさ、故に清流は小虫に対しこう答えた、ムレータを翻す闘牛士の気持ちを想像しながら。
「部屋に、国見さんは居なかったのかい」
やはり男子寮の住人である神代国見、彼こそは、孤児院出身ではないその出自が故に現代風俗に疎い小虫や清流らにとっての都会暮らしの案内人。だがその頼るべきが。
「先刻、ちょいと外で歌ってくるっつって六絃琴を提げて出掛けてったとこでな」
合点がいったと清流が、顎を引いてこくりと頷いてみせる。
「だから仕方なくって訳でもねえがお前が、へっ、この世界の流儀を早くに理解しようと勤勉に取り組んでるなら頼ってみようかってな」
小虫が横目でちらりと、映像信号受像機を見遣る。指揮者も楽譜もなしに勝手気ままに奏でられる管弦楽の方がまともに思うくらいに、その画面は騒々しい。
「なんなら小虫くんも一緒にどうだい。郷に入ってはなんとやらだよ」
「膨大な量の情報を無選別に浴び続けると考えると頭がどうにかなっちまいそうでな。都度、必要に応じて能動的に、或いは仕方なしに取り入れるべきのみを取り入れようって肚だ」
「実践主義、なるほど小虫くんらしいね」
いま一度、清流が携帯の画面に視線を落とす。今日太からのメッセージが詰まり以下の通り。
『こんばんわ~ 小虫さんいまヒマですか~? 自分はヒマ過ぎて一時間も風呂に入っちゃいました~(笑)』
それを小虫に向けて返しながら続ける。
「だったら、明日にでも今日太くんに直接、この発言が如何なる積もりかを訊いてみたらいいよ。暗号であり隠された意味を持つとして、けれどそれが急を要するという事は絶対にないと僕が断言するからさ」
その言葉よりむしろそれを発する際の表情をじっと観察していた小虫、清流の提言を受け容れる。
「へっ、郷に入ったらなんとやらか」
果たして用事が済むなり早々に、踵を返し部屋を後にしようとする。その向けられた小虫の背中に対し清流が。
「馴染むと言えば」
と、孤児院出身者の一人、死屍毒郎、通称死郎の名前を出し、彼から映画館でアルバイトを始める旨の報告があったと伝える。
「面接のその場で即採用、早速明日から出勤だとかで帰りにここに立ち寄って、松理くんの父上の蔵書の中から主人公が臨時雇いに出る場面がある映画を何本か、見繕っていったよ」
「勤勉結構。そもがあいつは要領は良いんだ、割り切っちまえば直ぐにもう十年も前からこの世界で暮らしてましたみたいな面が出来る奴なんだよ」
「まさか先を越されるとは、といったところかい」
「別に競ってる訳じゃねえ。けどよ、こっちに来てから野郎、詰まんなそうにしてるだろ。だからなにか興味が向く対象にぶち当たる、副業探しがその機会になりゃあいいなと思ってよ」
「本当に、小虫くんは死郎くんの事が好きなんだねえ」
清流のその見解を戯言と捨て置くみたいに小虫が視線を、映像信号受像機へ逃がす。可愛らしく造形された妖怪がずらりと並び、音頭に合わせて歌い踊る様子が映し出されている。
「なんだ、化生の類が人気になってんのか」
「筆頭のこの猫の地縛霊からして車に轢かれて他界した途端に飼い主から見限られただなんて、なんとも浮かばれない裏設定があるそうだよ。一見は子供向け、だけど作り込みの部分に目を向けると侮れないよね」
「相手が誰だろうと常に全力で臨む、そうした誠実な態度こそ肝要という道理か」
まるで生命が吹き込まれたかのように絵が動く、それが新鮮で心地好く、しばらくその画面に釘付けになっていた小虫、音頭が終わると同時に我に返る。
「ともあれ今日太の件は一先ず納得した」
そうして。
「悪かったな、お勉強の邪魔しちまってよ」
清流に対し少々の嫌味で先の戯言への意趣返しを果たし、娯楽室を後にした。
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翌々日、放課後の宝町高等学校。
その直線型校舎の三階南端に位置する音楽室に、そこを普段からの溜まり場としている連中が集う中、死郎だけが自分の意思ではなく、呼び出しに応じる形で居た。主に孤児院出身者の収支を一括管理してその生活を支える共用口座、エム資金の参画者責任、即ち、アルバイトを即日馘首された事情を説明する為に、だ。
油断をすれば毛先が巻いて方々を向く猫毛、それを馴致するみたいに短くした髪型は、頭に岩海苔を撫で付けたように見える。目は力なく口は一文字に引き、そうやって表情を消し去る事で見るものに地味な印象を与える。死郎のその佇まいはまるで、ものの数に入れて欲しくないと訴えているみたいだった。
「紛う方ない吊るし上げ、それをする側に小虫くんが回るんですからこれは、いや、万難を排してでも立ち会うべき傑作ですよ」
「それが大人しく呼び出しに応じた理由か。だったら期待に応えてやらねえとなぁ」
死郎と小虫が一触即発の様子で睨み合う。そこへ、交尾する犬に水を掛けるみたいに、小虫の隣の席に着いた女生徒が一言投げ入れる。
「はいはい、睦み合いも程々にね」
三年生である彼女の名は波乃上花澄、通称花乃。白いワイシャツのボタンを上から三つ目まで外していても尚、窮屈そうな豊満な胸も然る事ながら、仲間内では金庫番としてエム資金の管理を担い、宝町高校生徒会に於いては甲斐甲斐しく副会長職を務め、更には週の半分は会計事務所でアルバイトとして働く、才色兼備を枕詞にその名を学内に知られた存在。
「それとも本題を済ませた後でなら幾らでもじゃれ合いなさい。どうせ二人とも、暇でしょ」
尊敬の眼差しを向けられても驕らず出しゃばらない性格もまた周囲から慕われる理由の一つ。
だが稀に、彼女のその公明正大な部分こそが行き過ぎる事がある。
「ちょっと」
不意にぴりっとした声を、花乃が発して、校庭に面したベランダのある右方に顔を向ける。
「今、顔の左右で掌をひらひらさせながら巨乳の塩漬けやー、て言ったの誰」
小虫と死郎と花乃を、遠巻きにするような形で思い思いの席に着いた面々が、花乃のサーチライトのような視線と事実無根の言い掛かりに対しそれぞれ全力で回避行動をとる。
一年生の三塚松理、副業はコンビニエンスストア勤務、は、人はパンのみにて生くるものに非ず、などと思慮に耽っているような表情で窓の外を見遣り、その双子の妹のるる、副業はファストフードチェーン、どす恋バーガー宝町駅前店勤務、は。
「ふーふー、ふーふー」
視線を虚空に泳がせながら吹けない口笛を吹き白を切っている。るると同じクラスの山我轢、通称我轢、副業は対戦格闘専門のゲーマー、は、もう五分ほど続けているような顔をして腹筋運動に励み、二年生の青空勇希、通称空希、副業はなく男子寮に於いて家事全般を担当、は。
「今日はなにが特売かな。かつおが安いと嬉しいな」
今夕の献立に頭を悩ませている体を繕った。
果たして三年生の国見が、年長者としてその務めを果たす。
「来やしない出番を待ち続けているのではなく温存、故に塩漬けとは言い得て妙。或いはものは言いようと言い得るものの、花乃さんを負債扱いする輩なぞここには、ま、居る筈がないよね」
言わずもがなそれは花乃のご機嫌をとる事が狙い、しかし、国見の滔々とした喋り方は時に、感情をその裏に仕舞い込んでしまう爪楊枝で引っ掻いたような糸目と相俟って、只管に嘘くさい。
混沌、或いは紛糾するその場に正論を叩き込むように、清流が。
「ともあれ本題の方、進めませんか」
衒いなく、単刀直入に軌道修正を促し、ようやく事態が前進する。
詰まり、死郎が勤務初日に馘首されたのは彼の社会性の欠如した性質が原因だと判明する。具体的に言えば、映画館の売店にて、ポップコーンの塩味を注文したのに黒胡椒味を渡されたと憤慨するカップル客に向かい死郎が。
「どうせそのデッドリースポーンみたいな面した女を隣に座らせて股座をまさぐる事に夢中になって画面なんか見やしないんだし、いや、だったらポップコーンが何味だろうが関係なくないですか」
などと暴言を吐いた為、支配人によりその場で叩き出されたのである。
「既に研修を受けた分の時給も出ないそうですよ。これはいや、労基に駆け込むべきですかね」
「反省の色がないどころかこの開き直り、或いはエム資金制度に対する反対の意思表示なら小虫くんと話し合ってもらうのが一番かな、と思ってね」
花乃のその考えを酌んだような真面目な表情で小虫がうなずき、口を開く。
「確か宇宙生物だったか、あいつらそもそも顔なんかねえだろ。あれに似た面ってどんなだよ」
「いや、とにかく乱杭歯の具合が衝撃的だったもので」
「生まれ持ったもん詰るのは関心しねえな。お前だってちびすけ呼ばわりされると血相を変えて怒るだろ」
「そこじゃないでしょ、小虫くん」
「分かってるよ。人としての振れ幅ってやつをちょいと御覧に入れてみただけだよ」
花乃の突っ込みを余裕ぶりながら往なし、改めて、という顔をして小虫が死郎に視線をやる。死郎が立ったままで居るからちょうど、その表情筋を全て売り払った後みたいな熱のない無表情を、小虫が睨め上げる格好となる。果たして、場を遠巻きにしている連中に顔を向けて、小虫が訊ねた。
「で、死郎の何処に落ち度があったっていうんだ」
途端異口同音に、全てに於いてだ馬鹿野郎、と唾が飛ぶ。
「なんだよ、洒落の通じねえ奴らだな」
「それはこの社会全体に、いや、言える事ですね」
「しかしお前、予習したらしいのにその態か」
「いや、予習した通りにやってこの態ですよ」
「郷に入っては郷に従えよ、大人しくよ」
「自分には出来ない事をこそ相手に要求し勝ちですよね、いや、無能な人間て」
最早水を掛けたくらいでは止まらない激しい交尾、とでも言いたそうな諦めの表情を浮かべた花乃が、二人の間に割って入る。
「では、向き不向きを考慮して応募先を選別しつつ死郎くんは職探しを継続、という事でいいかしら」
「既定路線に沿った詰まんない結論だな、へっ」
「いや、統計に従い人を均一化したがるこの社会に於いてそれは必然的な流れでしょうね」
「ごちゃごちゃ抜かすなら二人とも、帰ったらどうなのあの山奥の孤児院に」
花乃の鶴の一声により強制終了、そうして死郎は、長い物に巻かれる方向の努力を強いられる事となる。同じく、エム資金参画者として小虫も未だ収入源獲得に奔走している最中であったから、二人は、同じ目標の下に競うような格好となる。
しかしそれは当然のように、二人が社会性に目覚めるという理想的な結末には、至らない。
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track 03 「予習した通りにやってこの態」
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いや。
なるほど貴方が陰さんですか。
それで、小虫くんとはそういう関係ですか、なるほどなるほど。
いや、僕はもう既に死んだ人間ですよ、だからこんなふうに気軽に叩き起こされたりすればそりゃあ不機嫌なのも当然じゃないですか。
なるほど予定になかった形の退場、世界を歪める際の生贄として言わば小虫くんの身代わりを僕がさせられたと、確かにいや、それは興味深い新事実ですよ。
だからと言ってその、陽さんですか、その人に対する怒りとか恨みの感情は湧かないですよ、それこそ今更ですもん、いや、既に死んだ身としては。
いや、ですから避け得ぬ命の終わりこそが誰にも覆す事が叶わない絶対の真理として世界を面白くしているとすればその六神円将とやらが僕の好奇心をくすぐるかどうかも関係ないんですよ、いや、こう見えても僕も分別はあるほうなんで。
いや、今しがた知り得た新事実に関しては僕がねだった訳ではなくそちらが勝手に寄越したものですからね、返してくれったってそうはいきませんよ。
え。
小虫くんが。
小虫くんが。
思わず二度見ならぬ二度訊きをしてしまいましたけれどもなるほど小虫くんが、僕が死んだ後にどんな半生を過ごしてきたかも分かる訳ですか必然的に、言われてみればそうですね確かに、いや。
それは興味深い。
それは確かに、いや、興味深い。
ちょっと考えさせてもらってもいいですか、いやもうだいぶ傾いてますけどね、正直もう信念を曲げる理由を考えてますけどね、僕一人が頑なに不文律に従ったところで誰も損をしないんじゃないかってね、いや。
いや仮にですよ、仮に僕がその茶番に、いや、六神円将とやらの思い出作りに参加するとしてどういった役割を演じればいいのか、いや、聞かせてもらってもいいですかね。
いや参考までにですよ、飽く迄も参考までにですよ僕は既に死んだ身ですからね。
いや。
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空希と我轢の居室である男子寮の102号室、朝夕時になるとそこは空希が腕を揮って供する賄い食を求めて住人が集う為、食堂の様相を呈する。この日の夕餉はそうめんとかつおのカルパッチョ、梅雨を跨ぎ夏を先取りしたような献立だ。
「一応お米も炊いてあるから、早い者勝ちになるけど足りない人は言ってね」
そこへ、帰宅した小虫が詰襟を羽織ったままの格好で顔を出す。
「おや小虫くん、今日の夕飯は要らないんじゃなかったのかい」
「ああ、ちょいと犬童に用事があって、そこで済ませてきたからな」
空希の問いに小虫が、宅配ピザ屋を経営する知人の名を出して答え、続ける。
「んで、せっかくくれるって言うんで貰ってきた。お前らにみやげだ」
蓋となる面に屋号を図案化した標章が印刷された平たい紙箱二つ、小虫が右の掌に乗せて差し出したそれを見るや否や短く刈って突き立てた髪型そのままの勢いで飛び付いたのは、腕白小僧、我轢。
「やった、マルゲリータじゃん」
「そっちの箱の蛸と長葱のやつも美味かったぜ。蛸の大きさが絶妙で食感が面白くってよ」
「本当だ、見た目も楽しくて食欲をそそるねえ」
下膨れの顔の輪郭と相俟ってたぬきを連想させる垂れ目を更に融かしたみたいな笑みを、平和主義者の空希が浮かべる。
「これは御礼状を書かねばなりませんかね」
「そこまで畏まったら奴も気軽にみやげを寄越そうなんてならなくなんぞ」
丸首の部屋着でくつろいでいるふうだが背筋を伸ばし正座をしている姿に生徒会長然とした雰囲気を残す、そんな清流に対して小虫が苦笑い。
「ともあれ食卓がちくはぐになっちまうがそこはまぁ、花より団子って事でよ」
果たして、めんつゆと胡麻油、トマトとチーズの匂いが一緒くたになり食卓が一遍に散らかったが。
「ご馳走様でーす」
或いはそれこそが男子寮らしい姿だった。
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死郎が黒胡椒味のポップコーンでデッドリースポーンを撃退した日から、およそ三週間が過ぎた。
ボウリング場でクロージングスタッフとして働けば、床洗浄用のポリッシャーに引き摺り回され各器具を破壊した。幼稚園で雑用全般を任された際には、洗剤の用量を誤り洗濯室を泡で一杯にした。レンタルビデオ屋に勤め、期限を過ぎても「キングコング2」を返却しないままでいる相手に催促の電話を入れ続ける日々はなかなかに楽しかったが、爆発事故により店舗が吹き飛びあえなく失職した。
「いや、人を引き摺り倒すほど勢いの強いポリッシャーなんて無論、有り得ませんから、予め石鹸水を床に塗っておいて巧く転んで見せる必要がある訳ですよ。泡塗れの洗濯室も同様、大量の洗剤は自腹で用意してますからそれで馘首されては踏んだり蹴ったりですね」
最早失敗こそが目指すところでありその肚積もりを隠そうともしていない、その態度に非難の視線を向ける花乃に応え、死郎が付け加える。
「いや、予習した通りにやってこの態ですよ」
放課後の音楽室、恒例化しつつあった死郎に対する査問会も一週間振りとなったこの日は、実務内容以前の仕事に対する心構えを事前に松理から叩き込まれ万全を期してコンビニエンスストアで働き始めた筈が、しかし、解雇ではなく自ら退職を申し出た、その詳しい事情がところの説明が死郎から為されていた。
「福利厚生の一環で定期的に開催しているらしい従業員が集合してのバーベキューに、いや、ちょっと断り難い誘われ方をしたものですからその場で制服を脱ぎ捨てて帰宅した、という次第ですね。それがどう楽しいのか、僕も理解する積もりはありませんからそうした場をこそ敬遠したい人種もいると知って欲しいとは思いませんよ、ただ、断るにも気力と体力を要しますからせめて誘い方を考えて欲しいという願いを込めた、いや、意思表示ですよね」
死んだ人間から借りてきたみたいな、死郎のその色のない無表情を、睨め上げていた小虫が自分と死郎を遠巻きにしている連中に顔を向け、訊ねる。
「で、その主張が正しくないと誰が、死郎を指弾出来るっていうんだ」
応えて松理と、松理と同じクラスの六神円将、副業は邪気祓い、と言っても周囲には通じない為に風水コンサルタントのようなものと伝えている、が全力のサムズアップで死郎支持を表明すると、今日太、副業は風水コンサルタントのようなものの助手、但しエム資金未参画、や、その姉で二年生の千葉明日美、副業は漫画家、但しエム資金未参画、同じく二年生の楪真白、副業なし、エム資金未参画、辺りが、言いたい事がない訳ではないという表情を浮かべつつ、しかし口を噤む。
「沈黙はお互いにとって不利益、詰まり平面ではなく立体で捉え得るならばその方が事の問題点を見易くなるという寸法です。発言をお願い出来ませんか」
清流のその落ち着いた口調は人の心を解きほぐす、応えて明日美が淡い水色の、スクエア型のセルフレームの眼鏡を右手人差し指の背で持ち上げる。
「とても清流さんらしい建設的な提案だと思います。ですが賢いやり方を承知しながら敢えて我が侭を通すと言い張る相手に真正面からぶつかる体力は、あたしにはないので」
「今日太くんはどうだい、死郎くんになにか言ってやってはくれないかい」
「ちょっと我慢すればよかったと思うんスよ。仲間とか友達とかってやっぱ、家族と同じで大切にするべきものスからね」
「楪さんはどうかな。一言くらいはあるよね」
「あたしはあのー、そうですね、明日美ちゃんの意見に賛成かなーて思います。あははー」
その三人を冷たく睥睨し、予告編から受けた印象の通りに詰まらなかった映画を観終えた時の表情を、死郎が浮かべる。
「お前も懲りねえな、清流」
と、横からくちばしを挟んだのは小虫。
「正論なんざ屁の突っ張りにもならねえ状況や相手が確かに在るんだって、俺がいつも言ってやってんじゃねえか親切にもよ、へっへっへっ」
頬に歪みを生じさせる、即ち凶悪な笑みを小虫が浮かべて見せると、それを死郎が、松理や円将がおっ立てた親指と同じ意味合いのものと理解する。果たして。
「では僕は、職探しを続行するという事でいいですかね。いや、落とした財布を夜の繁華街に探しに戻るみたいな気持ちで」
そう言い残して死郎が退室すると、まるで音楽室こそが袋小路であるかのように、残された皆が一様に錯覚した。
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学校から最寄の、宝町駅へと向かう大通りに出たところで、小姓、近習、大名の格好をした一団と出くわした。彼らが着る羽織の背中に、大江戸ブレッド、の文字、詰まり大名行列ふうのデリバリーで繁盛している人気のパン屋の従業員であり、故に異物感もなく日常の光景の一部として周囲に溶け込んでいた。その彼らと進行方向が同じだと分かると死郎は、道の端に寄り顔を伏せ、気配を殺して歩いた。例えば料理店で、その日が誕生日の客を囲んで従業員らが歌で祝福する場面に居合わせてしまった時の対処法、そんな具合に。
しかし最悪な想像ほど現実になるものだ。
フードデリバリー業者として宝町に於いて大江戸ブレッドと勢力を二分する、Pizza NINJA、その配達員、即ち忍装束に身を包んだ忍者が、駅の方から駆けて来て交差点の対岸に姿を見せた。途端、大名行列と忍者、その両者が持つ警報装置が特有のメロディでエンカウントを報らせる。それを合図に、直ぐの工事現場から警備員が、或いは駐車場から誘導員が駆け付け、彼らが見事な連携と手信号で以て的確に交通を誘導し、ちょうど果し合いが出来る空間を交差点の真ん中に作り出した。
大江戸ブレッドとPizza NINJAの配達員が職務中に偶然に遭遇したなら果し合いが開始されなければならない、これはもう絶対の決まり事。
天地の地に向けた刀の切っ先が半歩引いた己の右足を指すような具合、いわゆる脇構えの体勢をとった侍と、正面立ちで鎖分銅を振り回す忍者とが対峙する。
周囲が、試合開始の合図に飢えた観客と化しこの場に居合わせた喜びを全身で表している中、それとは対照的に平静な死郎、駅前広場で毎時丁度に大音量の鐘の音を響かせるからくり時計を、或いはボタンを押下すると所縁ある楽曲が全尺で流れて旅行客を楽しませる観光地の石碑を、眺める時の気持ちで居るように。
果たしてそのアトラクションは、幾つかの火花を散らせたその最後に、真一文字に胴を斬られた筈の忍者が身代わりの術を以て姿を消すという形で落着した。詰まり飽く迄も最優先はデリバリー、それもまた絶対の決まり事。
そうして観客として味わった興奮を口にする儀式を以て人々が日常に帰還してゆく、その流れに紛れ死郎が静かに立ち去ろうとしているところを、紺のスーツにその細身を包んだ掘りの深い顔立ちの白人男性が呼び止めた。
観念したように短い溜息を吐いた死郎が、応える。
「いや、お忙しそうでなによりですよ」
観客の誰も気付いていなかったが、侍との果し合いの最中に忍者が死郎を的にして棒手裏剣を投じ、それを死郎は眉間に命中する寸前で受け止めていた、という遣り取りが行われていた。その売られた喧嘩を掌に乗せて返却するように突き出し、死郎が冷たく白人男性を見る。
「それともむしろ退屈してるんですか、犬童さん」
イタリアに生まれながら日本文化に強い憧れを抱き、忍者になるという目標を掲げ来日したのが十年前、その五年後にPizza NINJAを創業し、以来、彼は犬童と名乗るようになった。先のアトラクションで活躍していた忍者が、彼だ。
「求職が難航してると聞きましたよ、死郎クーン。我々はいつでも仲間をボシューしていマースよ」
「いや、誰にも借りは作らないと決めてますから」
「つれナーイお返事ですね。せっかくのスキルも宝の持ちぐサーレじゃないですか」
「御自分こそ、いや、ピザの配達をしているだけで満足なんですか」
「今やピッツァの配達こそ忍者の使命、じダーイは変わるものデース」
懐から取り出して広げた紙切れを、犬童が死郎に向けて差し出す。それはこの週末から営業を始めるという鮨宅配業者のチラシだった。
「全国チェーンのバーガーショップ、あそこもデリバリーを始めるとかで配達員を集めてますね」
「応募しタノーですか」
「いや、規定以上の体重でなければ採らないとかで僕は門前払いでしたね」
即ちフードデリバリー戦争の勃発。
「今が均衡の保たれたヘイワーな状態、やがてこの町は戦ジョーになりますヨー」
「それはいや、結構な事じゃないですか」
今一度、一緒に仕事をしないかと死郎を誘うが返答は変わらず、それも織り込み済みという顔を犬童がしてみせる。
「では私は配達に戻りマース。チャオ」
必要はないが様式として、煙幕を張って、そして犬童が姿を眩ます。死郎の掌からも棒手裏剣が消え代わりに名刺が乗せられていた。必要はないが公共マナーとして、死郎はそれをほかさず紺のブレザーのポケットに仕舞った。
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西口から東口へ、宝町駅の構内を突っ切って抜ければ女子寮までは徒歩で後、五分。携帯電話の電波はおろか外来語も届かない山奥の孤児院出身の女子ばかりが集まり共同生活の場に選んだそこは、古い造りながらゆったりした広さの一軒家。その庭に張った天幕が死郎の寝食の場、住人から指名を受け用心棒として居候している。風呂は男子寮で借りるか水浴びで済ませ、排泄は近所の公園などを利用する、母屋に足を踏み入れる事は殆どない。
ちょうど二十時になろうかという頃、天幕の外に置いた木製の折り畳み机と椅子に着き、ノートパソコンを開き映画観賞、なるほど昨今の忍者はチアリーダーを弟子にとりその技を伝授しようとするものも居るなど、犬童の言う通り時代は移り変わるものか、等々と考えているところへ、母屋から夕食が出来たと携帯電話に報せが入る。勝手口へと向かい、扉を叩き合図をして待っていると、今日の料理当番である椎名南那、通称椎那が中から顔を覗かせた。
木目を生かした漆器の長手盆が色気とは程遠い、ならばそれに乗せられたキャベツときのこのパスタも心なしか無骨、更に加えて。
「きっと足りないだろうから特別に用意した」
野球のボール大の塩むすび二つと、一杯の味噌汁。
我流で空手に打ち込み、女性にしては大柄な体躯も天賦の才と捉えて誇る、そんな彼女らしい気遣いだと解釈して死郎が苦笑い。
「いや、有り難くいただきますよ」
ところで、と言って椎那が死郎を呼び止める。彼女の姉が所属する女子プロレス団体で臨時の雑用係を募っている、週末に予定がなければ興行の手伝いに来てみてはどうかと誘う。
「仕事を向き不向き、好き嫌いで捉える人間は大概割を食う、いっそ役回りと割り切るか実利度外視で自己実現を目指すべきというのがわたしの持論だ」
「犬用の首輪を猫に着けさせて大丈夫か、みたいな馬鹿げた質問の意図を酌むまでを接客と言って憚らないのであれば、いや、僕は根本的な問題解決の為に資本主義に異議を唱える覚悟ですよ」
「言葉の意味は分からんがとにかく凄い自信だ」
水平チョップを仁王立ちで受けてものとしないみたいに、椎那が続ける。
「裏方仕事にだって遣り甲斐はある、それを味わってみないかという提案さ。わたしもその日は前座で試合を組んでもらっている、だからお前も、初めての現場だと不安がる事はないぞ」
ぴんと背筋の伸びた姿勢も快活で健やかな口調も、極々自然なもの、故に善良な人間だと捉えられる事の多い椎那だが、しかし。
「久し振りに人を殴れるんだ、今から興奮しているよ」
空手を、暴力衝動を昇華する手段だと公言して憚らず、剥き出しのままの物騒な発言をして事情を知らぬ相手を驚かせる事がある。
とまれ。
「僅かな駄賃が精々という話だからむしろ、人助けと思ってちょっと考えておいてくれ」
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果たしてその週末、死郎は、塩むすび二つ分の義理を椎那に返す為に市民会館に居た。
選手がリング上で裂帛の気合を叫べば呼応して観客席も沸いた。観客が選手を盛り立てれば選手が放つ蹴撃の鋭さが増し、選手が観客を煽れば観客席から投じられる紙テープの数が増える、そうやって会場が一体となる事で以てプロレスの試合というものは、成立していた。
或いはその共闘関係は試合中のみならず、会場を設営する段階でも見られたもの、具体的に言えば、レンタル業者のトラックの荷台から次々と降ろされるパイプ椅子やリングの各部品を搬入口からイベントホールへ運ぶ列に、どこからともなく現れて極々自然に加わり、若手選手や練習生と談笑しながら作業に当たっていた彼が、しかし、選手ないしは団体関係者の誰某かの身内かまたは個人的付き合いがあるでなし、臨時雇いでなし、前売りで入場券を購入済みの只のいちファンであり、前座の試合が行われている今は客席、しかも特段の良席ではなく一般席からリング上の選手に声援を送っている、詰まり、全くの善意で会場設営を手伝う酔狂な輩であったのだと判明する。
「だったら、彼みたいなお客さんを何人か掴んでおけば僕みたいな全くの部外者を、いや、雇わなくても済むんじゃないですか」
「飽く迄もファンという立場で居たいから運営から報酬をもらうような真似は出来ないんだって。そんな気持ちで応援されたらあたしたちも試合で返さなきゃってなるから、手伝ってもらうのもありなのかなー、て」
ホール入場口の直ぐ脇、会場全体が見渡せる位置に二台並べて置かれた長机の上には、団体、または所属する各選手の個性に合わせてデザインされたTシャツや、過去の興行の模様を収録したDVDなどが所狭しと並べられている。即ち関連物品即売所、そこで売り子として立つ死郎の隣には、山吹色に染めた髪を玉葱みたいな形にした小柄で童顔の女性が並ぶ。革製の胸甲と、連ねた短冊で筒状を作ったような腰巻き、という姿はまるで中世の女戦士。
「普段はこのタイミングで私が物販に出る事はないんだよー」
死郎からすれば椎那の姉、だがこの会場に於いて彼女は、絵輪というリングネームで団体人気を引っ張るスター選手。
「いつもしぃちゃんがお世話になってるからそのお礼と、ご挨拶を兼ねて、ね」
「よくしてもらってるのは僕の方ですよ。ですから今日は少しでも、いや、恩返しが出来ればと思いまして」
「そんな優等生みたいな物言い、うちのお客さんには受けないかなー。これ以上は良識派を怒らせるかも、くらいがちょうどいいラインだねー」
にこにことした表情、故に冗談か本気か判り兼ねる、だがその言葉選びの段に既に含蓄を連想した死郎が、きっとうんざりするほど訊かれているだろう事も承知で敢えて絵輪に質問する。
「なんでこんな事を、いや、それこそ女だてらにしてるんです」
応えて、所定の場所に収めた財布を鞄から取り出すみたいに淀みなく、絵輪が続ける。
「例えばドロップキックとか、かっこいいから真似してみたいなーと思ってひたすら練習するじゃない。そうやって出来なかった事が出来るようになる楽しさを追求して積み重ねていったらこの場所に立ってた、そんな感じなんだよねー」
きっと何時、誰が、どのような訊き方をしてもその回答は変わらないのだと、正面を真っ直ぐ見詰めたままの絵輪の横顔にそう記されていた。絵輪のその視線の先、リング上では椎那が、スポーツマンシップに則り空手技しか使わないという精神性がところが徒となる形で一方的に攻められ追い詰められていた。
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本日から営業を開始するという鮨宅配業者のチラシ、そこに踊る惹句を信じれば、今日で四歳になる息子の誕生日祝いに持って来いのように思われた。だからその主婦は、今、家の呼び鈴を押したものが間違いなくその鮨宅配業者の配達人であると確信をしていたが、しかし彼女は息子の手前、とぼけた振りなどをして、彼を玄関まで誘導した。
本物の妖怪が美味しいお鮨をお届けします。
という文言が、更に、お鮨を、と、お届けします、の間に、お宅まで、という一語を吹き出しで囲った形で加えて、踊っていた筈が、そのちらしと右目に眼帯を被せた隻腕でやたらと上背のある配達人とを主婦は、思わず、見比べずには居れなかった。何故ならその配達人は全身に、泥を、気持ちが好くなるほどの晴天下でもしっかり水分を保ちしっとりとした泥を、塗りたくっただけの格好をしていたからだ。
「すみませんどちらさまですか」
祈るような気持ちで、その泥塗れの配達人がその泥塗れの右手に鮨桶を携えている事実を承知しながらも、しかしその泥塗れの姿が四歳の息子が喜ぶ類いのものでは決してないとの判断から、心の底から祈るような気持ちで、主婦は、そう訊ねた。
しかしその泥塗れの配達人は主婦の気持ちを微塵も酌む事なく、満面の笑みを湛えて、答えた。
「こんにちわ、妖怪魚市場から新鮮なお鮨をお届けに参りました、わたくし妖怪の泥田坊と申します」
「帰ってもらっていいですか」
祈りが、当たり前のように通じなかった事実に憤慨しつつも冷静に、雰囲気に呑まれてはいけないと足を踏ん張るみたいに冷静に主婦が、泥田坊が挨拶を終えるかどうかのタイミングで断固とした口調でそう言った。
「やはり踊りながら登場した方がよろしかったでしょうか」
「そういう事ではなくて帰ってもらっていいですか」
「かしこまりました。またのご贔屓を」
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閃光イリュージョニスト、即ちそれが絵輪の異名。
リング上を縦横無尽に疾る繊細な身熟しと回山倒海に暴れる大胆なメンタル、加えて本場メキシコで学んだルチャリブレ由来の鮮烈な空中殺法で相手を翻弄する戦闘スタイルを言い表している、しかし当人曰く。
「あんまし可愛くなくて気に入ってないけどしぃちゃんの、正拳突き職人、よりはましだから我慢してるの」
だがそのお株を奪われるように、動きを先読みされ見せ場を作れない展開が続く、終始攻められ反撃も不発に終わる、しかし青息吐息も不屈のメンタルで乗り越え相手の見様見真似の空中技が失敗した隙を衝き逆転、まさに閃光が如くのその試合内容はプロレスラーとしての絵輪の面目躍如たるものだった。
敗北という形で自身の出番を終えていた椎那が、関連物品即売所に立つ死郎の隣に並ぶ。
「いつもは姉さんのセコンドに付いて勉強をさせてもらってるんだがな」
そして、勝利の証であるベルトを誇らしげに掲げているリング上の姉に視線をやりながら、彼女よりも誇らしげな表情を浮かべて椎那が、言った。
「どうだ、わたしの姉さんは格好いいだろう」
詰まりそれは単純な好奇心と憧れを動機に個的な自己実現を果たして見せたのみならず、自己実現の願いを託すようにして見て呉れる者たちに応えた姿でもあるのだと、熱狂する観客越しに絵輪を見る場所に居て、死郎はそう気付く。ならば、照明を映り込ませて光る汗を飛ばしながらその場で前方宙返りを決めて見せた絵輪のその姿は、椎那の言う通りに。
「いや、さすが閃光のなんちゃらですよ」
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或いはその閃光の輝きを自分にも宿そうと言うのか、死郎はその日、帰宅途中にドラッグストアに立ち寄りブリーチ剤を購入した。
一方その頃、食堂として機能中の男子寮の102号室では、食卓の中央に大皿代わりに鎮座する鮨桶と、個々に配膳されたハヤシライスと隠元豆と人参のスープとの取り合わせを見て。
「これはまた随分と奇抜な、ま」
と言ったまま絶句する国見に対し、わさびの利き過ぎに悶絶して一時的に喋れなくなっている空希に代わって我轢が。
「小虫が持ってきたんですよこの鮨、当てが外れて余らせたとか言って。先に言ってくれれば味噌汁くらい用意したのに、て空希は嘆いてますけどね」
と、夕餉が混沌たるその事情がところをそう説明し、応えて大いに納得したという具合に国見が何度も頷きつつ。
「ま、しかしSUSHI POLICEのホンダさんには怒られそうだけど」
などと独り言ちていた。
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翌朝、始業前の市立宝町高校。
音楽室にて死郎による求職活動の最終報告が行われていた。
「生半な気持ちは捨て何事に対しても全力で当たるべきとする、即ちエム資金計画がところの代表者である小虫くんの理念、ここに今一度立ち返って改めて考え直してみた結果、という事ですよね」
花乃宛てに、昨日中に電子メールで提出された死郎によるその事業計画は、先を見据えた段階的な内容になっておりその戦略性に於いても評価せざるを得ないものだった。
「個人で、なにものにも属さず社会的、或いは政治的理念さえ持たずに言わば拝金主義を掲げ依頼の全てを盲判で請け負う、そうした覚悟の上で喧嘩代行業を始める事にしました」
色と癖が落ち頭髪が直毛のブロンドとなると全体、死郎は欧米人に見紛われるような外見を得た。それこそ望み通りに、特例でものの数に入れてもらえない留学生みたいに見えた。或いはその変化は同時に、難読漢字に読み仮名が振られたみたいな効果をもたらしたのかもしれない。詰まり、普段の無表情と違い今の死郎は、傍からも非常に分かり易い様子で。
「山を下りてからこっち、自己実現を目指すだけの動機も僕は未だ見付けられていない訳ですから、必然、自分探しの旅に出る事が求められるじゃないですかこの世界じゃ。詰まりその一環ですよね、喧嘩代行は」
地獄で閻魔王を騙くらかそうとしているみたいな表情を浮かべて、世を、嘲笑っていたのだ。
「決して本意じゃないんですけどね、そういった殺伐とした場所に身を置かざるを得ない事は」
昏い愉悦に浸りながら見せ掛けの仮面ではない生気に溢れた表情を、見せていたのだ。
「いや、本当に不本意なんですよ」
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一方。
「即時撤退は賢明な判断と評価するわよ、けど泥水と一緒に排水口に流れた準備金が戻ってこないのは事実でしょ。反省の弁くらい聞かせてもらえるのかしら」
と、花乃にそう促され、右手の親指の爪で、やはり右手の小指の爪の間に残った砂をこそぎながら。
「反省はともかく甘い事いかなかった理由は明白、本物の妖怪を雇い入れられなかったからだけどよ、へっ、そこに誠実さを欠いていたなどとは俺は微塵も思っちゃいないぜ、へっへっへっ」
と、頬を歪めて凶悪に笑む小虫に対し、今日太に憑いている河童がその水掻きのある手を広げて自らの存在を訴えるがやはり実体がない事から無視される、という光景を、円将一人だけが目撃してそして河童に同情を寄せたのであった。
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斯くして小虫と死郎は。
いつか忍者になりプロレスラーと戦う可能性を、或いは妖怪ピザ配りとなり子供たちを喜ばせる可能性を残しつつも。
或いはそれを担保に放蕩を決め込むように。
悪辣にも、誰ぞが骨を折って手渡してくれた筈の社会性をぽいと背後へ放り投げたのだった。
('16.11.1)