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【考察・エッセイ】誕生日は何を祝っているのか?〜誕生か加齢か〜
誕生日について考えてきたことをここで語ります!よければ読んでみてください!😊
先日、50歳前後の上司の誕生日があり、「誕生日おめでとうございます」と伝えました。すると上司は嫌そうな顔をして「そうやって俺が老いぼれて死に近づいていくのを祝うっていうんだ」みたいに卑屈な反応をしてきました。(もともとあまり馬が合わない上司だったからかもしれませんが…笑)。
私は、せっかく祝っているのにそんな反応しなくてもいいのになと思いました。
しかし、実際本人が歳を重ねることを苦々しく思っているのなら、自分が嫌がっていることを他人から「おめでとう」と言われても素直に喜べないのは理解できることだなとも思いました。
(例えば、「テストの点数が下がっておめでとう」なんて言われたら嫌味でしかないですもんね。上司にとって「誕生日」は老化・死へ近づくことを意味するものでしかなく、テストの例と同じように嫌味に感じて喜べなかったのかもしれません)
ただ、ここで考えてみたいのは、「誕生日祝い」はそもそも何を祝っているのか?ということです。
一歳分、歳を重ねたことを祝っているのでしょうか?
それとも、誕生したこと自体を祝っているのでしょうか?
あるいは、誕生した日付そのものを祝っているのでしょうか?
私の第一の提案はこうです。
子どもの頃は「誕生」と「加齢」を祝い、大人になったら「加齢」を除き「誕生」だけを祝うことがあってもいいのではないか…?というものです。
(ここでの「加齢」は単に歳を重ねるということです。「老化」などマイナスの価値付けは抜きで語っています)。
子どもの頃は、例えば「9歳から10歳になりました」なんていうのは基本的に喜ばしいことです。歳を重ねるということ自体が、子どもの成長を物語っているように思われるからです。子どもからしても(個人差はあるかもしれませんが)歳が大きくなるのは嬉しいことだったりもします。また、親や周囲の大人にとっては「またひとつ大きくなったね」なんて愛情深く言いたくなるかもしれません。子どもは日々成長しているわけですが、誕生日はひとつの節目として見なされるわけです。
(もしかすると「無事〇〇歳になれた」という感慨がある場合もあるかもしれません。特に小さい頃大きな病気や怪我などあった場合、親は子の誕生日にそのように感じるかもしれません。)
しかし、大人の場合は、歳を重ねることをあまり歓迎していない人も少なからず見受けられます。
一番よく見かけるのは、「もう◯◯歳か〜!本当に早いな〜!」というものです。これはなんだか惜しむように語られることが多いです。
そしてこのとき「心はまだ中学生(・大学生)のままだけどね笑」なんて語る大人の多いこと多いこと…。
話が逸れますが、私はこの現象にかなり興味があります。どうして「心はまだ中学生のままだけどね」と語る人がこんなに多いのでしょうか。おそらく、その人が幼い頃に見てきた「大人」の姿と比べて、大人になった自分が子どもっぽく感じられるだとか、あるいは自分の中にある「大人ってこういうものだよな」というイメージに現在の自分がほぼ到達しておらず、中学生の頃と同じ精神性で生きているという実感があるとか、そういった事態なんですかね。私は自分が中学時代から大きく変わっていると思っているので、あまりそう感じられません。そう語る人たちにとって心が中学時代から変わっていないと感じられているのなら、彼らは自分とは心の世界の歴史が本当に全然違うんだなと改めて驚きます。(別にそう語る大人の人たちが実際に心理的に未熟だとはあまり思えないのです。だから当人の中での捉え方の話だと思うのです)。
話を戻します。
私の上司のように、誕生日を老化の象徴として捉え、誕生日をまったく喜べない大人というのがいます。
では、そうした人たちの誕生日お祝いの意味付けを変容させるとしたら、それはどのようなものがありうるでしょうか?
私の提案は、誕生日お祝いを「生まれてきておめでとう」という誕生のお祝いとして捉えるというものです。さらに加えて、「同じ時代に生まれてきたおかげで私たちが出会えたというこの幸運を喜ばしく思います」だとか「同じ時代に生まれてきてめぐり会い、一緒に過ごしてもらってありがとうございます」などの感情も込めてもいいと思っています。もちろん別に出会って共に過ごせることの喜びなんていつ伝えてもいいのですが、せっかくなのでその人が生まれたのと同じ日付(つまり誕生日)を「誕生のお祝いと感謝を伝える記念日」とするのもわるくはないでしょう、と思うのです。
このとき、歳を重ねたことを祝うかどうかはオプションです。歳を重ねることが嬉しい人はそのことも祝ってもらってもいいと思います。(私の場合は歳を重ねることも嬉しいです。だから加齢も祝ってもらって大丈夫です。年齢なんて唯一何もしてなくても前に進むからいいものだよなと思ってます。なんで加齢を肯定できるかというと、普通に30代とか40代とかの大人をかっこいいと思っているからですね)。
結局今更、私の上司に対して「私はあなたの加齢を祝ったのではなく、誕生の記念日を祝ったのです」と訂正することはできません。
しかし、今後自分が誕生日を祝われるときは、嫌味ったらしく「死への接近・老化」を祝われたとは思わず、「生まれてきたことを祝われてるのかな」と思ってみようかと思っています。
(本当はこんなふうに意味付けの仕方を悩んだりしなくてもいいとは思うんですけどね。誕生日はその人の「誕生日」を祝うものだ、という慣習だけがあれば十分よかったかもしれないものを…)
まあでも、歳を重ねれば重ねるほどどんどん本格的に老いを感じていく(そのことで気が滅入ることが増える)ものみたいなので、年配の人ほど「誕生日」を歓迎できない人間が増えていくということはもしかしたらあるのかもしれませんね。私も今後はあまり仲良くない人に対して、押し付けがましく祝わないように多少気をつけることも考えてみようかと思います。
誕生日は、客観的に見ても、世界の中で自分が特別になれる日のような感じがあります。
常日頃、私は「私の人生の主人公」である一方で、私は「この世界の主人公」ではないわけです。私はこの世界の中心ではなく、私はその他大勢のひとりにすぎないと言えます。しかし、誕生日だけは、自分がこの世界の中でどこか特権的な地位・特別な価値付けを与えられた日だと信じられるような気がしませんかね…?
(まあそうは言っても、私と誕生日が同じ人は無数にいるのですが…。これは正直「目を背けたい都合のわるい事実」だと思っています)
誕生日だけは「本日の主役」になれるはずなんです。子どもも大人もおじいさんおばあさんも。今日が誕生日の人は、その日だけは周囲から格別のもてなしに値する存在になれるはずなんですよね。
できればそうであってほしいような気がします。
「誕生日おめでとう」と言ってもらえると、「他人から丁寧に扱われたい」という基礎的なニーズが満たされるようで嬉しいです。「個人として尊重していただいてるんだな」と思えて心底ありがたいです。心の栄養とも言えます。
「誕生日おめでとう」って言い合うのなんか好きなんですよね。なんだか好意だけでなされるコミュニケーションって感じがして平和で好きです。
(SNSではなんか気を遣っちゃって送れないことが多いですが)。
以上、誕生日について語ってみました!
読んでくれた方はありがとうございました!😆
おわり