何気ない夜

幼い頃

母の愛が全てだった私は
母が台所で夕食の支度をする時には
必ず側にいて
冷蔵庫から食材を取ったり
たまにお鍋の中をかき回す役を仰せ付かっていた


ある夏の夜
母が言った
散歩に行くけど一緒に行く?

夕食を食べ
母が食器の片づけを済ませ
エプロンを脱ぎ捨てた時だった


普段の母なら
テレビを観たり
大好きなお風呂に入ったり
疲れた一日を癒す
安らぎの時間


母が散歩に誘われることなど
今までなかった

幼い頃


一家で外食することも頻繁でなかった我が家
夏の夜に外出できるのは
花火大会と盆踊りの日くらいだった


あまりの思いがけない
夢への誘いに


なぜ散歩に行くのか
聞いて良いものなのか


母へ尋ねることを躊躇った隙間を
夜の外出に胸を躍らせた幼い楽欲が
すぐに埋めてしまった


母はチャイルドシートに
パジャマにサンダルの私を乗せ
あてもなく自転車を漕いだ


ライトが道先を照らす
シーンと静まり返った夜道に
走る母のスピードは
心地よい風を起こしていた


母と私は
特に会話するわけでもなく
ただ夜風に吹かれ
小さく輝く星たちの下で
真夏の夜の世界を楽しんでいた


決して上手とは言えない母の歌声に
自転車の振動がビブラートを効かし
バックコーラスの虫たちが盛り上げる

母が好きだった曲は
村下孝蔵の「初恋」と「踊り子」だった
テレビの音楽番組以外で
音楽を聴く習慣のなかった母が
唯一テープに録音していた曲
たまに洗濯物を干しながら
永遠に繰り返して聞いていた曲


いつもは車や歩行者の多い通りに
人気がなく
たまに行き交う車のライトが
眩しかった
いつもの見慣れた道が
幼い私には別世界に映り
なんだかよそよそしく感じた

あの夜、二人でどのくらい彷徨っただろう


母と私の
あてのない夜の散歩は
後にも先にもあの日だけだった


あれから、私も母になった

時々、夜にあてのない散歩をする

子供たちが幼い時は
一緒に散歩に連れて行ったりした
今は愛犬を連れて行く

真夏の夜は暑さで項垂れている愛犬のために行く
何気なく散歩したくなる夜は私のために行く


愛犬はどんな理由だとしても
喜んでお伴してくれる

何気なく散歩したい夜

愛犬と散歩しながら
ふと考える


何気なく散歩したい夜の
正体のよく分からない
衝動


騒めく衝動
揺れる衝動
心躍る衝動
泣いてしまいたい衝動
何も考えたくない衝動


母と散歩したあの夏の夜
母はどんな衝動だったのだろう

あのビブラードの歌声は
本当に自転車の振動だったのだろうか

夜空を眺めて美しいと思っていたのは
私だけだったんだろうか


母はあの夜のことを覚えているだろうか


母とは
よく二人で
食事にいき
買い物にいき
旅行に行った

母の初恋も、父と結婚を決めた理由も
どんなOL時代を過ごし
今度生まれ変わったら
どんな仕事をして
どんな人生を歩んでみたいか
そんな話をした

けれど


あの日の夜の話はしなかった


私は母の生涯の一部分しか知らないのだ

今はもう母の気持ちを聞くことができないけれど

何気なく散歩したい夜は
母と散歩した
あの真夏の夜を
想い出す

何気なく散歩したい夜は
母を誘って
あてもなく彷徨いたくなる

何気なく散歩したい夜


母に会いたい夜

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西丘塔子
最後までお読みいただき有難うございました!😊🙏