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track 01 「生きるか死ぬか今ここで決めろ」

 説明が必要となる場合に備え、大枠部分の設定を固め全体で共有しておく事が必須だった。しかし決めあぐねている内に期限も迫り、小説家とテレビタレントの二足の草鞋を履く知人に協力を仰いだ。その返答があって、枕もとでスマートフォンが振動した。

 起床時間にセットしていたアラームが鳴り出す十数秒前のタイミング、新生活が始まる朝にその為の準備が概ね整った、という寸法だ。

 仲間内で一棟まるごと借り上げているアパート、その105号室が神代国見カミシロクニミの居室。

 窓の外から会話する声が聴こえ、カーテンの端を摘まみ覗き見する為の隙間を作った。射した陽光が眩しく、爪楊枝で引っ掻いたみたいな糸目を更に細めた。

 利用者がなく駐車場としては機能していないそこに、紺地に水玉模様のパジャマ姿ではさみを構えて立つたぬき顔の少年と、ケープを着用し、窮屈そうに丸椅子に腰掛けている大柄な少年の姿があった。

 顔面に、右の眼窩を晒し頬まで走る大きな裂創を持つ大柄な少年の、無造作に撫で付けた獅子のたてがみ様の長髪、これをたぬき顔の少年が整えようというところだが如何様にするか、と相談をしている様子。

 それもまた新生活の始まりを告げる光景、際して万感こもごも到る。これまでの道程を経て今この場所に在るは奇跡か成り行きか、ならばいつか涙もろくなる事も、悪くはないように国見は思った。

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track 01 「生きるか死ぬか今ここで決めろ」

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 市立宝町高等学校、その校庭を囲むように植わった染井吉野が春を謳歌している。フェンスの向こうにその光景を見ながら往く新入生の列に交じり、三塚松理ミツヅカマツリとるるの姿があった。

 共に小柄、長くも短くもなく思想も主張もないなすがままの髪型、平々凡々な容姿の兄と、頭の両脇から髪の束を垂らしたいわゆるラビットスタイルのツインテール姿の妹。

 妹は兄を全幅で慕い、兄は妹の保護者を自認する。二人は双子。

 正門が近付く毎に表情を強張らせる、昇降口で上履きに履き替えてからは校舎内を牛歩で進む、果たして一年C組の教室に到着すると、ケーキバイキングを堪能した後に体重計に乗る破目に陥った時のように、るるが硬直していた。即ち人見知りが発動した状態。ならばその緊張を解してやる事が今の自分に与えられた使命、そんなふうに松理は認識する。

「どうしたるる、教室ここだぞ」

 普段と変わらぬ調子を心掛ける。応え、周囲の様子を覗う小動物みたいな動きでるるが振り返る。

「中は、知らない人でいっぱいだね」

 つぶらな瞳をじっと松理に向ける。

「知らない人がいっぱいだとるるは緊張するね」

 事もなし、と口角をほんの少しだけ持ち上げた表情を松理が作って見せる。

「そんな時はどうするんだ。母さん直伝のおまじないがあったろ」

 受けてるる、一呼吸の沈黙の後にはっと目を見開く、思い出したとその表情で云う。首をこくりと縦に振り、松理が頷いて見せる。

 果たして。

 くまを象ったアクセサリーをこれでもかと括り付けたまだ真新しい紺色のナイロンバッグを松理に押し付けたるる、ふん、と鼻息も荒く、胸の前に交差させた両腕を空手家よろしく腰に引いて気合注入、続けて右手の人差し指で左の掌に、る、と一文字記し、それを丸呑みして見せた。

「いけるな」

 松理の問いに、今度はるるが。

「ん」

 と、首をこくりと縦に振って頷き、満面の笑みを浮かべて見せた。

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 下膨れの輪郭に垂れ目、即ちたぬき顔。黒革の首輪はハートの形の飾り付き。全体を見ればお河童髪、だが左側面の一束だけ胸の下辺りまで届いている。朝、アパートの駐車場で散髪を頼まれていた方の少年は、その見た目から想像し得る若干の粘度を帯びた声でふにゃふにゃとした喋り方をする。

「クリームはとても美味しいです」

 名前は青空勇希アオゾラユウキ、仲間内での通称は空希クウキ

「クリームはとても甘くて美味しいのですから、きっとみんなが夢中になってしまって、我轢くんもその例外ではないでしょう。でもだからと言って、それが、冷蔵庫を勝手に漁って誰にも無断でそこにあったクリームを食べていい理由にはなりません。何故ならクリームはとても美味しく、僕だって食べたかったに決まっているからです」

 ふにゃふにゃと芯のない喋り方をする上に、話もまたふらふらと蛇行する。故に山我轢ヤマガレキ、通称我轢ガレキの、対面に座って喋っている空希をまるで居ないものとするみたいな、即ち一年C組の教室内、教壇から見て右端の列の最後尾の席で頬杖を突き正面ではなく窓の外の校庭に顔を向けている態度も。

「いいかい我轢くん、もう一度訊くよ。今日の朝に食べようと思って僕が冷蔵庫に残しておいたクリーム、食べたでしょ」

 致し方のないものだと言えた。

「黙秘だね我轢くん、都合が悪いからといって黙秘権を使うという事だね我轢くんそれは。だったら僕にも考えがあるよ、我轢くんがちゃんと正直に答えてくれるまで僕は延々と同じ質問を続けるよ。みんなが大好きなクリームの為に正義を行うという事だからね、それは詰まり。じゃあ覚悟はいいかい我轢くん」

 或いはそれは蛇行も迂遠も織り込み済みという容認、核心にたどり着くまで黙して待機しようとする構え。

「では改めて訊きます」

 空希の詰問に対し。

「僕が朝に食べようと思ってとっておいたクリーム」

 我轢は食い気味に。

「食べてないよ」

 必要最小限、且つ最短距離で答えを放った。

 逆立った短髪に三白眼、丁寧に捲り上げたワイシャツの袖に黒革の指貫き手袋。その出で立ちの通り、我轢は腕白で真っ直ぐな性格。或いは空希とは好対照。

「食べてなくないよ、だって僕が食べてないんだもん、そしたら犯人は我轢くんしかいないもん。それとも我轢くんは、寝てる間に僕が無意識に食べたとでも言うのかい、朝に食べるのを楽しみにしていたばっかりに」

「それ、一番に有り得るな。なんなら解決だなじっちゃんの名に懸けて」

「そうやって平気で嘘を吐く人に、我轢くんがなってしまって僕はとても悲しいです。年上としてきちんとお手本になってあげられなかったと思うと残念でならないです」

「どちらかと言えば俺がお前の保護者役。言いたかないけど面倒見たよ」

「でもねえ、我轢くんが嘘を吐いてしまう気持ちも分かるんだよ、僕。だってクリームは美味しいもの、甘くてふわふわで幸せだもの。だからそれを目の前にして我慢出来ないのも無理ないよ、ついつい食べたくなってしまうよね。そうだよね」

「まさかそれ、誘導尋問の積もりか。将来総理になってもいいけど刑事とか探偵は目指すなよ絶対」

 入学式を待つ新入生の教室は或る種の緊張が支配する場、しかし二人に、周囲に対する配慮は微塵もない。

「だから僕ね、クリーム幸福論を提唱しようと思っていろいろ調べてみたんだよ、インターなネットで」

「なは余計だな」

「国見さんにいろいろ教えてもらったんだ、スマートのフォンで出来る事」

「のも余計だな」

「クリームの原料はね、牛乳なんだって。うしさんは凄いね、お乳も出してくれるし食べても美味しいんだもん。もう感謝しかないよね、うしだけに」

「ちょっとなに言ってるか分かんない」

「それでね、クリームはクリームでもアイスクリームっていうクリームがあるらしくてね、どうやらそれはアイスなクリームらしいんだよ。知ってるかい、我轢くん」

「知ってるか知らないかで言ったら知ってるけど」

「僕はね、おそらくは冷たい方のアイスだって予想を立てたんだけどね、我轢くんはどう思う、それとも病みつきになっちゃう方のアイスかな」

「それはなに、え、覚醒剤を指す隠語の事を言ってんの。なんで急にそんなネタぶっ込んでんの」

「でもどっちにしろ食べてみないと分かんないって、小虫くんならきっと言うよね。だから今回ばかりはその考え方に僕は賛成するよ。ただでさえ美味しいクリームがアイスなクリームになったらどれほど素敵になるか、これはもう食べてみるしかないよねえ、アイスなクリーム」

「駄目、じゃないけど駄目なんじゃないかな、なんか止めなきゃ駄目なんじゃないかな俺の立場的に、病みつきになっちゃう方が正解だとしたら絶対に駄目だろっつって」

 或いは二人が共に居れば自然と発生する雰囲気、それは節度を忘れたものでも排他的なものでもなく、ただ、心が通い合ったもの同士の世界、なのかもしれない。

「またそうやって我轢くんは。僕がやりたい事をさせてくれない積もりかい、年下のくせに偉そうな振りをして」

「そういう事ではないけどいいよ、分かったよ、食わせてやるよ今日の帰りにアイスクリーム。たっぷりバケツサイズのレディボーデンでもチョコモナカジャンボでもなんでも」

「本当かい我轢くぅん。アイスなクリームだよ、僕が食べたいのはただのクリームじゃなくてアイスなクリームの方だよ」

「分かってるよ。ただ話が逸れてっけど冷蔵庫のクリーム盗み食いしたってのは俺じゃねえからな、このまま疑われ続けるのは遺憾だかんな」

 その時、彼が二年生である事を示す胸章の付いたブレザーのポケットの中で携帯電話が震え、空希に着信を知らせた。

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 獅子のたてがみ様で鬱陶しかった頭髪はさっぱりと刈り込まれている。

 右顔面に走る裂創により空ろにされた眼窩に黒革の眼帯を被せている。

 学校指定外の学生向け蘭服、即ち学ランを腕を通さず肩掛けしている。

 直線型校舎の最上階、三階の南端に位置する音楽室。その窓からの景色を一望しながら携帯を耳に当てているのは、アパートの駐車場で散髪を頼んでいた方の少年。

 名は小龍包虫男ショウロンパオムシオ、仲間内での通称は小虫コムシ

「だから夜中に野暮用で出掛けて、そんで帰ったら小腹が空いてたからよ」

「そんなんじゃねえよ。髪切ってもらったりとかして朝はばたばたしてたろ、それで言いそびれてただけだって」

「そりゃ我轢も災難だ」

「いや謝んねえよ、俺は関係ねえし」

「それはまぁ、お前の言う通りだけどよ。いいよ放っとけよ、柳に風で遣り過ごしときゃあ明日の朝には忘れてる」

「へっ。へっへっへっ。我轢はお前には本当に甘いな」

「任せる、好きにしろ。けどそれこそ水果と一緒に口に入れたら美味いんじゃねえか」

「そういう事、そういう事」

「おう、じゃまた後でな」

 そうして話を切り上げた小虫が、側に居ない相手との会話を可能にしたその手のひら大の板状の、端を右手の親指と人差し指で摘まむようにして持ち太陽にかざしたり、裏返したりと腑に落ちない様子で検める。

 仮想空間上に発生する知識の集合体が自発的に編纂した資本家と労働者の闘争の歴史の報告書を閲覧した、ふろふき大根の由来、即ち日常生活に於いて然して重要ではないが気になると知りたくなる程度の情報を調べた、道案内に従い土地勘のない町中を迷わず往き目的地にたどり着いた、保存された楽曲の演奏記録を外出先で再生して楽しんだ。

 昨夜も随時、その板状に備わった機能に触れ一通り驚いた。

「でもやっぱ解せねえ」

 仲間内で一棟まるごと借り上げているアパートの住人は、揃って、携帯の電波はおろか外来語も届かない山奥の孤児院の出身、とする事が今朝方、国見の携帯が振動した時に確定した。従って合理的に、彼らが最新の技術や都会の風俗に不慣れである事にも説明が付き、また、それらに対する反応や受け取り方に彼ら個々の、性質や性格が反映される事となる。

 小虫が身体ごと振り向いて、指で摘まんだ携帯を扇子のようにひらひらとさせながら、音楽室の中ほどの席でアコースティックギターを手遊びで爪弾いていた国見に向かって。

「だからこいつを俺は板んぱと呼ぶ事にする」

 と、宣言した。それはまるで絶対王者を挑発して憚らない挑戦者みたいに。

「そして積極的に踊らされてやるよ、この板んぱが象徴する何某かに」

 片の口角を持ち上げて頬を。

「国見、俺にお前がさせたがっている通りにな」

 醜く歪めて笑いながら。

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「え、いつの間に」

「それならそうとちゃんと言ってくれたらよかったのに。それとも黙っておいて僕が悲しむのを見てやろうって、意地悪したのかい」

「そっか、それはちょっと想像出来なかったな。もう絶対に我轢くんの仕業だと思ってて、今、問い詰めていたとこなんだよ」

「小虫くんも後で謝っといてよ、一言だけでも」

「関係なくないよ、理由はなんにせよ勝手に僕のクリーム食べて、それで黙ってたんだもん」

「それでね、今もね、今日の帰りにアイスなクリームを食べさせてくれるって事になったんだよ」

「それとね、僕が朝に食べれなかった分、今日の夜ご飯の時にもクリームを作ろうと思うんだけど、いいかな」

「いちごやみかんと一緒にって事かい。なるほど、それは発明かもしれないねえ」

 着信に応えて椅子を立ち、我轢に背を向け携帯を耳に当てていた空希が。

「分かった、用意するよ。じゃあ晩ご飯、楽しみにしててね」

 そうして通話を切り上げて向き直る。言わずもがな我轢は非難を込めた視線を向けている、しかしそうされる理由を空希は分かっていない様子。

「小虫、なんだって」

「うん、クリームをね、いちごとかみかんと一緒に食べてみたら美味しいんじゃないかって」

 そう答え、不思議そうに訊き返す。

「なんで小虫くんと話してるって判ったんだい」

「だって名前を呼んでたじゃん」

「呼んだっけ。呼んだかな。というか、僕が話してる声が聴こえてたって言うのかい」

「そりゃ聴こえるだろ、この距離だ」

 至極当然の理屈を口にする我轢、それが不可解だと表情に浮かべる空希。

「でも僕はここにいない小虫くんと話してたんだよ、だから僕もここにはいない事になるんじゃないのかい」

「ならないよ、どう考えたらそんな理屈を思い付くんだよ」

 形式的に突っ込み、我轢が続ける。

「そんな事より真犯人が誰か、判明したって事でいいよな」

 ぎらりと眼を光らせて空希を射抜く。

「証拠もなく思い込みで俺に疑いを向けてたって事で間違いないな」

「えっと。それは。なんの話をしてるのかな」

 無策が故に反射的に惚ける空希、その口調を真似つつも裏返すように我轢が畳み込む。

「クリームを。食べたのが俺だと。決め付けて謝らせようとしてたさっきまでのお前の態度の事を言ってんだ」

 素知らぬ振りでは関所を通してもらえなかった。ならば次の手段を講じるまで。空希は椅子と、尻との間に斥力が働いたみたいにゆっくりと起立しながら実に単純な言わば基本技を繰り出した。

「急用、思い出しちゃったな」

 それはそれはもう清々しいほどに白々しい態度を以て。

「だから急いでこの場を離れなくちゃいけないよ僕は。なにしろ急用は急を要するからね」

 我轢の追及を聞き流したのだ。

「いやもう忙しくって大変だよ。急用だからね、なにしろね」

 ぼわんとした容姿でふにゃふにゃと喋る空希だが、立つとそこそこに上背がある。それは周囲に対し圧を掛けるほどではないが、彼が頑固な一面を覗かせる場面ではその体格が或る種の説得力を生む。聞く耳を持たない空希に対しては放置、或いは容認が賢明な対処法、それをよく知る我轢は。

「じゃあ我轢くん、アイスなクリームの件は頼んだよ」

 片手で拝むような仕草で遵守するべき世間の掟を粉砕して立ち去ろうとする空希を。

「それは有効なんだ、暴君だなおい」

 ただ見送った。

 ちょうどその時。

 道場破りも斯くやの勢いで教室の後方の出入り口の引き戸が開け放たれた。飛び込んできた小柄な人影が空希と正面衝突、弾き返されて尻餅をついた。

「ごめんよ、大丈夫かい」

 人影の手から放り出されたナイロンバッグを空希がキャッチ、くまを象ったアクセサリーがじゃらじゃらと音を立てた。

「おや、くまさんがいっぱいだね」

 空希が差し伸べた右手を掴んだ人影はラビットスタイルのツインテールをその外見的特徴とする、るる。

「そうです、くまさんがいっぱいなのです」

 人はその傾向を以て二通りに分類される。即ちくまを好きかそうではないかだ。そしてるると空希は共に、くまを好きな側に属した。

「くまさんは好いよね、可愛いものね」

「くまさんは可愛いのです。いっぱいいると幸せなのです」

 詰まりいずれどこかで必ず巡り会う二人が、今、くまに導かれる形でここに邂逅した。

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 自他共に認める主砲、個人としては出場した試合の半分で本塁打を放った、しかしチームで凱歌を奏する事は一度も叶わなかった。

 自らの、野球に捧げた中学時代を振り返って千葉今日太チバキョウタは、まるで無益な三年間だったと後悔する。だから、市立宝町高校の新入生となった今年からは部活以外のあれこれを全力で楽しむと決めた、坊主頭を卒業する頃には自分にも彼女が出来ている筈だという観測を以て。

「そんな能天気がまかり通って堪るか馬鹿野郎」

 一年A組。

 廊下側一列目の後ろから二番目、自らに宛がわれた席に大人しく着いたならばそのまま内鍵式の心の窓を閉ざしてもよい道理、見知らぬ他者の群れが視界を埋める空間に於いても心穏やかに時間をやり過ごす為の松理のそうした目論見はしかし、わざわざ余所の教室から出張してきた同じ中学の出身者、即ち今日太によって敢えなく粉砕された、ならばその野蛮なるへの対抗手段として堅い木の棒でしこたま叩く事も許されて然るべきだ。

「不安も惧れもなく陽の当たる歩道を往く自分を想像出来るお前にほんと腹が立つ。舐めんなよ」

 容赦なく全力で松理が毒づく、或いは手近な席の椅子を無断で拝借している今日太のその行いもまた粗忽なると断固たる態度で表すように。

「波風の立たない人生をお前は危なげなく安穏に過ごすんだろうがそれは偏に、お前が鈍感だからだ。いいか忘れるな、硝子の破片を素足で踏んでも気付かないようなお前は馬鹿なんだ」

「そんなかりかりしなくてもいいじゃん。また三年、せっかく一緒なんだから楽しくやろうよ」

「だからその自分が楽しければ相手もまた楽しいだろうという思い込みな、思い違いな。そこ改めていこうぜ進学を機に」

「そういう真面目なところが松理のいいところだよね。姉ちゃんも言ってた。でも進学を機に、とか言うなら松理もなんだっけ、あのー、なんか一方的に決め付けたりしないでいろんな考え方をする人がいてもいいよね、みたいな感じであれするやつ、松理もたまに言うじゃんなんかそういうの、それをあれする感じのがいいんじゃない松理も」

 口さがない松理の姿勢は意識的な傾向、馬耳東風な今日太の構えは無自覚な対策。

「お前の意見なんか無用だこの五分刈り八ヶ月目が」

「あんまり悪口が上手じゃない時は本気で悔しがってる時、これも姉ちゃんが言ってた」

 或いは猿が仲間同士でする毛づくろい、傍から見ても他愛のない微笑ましいじゃれ合い、だが一方で、そうした微温湯を面白くないと感じる手合いがこの世界には一定数、居る。

「頭の悪い奴ほど声がでかいって本当だな」

 松理の席の後ろから投げ込まれたその言葉、一見は糖衣錠のように正論を装う。

「あんたが勝手に椅子を使ってるからその席の人が困ってんじゃん」

 実際にも率直な意見、だが受け取り方次第で変容するような調整が確実に、為されている。

 今日太は先ず、一旦は松理の背後、率直な意見を呉れた彼に視線をやり、次に自分の背後、所在なさげに棒立ちしていたその席の主と思しき女子に頭を下げながらがががと椅子を押し戻して返す。そして改めて松理の背後、肩まで届く長髪をハーフアップにした彼に向き直り、まるで通常ではあり得ない曲芸的な回路の繋がりを実証して見せるみたいにこう言った。

「なんだてめこらやんのかこら」

 フリマアプリの出品者だったなら大歓迎の即断購入、実際に売り言葉に聞こえるように言い回しを調整した当人、詰まりハーフアップの彼も想定を上回る展開の速さに思わず半笑い。

「単細胞が相手だと話が早くて助かるよ」

「そりゃあどういう意味だてめ説明しろこら」

 沸騰を知らせるやかんよろしくに喚く今日太。

「説明はしないよ、意味がないから。ただその調子で先に手を出してくれるともっと有り難いね」

 風のない日の湖面のように落ち着き払ったハーフアップの彼。

 いずれ緊迫した事態、それが周囲に影響を及ぼすなら沈静させる必要がある、そう判断した松理が今日太の左腿を拳骨で軽く小突く。

「止めとけ、割を食わされんぞ」

 眉根を寄せ不服そうな表情を見せる今日太に対し人差し指をぴんと立てるジェスチャーで引継ぎを宣言した松理、横座りの姿勢からハーフアップの彼に顔を向け、じっと遠慮のない視線を向ける。

 中性的な印象を与える端正な目鼻立ち、或る種の余裕を湛えた大人びた雰囲気、座っていても判る長身痩躯。

 松理が口を開く。

「詰まんない言い掛かりでヤバい奴アピールをするタイプには見えない。だったら狙いはなに」

「正義感だよ、困っている人を見過ごせないっていうね」

「パフォーマンスだろ。将来の夢は政治家か」

 一瞬、ハーフアップの彼が返答に詰まる、その隙に松理が畳み掛ける。

「今日太を噛ませ犬に選んだ判断は正解、けど難癖付けるのに正論持ち出すような及び腰じゃああっさり往なされるのが落ちだぜ」

 深夜帯のテレビ放映をオンタイムで観て印象に残ったソフト化の予定もない映画のタイトルこそが共通言語の相手に出会った、そんな表情を、ハーフアップの彼が浮かべた。

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 市立宝町高校入学式当日、午前三時二分。

 とあるオフィスビルの上層階の一室。

 床には紙束が散乱し、デスクの島も乱れている。天井、整然と並ぶ照明器具の一部が壊れ、その下に割れた蛍光灯の破片が散らばっている。或いはそれが混乱が通過した後の惨状だと想像すると、今、その部屋に在る静寂は緊張から生み出されたものだ。

 無論人影はない、全面窓の前で自らの姿を映し込ませるようにして佇んでいる六神円将ロクガミエンショウを除いては。

 俯いた彼の、重力に対し無抵抗に垂下した右手には人に似た形を留める黒いもやがその首根を掴まれるようにして捕らえられている。そのひとがたと自分は違うものであると認識する為の根拠を彼は見失いがちだ、非日常の興奮に身を委ね世間に対する陰性思念をはばかりなく解放した直後は殊更に。

 詰まり全面窓に映る鏡像は逃避に叶わなかった咎人の姿。

 その見とうもなきを自身の外が、なんだろうと構わないなにかが、記憶したなら空虚を弄ぶ徒労を脱ぎ捨てても赦される道理、自らの存在を疑ったのだから吐き散らかした悪意も雲散霧消する算段、そうやって免罪符を得て彼は、今日を生き延びる。

「バッドエンドだ、ざまぁみろ」

 その甘えに付け入られた。

 轟と背後で風が巻いた、その中心の虚空に少年が出現した。

 薄い唇。

 痩けた頬。

 漆黒の双眸。

 全身鎧、背の外套、逆立つ髪も漆黒。

「はじめまして、円将」

 その瞳が光を放たぬならまた光を受容する事もしない。

「早速だが生きるか死ぬか今ここで決めろ」

 だからその痩けた頬に浮かぶ薄ら笑いは誰が、誰に向けたものか曖昧だ。

「いずれお前は絶望のめしうど、だから手を貸してやるよ、生きるのならば」

 けれど黒尽くめの少年の肌は。

「お前はもう、俺の虜だ」

 淡雪のように白い。

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 恵まれた容姿に生まれついたが運の尽き、愛想笑いで級友を往なしていれば人気者のポジションに置かれ続けた。その退屈さに覚える吐き気と悪感情は買春で掻き消し誤魔化した。

 傾倒していたバンドのメンバーがコカイン使用で逮捕された事を今朝のニュースで知り、自暴自棄な気分になった。初登校を機に処世術として被り続けていた仮面を棄てると決めた。

 市立宝町高校、一年A組。

 誰も俺に近寄るな、そう宣言する積もりでお誂え向きの二人を選び喧嘩を吹っ掛けた筈が、その内の一人がまた癖者だった。或いは共通言語を持つ相手かもしれなかった。

 鬼が住むか蛇が住むか、その癖者に向いてハーフアップの彼が問う。

「あんた、名前は」

「訊ねる方が先に名乗るのが礼儀だ」

「六神円将」

「俺は三塚松理。松理でいい、俺をまっちゃんと呼べるのは母さんだけだ」

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 例えば短気なドライバーの信号待ちの間の舌打ち。

 例えば職場の給湯室に渦巻く従業員らの福利厚生に対する不満。

 例えば年齢確認の要求に応じレジのタッチパネルを乱暴に叩く中年の横柄な態度。

 即ち、日常の光景として常態化し、漏らした当人さえも認識する事がないような瑣末な陰性思念、それさえもしかしいずれは人に害を為す邪気、円将にはそう見えていた。

 独自に編み上げた法則を以てそれに姿形を与え滅ぼす業を邪気祓いと称し、生業とする家系に生まれた円将にとって世界は、全てが徒骨と嗤う忌むべき存在を常に隣に置きながら独りで往き、独りで生くべき阿修羅道だった。

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「相容れないものを敵と見做して嘲笑してたってそれが実際に糧になる訳じゃねえじゃん」

 滞りなく行われた入学式の後。

「だから好敵手を紹介してやるよ、俺なんかよりもっと相応しい奴を」

 松理の案内で円将は、宝町高校の直線型校舎の最上階、三階の南端に位置する音楽室に足を踏み入れる。

 甘いは正義、いちごに合うのは断然にコンデンスミルクだという話題で盛り上がっているのは空希とるると国見。机の上に胡坐をかき、目の前に置いたメトロノームの針の動きを真似て無表情で頭をゆらゆらさせているのは我轢。

 他に目を向ければ一心不乱に正拳突きを繰り返している女子、その様子を動画に収めてフォーム確認などのアシストをしている女子、在校生代表として入学式で祝辞を述べていた生徒会長と副会長、高速でページをスワイプしながらタブレット端末でなにをか真剣に読み耽っている男子、など、学年もまちまち、傍目一目に判る統一性もない彼らが思い思いの過ごし方をしていた。

 詰まりは溜まり場、やがては金型に流し込まれて人に成形されるその前段階の言わば無秩序の群れの寄る辺、或いはそこが音楽室でなければならない必然性もなく。

「あそこにいる糸目の人、国見さんだけが正式な部員、後の連中は見学者だとか言い張って日々入り浸ってるって話」

「その軽音部の人を紹介してくれるって事」

 円将のその問いに対し、松理が首を横に振って返す。

「結果、ドミノ式に全員を紹介した形になるとは思うんだけど」

 そうして松理が、右手の人差し指で円将の視線を誘導するような軌道を描き、校庭に向いた窓から外を眺めている男を指した。

「あのやたらとでかいのがこの猿山の大将」

 松理の呼び掛けに応えその男が振り返る。

「へっ。へっへっへっ」

 半歩引いた右足に全体重を預けだらしなく傾いだ立ち姿、自然、顎も持ち上がり、上背もあるが故に人と差し向かいになれば大抵は相手を見下ろすような格好になる。

「誰がうどの大木だこの野郎」

「言ってないって、そんな事」

 不敵、不遜、醜怪、痛快。持ち上げた口角に頬を歪ませた笑みはいやに雄弁、対峙するものは感情のざわめきを覚悟しなければならない。

 その男、小虫が、松理から視線を外し円将を睨める。

「よう円将、はじめまして」

 遠慮を知らないみたいな強い眼光がまたものを言う、トリックを暴く探偵よろしくの真っ直ぐ核心を突く言葉を。

「俺の名は小虫。生まれの証を立てようと足掻き藻掻き片端になり果てた俺がなんの因果か今は高校三年生だ」

 その風采はおよそ学生の域からははみ出す、肩掛けの学ランも道化の遥か手前で諦めてしまったかのような安っぽいコスチュームプレイ。

「好敵手が欲しいんだってな。ここにいる全員がそれだ、全力で挑め」

 果たして小虫の口上は。

「あっち側のれんじゅうが伸ばした自撮り棒の分だけ狭まった俺たちの領域を奪い返す、そうした思いを原動力とする奴らの集まりだ、手強いぞ」

 著名な俳優は出演していないが売り方次第でヒットを見込める突出した部分のある映画の宣伝文句みたいに。

「それとも本気を出すのが怖えなら、円将、お前はなにを手にする事も出来ない」

 大仰だった。

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 午前二時三十六分、オフィスビル上層階の一室。

 所有者から依頼を請け、邪気祓いを行う為に円将がそこにいた。

 誤作動を繰り返すエレベーター、移動する天井の不気味な染み、夜間に大量に減るウォーターサーバーの水。窓の外を歩く人影、非常階段で起きた転落事故、屋上で見付かった人骨。

 これら続発する怪異の原因探査と鎮静が依頼内容、対して最適解の創出も難しくはないが円将は独自の解釈で臨む。

 吹き溜まった人の負の感情、陰性思念が一定方向に運動し続けた結果、純化したもの。或いは手足を持ち、或いは目鼻も口も歯も判別可能な顔を生したひとがたの黒いもや。それが円将の見る邪気。

 普遍概念に属し得ない理論体系、一般論からは外れる異端思考、独善的な着眼法。詰まり邪気とはそういうもの。

 それが、天井から上半身を突き出して、いた。

 向かい合わせに配置されたデスクの島が一直線に並んだ様子は、しかし人間で言う体温や息遣いを感じさせない。窓から投げ込まれる幾つかの光も闇の支配を退ける闘いには届かず、室内の限られた範囲をモノクロームに塗り替えているだけ。

 色も声も時間さえもないその空間に。

 独りで、在れば。

 感覚が現実から切り離されむしろ落ち着きと安心を覚える。

 だが、天井からぶら下がった忌むべきひとがたが大口を開けげげげと嗤っている。まるで人を、地を這うものとするみたいに。

 恐怖はない、ただ強い憎悪があるだけ。

 ひとがたなどが見える自分はそれ故に他者と共有し得る感情を持つ事が出来ないのだ、と。

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 故に小虫の口上は。

 極端なものの考え方をする円将からすれば常に隣に在る混沌が発する怨み言にも等しかった。

「俺のなにが、あなたに分かるって言うんです」

 自らに向けた猜疑心こそが円将にそう口にさせる。

「へっ。へっへっへっ」

 対して下卑るように頬を歪めた小虫が答えを吐き捨てる。

「俺に誰の気持ちも分かる訳がねえだろ、甘えんな」

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 他者と共有し得ないまぼろし。

 再現性のない現象への認証、想像力を駆使したごっこ遊び。

 普遍概念に属し得ない理論体系、一般論からは外れる異端思考、独善的な着眼法、手前勝手に抱いた理想。

 午前二時三十七分、オフィスビル上層階の一室。

 全面窓に映る自らの鏡像を側目にかく。生きる歓びも煩わしさも疾うにほかしたものの顔はいつしか棺におさまる死者のそれ。内なる闇と戯れ外から光がもたらされるなどとは信じない歪なひとがた、醜怪な人もどき。咎人。

 げげげと嗤うだけの邪気と自分は同等。

 或いは一心が果てに純化した存在であるなら邪気こそが光明の申し子ではないのか。

 それが円将の見る世界、独りで往き独りで生くべき阿修羅道。

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「大体が俺には加減が分からねえ。丁寧な見方も繊細な感じ方も持ち得てねえからな」

 眼前に在る混沌はその自らの情態をただ在るがままに曝け出していた。

「ただ生憎と、謙虚に生きていつか報われる日を待つだけの間抜けを見ちまうとぶん殴りたくなる性分でな」

 理非曲直を通念下に照らす事も既に放棄していた。

「機会を待っても無駄、自分から奪いにいかなきゃなんも始まんねえよ」

 或いは思考停止。

「敵が必要なら真実を語れ、味方が欲しけりゃ嘘を吐け。いずれ覿面、巧く弄すりゃ人生は安泰だ」

 故に深刻になり勝ちな円将からすれば小虫のものの考え方は、少なくとも表面上は。

「なのに愚かにも好敵手を望むならばよ、円将、母親以外の女の前で裸になるくらいの覚悟を極めろ」

 実に単純で心地が好かった。

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 お前はなんだ。

 お前は俺だ。

 他者を見下しげげげと嗤うばかりの醜怪愚劣な人もどきだ。

 自省もなく外に批判を向け必死に我が身を庇うばかりの卑賤の輩だ。

 憎い。

 憎い憎いぞ人もどきめ。

 狩ってやる、喰ってやる。

 嗤え。阿呆のように嗤え、それが俺の糧だ。お前が嗤えば嗤うほどに俺の腹には憎悪が溜まる。

 げげげ。げげげ。げ、げ。げげげ。

 嗤え人もどきめ、畜生め。

 デスクの天板から踏み切って飛ぶ、天井からぶら下がる邪気目掛け。伸ばした右手がその首根に届くが掴んだは空、向けた憎悪が足らねば対象の実体を捉えるにも至らぬ道理、それが円将の法則。

 げげげ。げげげ。嗤え。憎め。

 お前が俺なら世界を憎め。

 足りねえ、まるで足りねえ。憎め呪え嗤え。

 げげげ。げげげげ。げげげげげげげげげげげげげげげげ。げげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげけげげげ。

 天井からぶら下がったまま邪気が平行移動、それを円将が闊歩して追う。

 デスク上のペン立てかなにかを倒したらしく、ビニール傘を大粒の雨が叩いたみたいな音が絨毯の敷かれた床から円将の耳に届いた。爪先になにかコードを引っ掛けた感触、後、背後にがちゃがちゃとした音が生じた。

 周囲に及ぶ影響は二の次、お前と俺との関係性だけがこの場所では重要な全て。

 俺を見ろ、憎め。応えろ。

 俺がお前を捉えてやるよ、憎め。

 背に帯びたホルダーから特殊警棒を抜く。三段式、伸長時の全長は八十センチ強、スチール製のスティック部がフロストブラックに塗装された特注品。それを抜き晒したと同時、邪気目掛けて投げ付けた。急に火が点いたみたいに邪気が素早く動いた、円将の攻撃を回避した。蛍光灯が二本破裂した、特殊警棒を拾い上げる円将の背中に破片が降り注いだ。

 憎め。げげげ。

 人もどきめ。

 お前を分かってやれるのは俺だけだ。

 天井に両腕を突いた邪気が己の下半身を引き上げる。黒いもやがゆっくりと垂れ下がるように伸び、ちょうど逆立ちをするような動作の末、床に下り立った。

 げげげと嗤った。

 未だだ、足りねえ、もっと憎め。

 寄越せ。

 腹が焼けるくらいの憎悪を俺に寄越せ。

 憎めよ、お前は邪気だろう、俺だろう。

 嗤ってんじゃねえ人もどきめ。お前にその資格があるものかよ屑め。

 ただ憎め、それしか能のない畜生め。

 見ろよ窓を、そこに映りこむ自らの鏡像を、卑しい嘲笑を。

 下衆め、恥を知れ。

 特殊警棒を振り下ろす、空を切る。横様に振る、空を切る。逆手に持ち替え逆袈裟に振り上げる、空を切る。突き下ろす、空を切る。

 げげげと嗤う。

 空虚に陥る。徒労と知る、知ってはいたが改めて思い知らされる。

 うるせえ、それでも狩らなきゃならねえんだ。

 お前は俺だろ、寄越せよ。

 分かってるんだ。

 げげげげげ。

 げげげげげげげげげげげげげげげ。

 邪気め屑め人もどきめ世界め俺め。

 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。

 げげげげげげげげげげげげげげげげ。

 車輪付きの椅子を邪気目掛けて蹴り飛ばす、不発。

 机を蹴った反動で勢いを乗せた飛び足刀、不発。

 嗤え。

 着地して即座に左回し蹴り、不発。

 嗤えよ。

 特殊警棒を振り落とす、不発。

 嗤えよ無能め。

 右肩からの体当たり、不発。

 勢いを余らせ体勢を崩した円将が頭から床に滑り込む。

 見ろよこの態を無能め、嗤うだけの人もどきめ。

 げげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげ。

 憎めよ、成れ。

 ちくしょう。

 憎む事しか出来ぬ邪気め、嗤う事しか出来ぬ俺め。

 そんなものに応える世界のあるものか、分かってやれるのは俺だけだ。

 ちくしょう。

 死ね。

 お前は死ぬまで嗤い続けろ。

 ただの独りで。

 死ぬまで泣き続けろ。

 救えない屑め。

 げげげげげげげげげげげげげげげ。

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 詰まりが小虫が頬に刻む歪み、或いは醜怪で凶悪な笑みは。

 円将からすれば、少なくとも表面上は。

 不幸を装う方術でなく、幸福を撥ねる予防線でなく。

 破滅への祈りでも無間を望む諦念でもなく、無謀でも、達観でもなく。

 ただ純粋な抵抗の意思、抑え切れず溢れ出てしまったそれに過ぎないものに見えた。

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 午前二時四十九分。

 円将の憎悪が純化に至る、自らの法則下に於いて必要条件を満たし邪気の実体を掴むに叶う。

 飛び掛かり床に押し倒す、馬乗りになり押さえ付ける。組み敷いた邪気の首に両手を添え渾身の力で締めに掛かる。

 死ね。

 と、害意を込めて。

 はんぺん越しに鉄棒を握っているような掌の感触、押し込んだ親指の先には喉の筋肉の反発を感じる。それが実際に人の首を締めた場合と同じものかどうか円将には分からない。ただ指に、掌に、腕に、感触を味わわせて或る種のけじめとし、果たして邪気を祓うに能うと思い込む為の筋道、これは儀式。

 或いは慟哭。承認を求むる為の。害毒たる自我を抑え免罪符を得た自分は世界に在ってもよいとする為の。

 希望に満ちた絶望。

 意味に成す為の無意味。

 誰も見遣る事のない手前勝手な理想の遂行。

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 円将のその態を。

「いつかの選択が決して間違いじゃなかったと自らに証す為、へっ、意地でも下手な嘘を重ねるしかない事態か」

 継ぎ接ぎだらけ、黒ずんだ染みだらけの薄汚い襤褸を外套代わりにまとっている小虫と。

「まるでかつての自分を見るようだろ」

 首ほどまでの高さの鉄柵に寄り掛かり暗視双眼鏡を覗き込む国見が。

「へっへっへっ。飯がうまくて堪んねえな」

「その感情こそが、ま、お前を傍観していた頃の俺のこころだ」

 通りを挟んだ向かいのビルの屋上から眺めていた。

「それで、今までの罪滅ぼしとしてあの間抜けの後見をしろってか」

「そうは言ってない。どうせお前は手を差し伸べる」

 暗夜に裸眼のままでも小虫は、向かいのビルの室内の様子を捉え得る。

「へっ、俺は根っからの主我主義者だぜ。今だって自分の事で手一杯だ」

 左側に立つ小虫を横目で見遣り、国見が応える。

「それでもお前は手を差し伸べる。俺は、ま、それを知ってる」

 小虫の、伸び散らかされた赤茶けた頭髪が夜風になびいた。

「へっ。へっへっへっ」

 右の眼窩を洞に抉り頬まで届く大きな裂創が月下に曝された。

「幼稚さを握り込んだだけの拳じゃ幾ら殴っても人は殺せない。それを教えてやるくらいなら出来るかもな」

 大袈裟に言えば半生、或る時期までの小虫のそれを、国見は傍観者として見続けてきた。その事実が今の二人の関係性を築く礎となっていた。

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 午前三時二分。

 円将の絶望に、慟哭に、呼応するように轟と巻く風を伴って黒尽くめの少年は姿を現した。

「はじめまして、円将」

 或いは闇の概念を擬人化した存在のように円将の目には映った。いつか全面窓の中の鏡像を通じ邂逅する存在だと知っていた。知っていたように感じた、その名を思い出すと同時に。

「はじめまして、陰」

 インの、両肩で留めた漆黒色の外套は安寧秩序に対する反感の表れ、ならば見とうもない自分自身から目を逸らすに都合の好い依り代。

「早速だが生きるか死ぬか今ここで決めろ」

 必然、決められた動きしか出来ない自動人形のように円将は、陰に取り込まれた。

「死にたいなんて考えた事もないよ、この世界に自ら敗北してやるほどの価値はないから」

「では安穏無事な日々を呉れてやる」

 陰の、肌がまるで熱もないみたいにただ白く、澄んでいた。

「世界が歪む。怠惰を赦す無明なる非情をその裏に潜ませた日々、甘露だが常習性の高い毒だ。骨の髄まで蝕まれるがいい」

 夢想へ誘われているとして円将は微塵の懐疑もしない。或いはもうずっと、陰の虜だったのだから。

「くくく」

 喉の奥を鳴らすような笑い声を陰が漏らす。

「まるで荒野に落ちた種子、萌芽の望みは薄いな」

 足下から巻き上がった風と共に姿を消す間際、円将に向けて陰が言い捨てた。

「表情が堅いんだよ、お前」

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「野郎、俺らにゃ挨拶もなしか」

 向かいのビルの屋上。

「取り合う価値もないと捨て置いたか。ま、あいつは徹底して個人主義でもあるからな」

 当然、小虫と国見の存在に陰は気付いていた。

「ならばあいつの想定内、俺もお前も戯れの一部って事か」

「或いは、ま、不確定要素か」

「へっ。気に入らねえな」

 反射的にそう口にした小虫がしかし、直ぐに撤回する。

「いや、そうでもねえな」

 高校三年生なるものに扮し過ごす先、近々の未来に目標点も正解も見据えずに向かうのならその経路は未知数。

「まにまに漂ってみるのも悪くはねえか」

 或いは陰と同様、小虫もまた偶然性に全額を賭けるような勝負を好んだ。

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 午前三時十三分、オフィスビルの地下駐車場。

 報酬は常に手渡しでもらう事にしている。成果が出たなら確かに仕事、だが自らの邪気祓いには自浄行為としての側面がある事も円将は否定し得ない。その後ろ暗さを実感する為に依頼主との対面が必須、そうした甘えが主な理由。或いは依頼内容を鑑みて以てのそれらしい呪物を捏造、然もありなんの真相を提供する不正を避ける理由もそこにある。

 他者に嘘を吐けないのではない、自らに対し疑義を抱いているに過ぎない。

 依頼主であるビルの所有者に対し事務的な態度で経過を報告した後、姉が自殺をする直前に描いた漫画を自作と偽って獲った新人賞の賞金を手にするような気持ちで円将は、厚みのある茶封筒を受け取った。

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 本来在るべきが形を変えた。

 歪んだ世界がそして始まる。

 陰と邂逅した事実は円将の記憶から消去された。

 それらの事実が世界に幕を下ろす鍵、触れては不味い禁忌となった。

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 しかし歪んだ世界にこそ。

「バナナにホイップクリームを着せてあげると素敵なのです。だからフルーツパフェはとっても楽しいのです」

 るるがいる。

「想像するとわくわくするねえ。アイスなクリームとどっちが美味しいだろうかねえ」

 空希がいる。

「ねえ国見さん、あの円将て奴の後ろで馬鹿面して立ってる奴、なに」

「あれは千葉今日太。そうだな、一先ず松理の連れだと認識しておけば、ま、いいかな」

「ふーん。それにしても見れば見るほど馬鹿っぽそうだね」

「素直で思いやりのある、ま、男前だぞ。少し似たとこあるかもな、お前と」

 国見がいる。

「なにそれ勘弁してよ。あんな馬鹿そうな面してないって、俺」

 我轢がいる。

「ね、ね、松理、ね、俺も、ね、俺の事も、ね、小虫さんに紹介してよ俺の事も、ね」

「その心は」

「だってかっけえじゃん小虫さん。かっけくね、小虫さん。あんな人と友達だって言ったら一目置いてもらえんじゃん絶対」

「他人のふんどしでランウェイ練り歩きたいとか死んじゃえよお前」

「え、ごめん、なんかごめん。なんかまずい事言っちゃった」

「どう足掻いたってお前はお前、着飾ったって髪型変えたって違う誰かに成り代われる訳じゃないって、いつも言ってんだろ」

「え、でも憧れを持つのはいいって松理いつも言うじゃん」

「自分を見失わない自信があるならな」

 松理がいる。

「だけどお前は馬鹿だろう」

「バカって言うなよ、それは本当の事だからバカって言うなよ」

 今日太がいる。

「捻くれるなら真っ直ぐ曲がれ。そうやって踏ん張っとかねえと自分で責任をとれなくなっちまうぜ」

 小虫がいる。

 そして。

「たまに、夜を徹して生き死にを考える事があるんですよ」

「へっ、大仰な野郎だ」

「大概は諦めに至るんですけどね」

 そして勿論。

「こんな世界に負けてなんかやらないって」

 円将がいる。

 市立宝町高等学校、その直線型校舎の三階南端、音楽室。

 そこで果たされた幾つかの再会、幾つかの邂逅は即ち僥倖、ならばいずれは祝福されなければならない、必ず。

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 会話を切り上げた小虫、対峙している円将の背後に向かい掌を上に向けた形の手招きをする。

 散歩に出る小型犬みたいな軽快な足音がしたかと思うと、円将の直ぐ横に小柄な女子が現れ、警戒心の強そうな視線を向け様子を窺った。目を丸くする円将、その人間味のある反応に安心したように小柄な女子が口を開く。

「こんにちわ、三塚るるです」

 るるがぺこりとお辞儀をすると、頭の両脇にこさえた髪の束が大きく揺れた。

「なにパフェが好きか、今、みんなにアンケートを採っているのです。円将くんはなにパフェが好きですか」

 突拍子もない質問にまたぞろ面喰らう円将、そこに小虫が手を差し伸べる。

「難しく考えるな。諸出しの全裸でいんだよ」

 右手にシャーペン、左手にメモ帳。有効な回答をもらえるものと信じ疑っていない様子のるるに、円将が気圧される。

「え、お、俺が好きなパフェは」

「おいそこの馬鹿面」

 小虫が不意に、今日太を顎でしゃくる。

「あ、はい。今日太っス、千葉今日太」

「誰が名乗れっつったんだ馬鹿野郎。ぶち殺すぞこの野郎」

「はいすいません。なんかすいません」

「ぼけっとしてねえで応援してやれよ、円将を」

 るるの純真に中てられリズムを外したのは事実、だが。

「え、そんなノリっすか」

「頑張れー、円将頑張れー」

「乗るのかよ、あんたも」

 とまれ、妙な流れを断ち切る為にもるるのアンケートに答えざるを得ない。

「それはやっぱり、フルーツパフェが一番かな」

 言いながら無難に過ぎ面白味のない回答だと感じ、円将が付け加える。

「ただ、チェリーのシラップ漬けをなんらのポリシーもなく天辺に飾る安易さには断固反対の意思を表明したいね」

「そうですか。チェリーのはんこだんたいですか」

 復唱しながらメモを取り終えたるる、果たして再びぺこりと挨拶。

「ご協力ありがとうございました」

 そして。

「こちらお礼を差し上げるのです」

 るるが差し出したそれは小さなくまのぬいぐるみがぶら下がったキーホルダー。

「いいのかい」

「るるのお手製なのです。大事にしてあげると喜ぶのです」

 その理屈はうまく噛み砕けなかったが、気負いもなく、白けた気分でするでもない他愛のない会話が新鮮だった。これも当初の予定通り、仮面を棄てて以ての高校デビューが叶った形かもしれないと、円将はそう思った。

「頑張れー、もっと頑張れー」

「いやだからうるせえってこの馬鹿面が」

「もうバカって言うなよ、それは本当の事だからバカって言うなよ」

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 果たしてるるのアンケートの集計結果は。

 皆が好きなパフェのその第一位は。

「美味しいねえ、フルーツなパフェもアイスなクリームもとっても美味しいねえ、幸せだねえ」

 空希をすこぶる満足させた。

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 そして歪んだ世界が始まる。

 そしていずれは祝福される、必ず。


                       (下書き終了日 '06.6.15)

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