何かいい


「気」とは見えないけれども感じるもの。例えば空気は見えないがそれがいい空気なのか良くない空気なのかは、人は自然と判断している。それは、直感というよりは、生命の維持装置が反応して吸っていいのか?駄目なのか?を判断しているからです。では、直感的に感じる気とは何なのか?それは、「何かいい」である。良く言葉で表現できないことを人は「何か」という言葉で表現しますよね。例えばある空間に入った時、直感的に自分の中のアンテナが感じ取って「何かいい」とか「何か良くない」としますが、そこには論理的に何故いいのかという説明がつかないことがありますよね。この自分の中のアンテナというのは、もしかしたら「第六感」ではないのではないのか?例えば、「視覚:美しい 汚い」「臭覚:いい匂い、臭い」「味覚:美味しい、不味い」「触覚:スベスベ、ザラザラ」「 聴覚:静か、煩い」などの五感はこの様に感じたことを言葉にできるのですが、
「第六感」は、言葉化することができないから「何か」といってしまうのです。もしかしたら同じ感覚の人がいたら「そうそう」って言ってくれるかもしれません。しかし、これではコミュニケーションが成立していないのではないかと思えますが、逆に言葉に頼って他人とちゃんと考えを共有しているように見えるけども共有できていない時ってありませんか?例えば「美しい」という言葉は、その個々人の美意識によって捉え方が違っているので、同じものを見てもその美しさが同じものと捉えているとは言えませんよね?
言葉は、思いや考えを他人に伝える手段として生まれてきましたが、現在の私たちにとってこのコミュニケーションツールは、果たして活きたものとして使われているのでしょうか?
また私たちは、「見える化」といって図形化や数値化のように視覚的に表現することで効率的に共有化を図ろうとしてきましたが、これからもこれは必要でしょうか?VUCAという濃霧の中を歩いていかなければならない今、見えることによって共有化できる時代が終わり、可視化できないけれども人と人が心と心を通わせる(=気を通わせる)ことが、これからの時代だからこそ大切になっていく気がします。バーバルコミュニケーション(言語的コミュニケーション)より、ノンバーバルコミュニケーション(五感で感じるコミュニケーション)の方が大切さだとうたわれています。それは、言語情報は7%で、視覚情報は55%、聴覚情報は38%だからと言われています。しかし、これらは全てデータ化できる情報なのでこれらのパーセンテージが正しいとは思えないのです。何故ならば、「第六感」というデータ化できない要素が必ずそこには含まれていないからです。
全てを理論的に収めようとしても収まらないのが人間らしいところだと思います。だからコミュニケーションとしては不完全かもしれませんが、私は「何かいい」という表現は人らしい「気」がします。

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