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【日記】社会人だけど学会に行ってみた!

こんにちは!
この週末、大阪で開催された哲学の学会に行きました!
発表やシンポジウム、ワークショップなどを2日間に渡って行うやつです。

私は現在社会人ですが、あと2年後くらいを目処に博士課程に入学したいと考えております。
博士課程の入学先候補として検討中の大学院(H大学とします)があります。学会ではそのH大学在籍の院生が数名発表予定だったため、彼らに挨拶させてもらってH大学の先生の様子などを伺おうと思ったのです。
私は修士で通っていた大学院のY先輩がほぼ唯一のコネクションで、彼からこの学会の存在を教えてもらい、H大学の知り合いに取り次いでもらう算段でした。

結果としては上々でした。
まず、H大学の院生とは1人どころか4人と会話できました。彼らとの交流により、H大学の状況を聞けましたし、その場にいなかったH大学の配属希望ゼミの博士の人の連絡先を教えてもらうことができました。今度オンラインで通話相談する日程まで調整しました。
また、ゼミ配属希望先ではないもののH大学の先生が1人来られており、その先生とも話せて「あの先生(配属希望先の先生)は優しい先生ですよ」みたいなお話しも伺えたので、気持ちが軽くなりました。
あと、H大学の方ではありませんが私の研究関心(人生の意味)をやっている先生2人と話すことができ、科研の研究会(?)(これが何かよくわかっていない)に誘ってくれるというお話をいただきました。その会には、H大学の先生(私のゼミ配属希望先の先生)も所属しているそうです。私はその研究会とやらへ参加することで、その先生とも関わりが生まれそうな見込みです。

こんなにうまく進行するとは思いませんでしたが、来てよかったです。


そもそもどうして学会に行くことにしたのか、少し振り返ります。
まず、私の唯一のコネクションとも言えるY先輩が、この大阪での学会で発表予定でした。それはぜひ見たいですよね(理由①)。
次に、Y先輩がH大学の知り合いも学会に来ると教えてくれました。私は何とかして早いうちにH大学の先生に連絡を取りたいと考えていたので、これはコネクションを作るチャンスだと思いました(理由②)。
最後は、「学会」というものの雰囲気を見てみたかったからです(理由③)。自分もできることなら来年あたりには発表したいので、下見のような意味もあります。加えて、修士を出てから約3年間まったく哲学に関わらずに働いていたので、何か勘どころを取り戻したいみたいなイメージもありました。
Y先輩には「じゃあ自分も大阪行きます。H大学の人と知り合いたいんです」みたいなことを言いました。そしたら少し驚いていましたが、快く引き受けてくれました。結果としては行ってよかったです。


感想としては、思っていたよりみなさん好意的に受け入れてくれて安心しました。
H大学の院生たちも喜んで「ぜひうちに来てください」という感じでした。学歴ロンダリングと言われても仕方ない状況かもしれないため、どう思われるか不安だったりはするんですけどね。まぁ、自分自身博士という段階まできて学歴とかあまり存在感ない気もしてはいるのですが、まったく知らない大学の人たち相手だと多少不安にはなります。実際には、どの大学も院生が増えるのは基本的に望ましいことなのでしょう。快く受け入れて安心しました。

「人生の意味」をやられている先生たちも私を好意的に受け入れてくれました。何か研究者コミュニティにも招待してくれるそうで、本当にありがたかったです。入学先の大学候補も一緒に考えてくれました。結果的にやはりH大学はおすすめのひとつとして推されました。H大学は何より「人生の意味」をやっている先生がいるし、院生も多くていま勢いがあるらしいです。
ひとつおもしろかったのは、入学先大学の検討において「(H大学ではない)〇〇大学は人生の意味をやっている先生はいるけど、院生があまりいないんだよね」という話になったとき、若手の先生が「けど大学無所属でここまで1人で来るバイタリティあったらどの大学行ってもやっていけそうだけどね笑 (他大学と積極的に読書会などの交流できるだろう)」と言ってくれたことです。私はこれまでの研究業績に自信がないため、しばらくはバイタリティで何とか食らいついていくしかないと考えているのです。だからそこで私のバイタリティを評価してくれたのは嬉しかったです。(とはいえやはり院生の多い環境が望ましいとは思うので、H大学が最有力候補です)。

3年間学術の世界から離れていたので、もうそんなにのんびりした気持ちではいられないのです。
H大学の先生に早めに挨拶したいですし、学会も未経験で知らないことだらけです。だから、先輩から学会の開催を教えてもらった時点(1週間前)で「動くならここだ!」と決め込んで大阪まで行きました。たぶんこういう判断が自分の人生を好転させるのでしょう。

学会1日目の夜に院生と先生合わせて10人くらいで飲み会にも行きましたが、輪に入れて楽しく話せたのでよかったです。そこでH大学の修士の人と話せたので情報収集にもなりました。また、輪に入れて談笑できたことで、研究者コミュニティに受け入れてもらえたという実感があり、再び学術業界へ飛び込むことへのプレッシャーやビビる気持ちが弱まり、また早くこの世界で研究生活してみたいなというモチベーションが高まったように思います。


1週間前に思い立って大阪まで行くフットワークの軽さや、初対面の人が大半の飲み会で穏当な振る舞いをしつつも適度に自分を出していく度胸は、どちらもこの3年間「推し活」を通して身につけた部分がかなりあります。
適切なところで一気にお金を使って移動する生活は、結構楽しいものがありますね。


基本的な感情として、何者かになるのが怖い、常に何者にでもなれるようにしておきたいといった感情があります。それゆえ、「ここで生きる!」と決め込むことができず、いまいち何にも真剣になれず職を転々としているのかなと不安になることもあります。
しかし、何者でもないままただ時を過ごしていくのもまた恐ろしいです。まだ20代だから自分の生き方を模索してもいい/すべき時期という捉え方もなくはないでしょうが、いつまでも何にも真剣になれずフラフラしていたらもしかするとあまり立派な大人にはなれないのかもな…とか思ったりします。(他の人についてはあまりそう思いませんが、自分についてはそういうことを考えます)。


研究者はおそらく、人類が積み上げてきた知識や議論を一歩でも前に進ませようとする職業です。実名を公開しながら経歴や業績を積み上げていくという身震いするような慣習があります。
恐ろしいけど、おもしろそうです!
何より自分の関心のあることについて、世界中の最先端の知に触れ続けるような生活を送れるのがありがたいです。さらに、そうした知的協働の中にもし自分も加わらせてもらえるんだとしたら、こんなにエキサイティングなことはありません…!と素直に思います。

最終的に教員になれるかは不明です。それは博士で考えます。
けどとりあえず、まずは転職して、2年ほど働きながら博士に入学する準備をしてみたいと思います!(その過程で、読書会や研究会に参加し、ゼミにもぐり、査読誌への論文投稿や学会発表をしてみます。できるもんならな!)
まったく恐ろしい道のりを歩み始めたなと自分では思っています。しかし、なんだかこういう「人生計画の組立と実行」という過程自体が私にとってはどうにもおもしろく感じられてなりません。
私の人生にはこれまでも、とにかく自分を甘やかして遊び続ける時期もあれば、自分を律して計画に向けて邁進しまくる時期もありました。前者にはお気楽な快適さ(と虚しさ)があり、後者には充実した喜び(とプレッシャー)があります。どちらも私の人生を私にとって満足なものにしてくれているような気がします。

どこが自分にとっていい居場所になるのかはまだよくわかりませんが、とりあえず自分の人生しばらく思ったようにやってみたいと思います!

完全に自分のことだけを語っていますが、もし読んでくれた方がいましたら本当にありがとうございます!

おわり


おまけ:研究関心の合う院生と出会えて嬉しかった思い出

時間論

時間論を専門にやっている博士の人としっかり話せて嬉しかったです。学部生の頃、ものの持続に関する理論である「三次元主義と四次元主義」の話が好きで、時間論についてもいくつか文献を読んでいた時期があったのですが、これまで時間論をやっている人には直接出会えていませんでした。今回やっと近い年齢で時間論の話ができる人に出会えて嬉しかったです。
(時間論については永久主義、現在主義などの立場の対立があるのですが、彼は明確に「成長ブロック説」にコミットしている人でした。時間の存在論について明確な立場を表明している学生に出会ったのも初めてです!)

魂概念

意識研究の文脈で、「魂概念」に注目している人の発表を聞けて嬉しかったです。私も修士のときに「魂概念」に注目するちょっとしたレポートを論文扱いで大学のフォーラムに提出したことがあったことを思い出し、関心にダイレクトヒットしてるじゃんと思いました。前のめりで聞くことができたので、手を挙げて質問したりしちゃいました。勝手に仲間を見つけたようで嬉しかったです。
(私たちは「自分自身」を「自分の身体」とは異なる持続条件をもつものとして理解している場合がある、というのはかなりの程度普遍的なことだと思っています。つまり、「私の身体」が死亡しても、思考や感情をもつ「私」は身体から離れてどこか(枕元や天国)で存在し続けるような状況をほぼ何の苦もなく想像可能なのです。意識の中心、あるいは心の担い手としての「私」がどのような存在であるかについての素朴な理解を全部詰め込んだ都合のいい実体、それが「魂」だと思っています。きっと「魂」は存在しないと思いますが、「魂概念」から学ぶべきことは多いはずなのです。魂概念は私たちが自分たちのことをどのような種の存在として理解しているかを一身に背負った、人間の素朴な自己理解一式みたいな概念であるはずだからです)ということを私は修士の頃考えていました。

おわり

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