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インタビューセッションを体験してー聞き手・尹 雄大さんー

タイミングだと思った。奉納と懺悔ごちゃまぜの気持ちで臨んだインタビューセッション。カウンセリングやセラピー目的ではないインタビューセッションというものも初めて受ける。

支離滅裂で、あちこち話が飛びつつ、しゃべりたいことをまるっと聴いてもらう「体験を買う」ことに、最近は希望を感じている。そのことの荒削りな気づきは、去年『東京の生活史』(岸政彦著)を読んだことからはじまる。理路整然と話さなくても、記憶違いも含めて、その個人の記憶や想いが資料・資産になりうるという新しく豊かな価値観だった。この数年インタビュー記事を読んだり、インタビュー文字起こしを体験しながら、奥が深いとつくづく思うことである。

尹さんのインタビューセッションのあり方は、まず私の自尊心を満たしてくれた。私の話はお金を出してでも、聴いてもらいたいプロに真剣に聴いてもらうだけの価値がある。それはこちらが患者的に治癒されるという関係ではなく、まるごと聴いてジャッジされないという関係性からはじまる。これが清々しく気持ちよくて、つかのまの自由を感じたのだ。めんどくさいやつと思われるかもしれないが、この設定が気持ちよかった。

セッション当日、尹さんとは建物下の自販機の前で挨拶を交わした。飲み物を買っていらした。私はちょうど道ゆく人に郵便局の場所を尋ねられ、右往左往していた。その直後、尹さんとメガネ越しに目があった。すぐに私だと分かったみたいで、名前を確認された。数秒のはじめましてから水が流れるようにエレベーターに乗り、インタビューの部屋のソファへ案内される。

グラスに注いだ天然水を出され「今日はどんな…」と言われると同時に、もう脳内がしゃべり出していた。堰き止めていた水を少しずつ開放してゆく。話したい蛇口はたくさんあって、まずこれという一箇所を順番にひねりたいのに、幼児がやるようにあれこれひねってしまう。たまにビシャーッと飛び散る泥水にまざる砂利を尹さんがスッと拾って、テーブルの上に差し出す。まるで「こんな砂利」が出てきましたね、と。

ハッとする。えーっと、「この砂利」はなんだろう…。しばらくグラスの水を見つめながらよく吟味してみる。

きっと無意識や思い込みから出てきちゃった泥水のなかの砂利だ。二時間のあいだ、8割くらい私が喋っているなかで、ふとしたポイントで砂利を拾い、テーブルの上に置いてもらったようだ。気づいたら尹さんも泥水まみれである。すみません…でもありがたい。武士のようにどっしりとした存在感でまえに居るだけで安心する。インタビューがはじまってすぐは、俯瞰するもう一人の自分が制御していたが、いつのまにかフリーで話すような話し方になっていたようだ。蛇口は忘れていた。

相手が望む自分を演じなくてもよいというしゃべり。尹さんに、こちらの思い込みに、別の選択肢的発想があることを気づかせてもらうだけで、気持ちがスッと軽くなる。実行するかしないかは置いておいて、まるごとそれ(偏りを偏りのまま、事実を事実のまま)を知ってもらう選択肢があるということを認知する。それも面白いよ、有りだよと笑える安心感。ウケるウケないのネタではなく、本当に笑えない話だと思っていたから、おかしみのある余地がありホッとするのである。

ちょうどセッションが終わるタイマーが鳴ると同時に、いま自分がやりたいこと・できることが見えてきた。それが自然で気持ちよい流れでやってきた木の葉のようだった。笑みがこぼれた。グラスの水を飲み干し、テーブルの上の数個の砂利を、ポケットのなかにしっかり入れた。玄関でもう一度お礼を言い、ゆっくりドアを閉めた。そしてひとりエレベーターに乗る。

建物の外に出たら、見上げた空が澄んだ青で綺麗だった。日傘をさす。偏りは偏りのままで、私は私のままで良いも悪いもない。ジャッジは一切されていない。他者には傷や傷物のように見えるかもしれないが、それは誰にも奪えない絆みたいなものだといまは思っている。こう文字にするのは簡単だが、インタビューセッションの体験があったから、出てくるうちの言の葉である。



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