【相笠の女#3】花しか愛せない女
相笠の女【第3話】花しか愛せない女
そう、それは、にわか雨とともにやってくる。
「だから傘を忘れちゃいけないよ」
街であの鮮やかな花柄の傘を見つけたら、あの女かもしれないからね。
今日も無理かな。
自然に憂いなため息が出る。
ビルの合間に吹く冷たいそよ風に乗った甘い薔薇の香りが、オフィス街の喧噪に消えていく。大通りから一本外れた日陰の裏道に入ると、ひんやりとした空気が黙ったまま佇んでいた。
まるでトンネルね。
急ぎ足で狭い小道を通り抜けると、閑静な住宅街に出た。
鮮やかな深紅の花びらに一粒の水滴が落ちる。空を見上げると、また一粒、水滴が花びらを揺らしていた。
困ったわ、雨カバーしてこなかった。今朝の天気予報で雨が降るなんて言ってたっけ。お届け先まであと少しなのに。
花屋から1キロちょっと離れた届け先まで配達に行く途中、にわか雨に遭遇してしまった。
早く届けなきゃ。
焦れば焦るほど雨に勢いが増す。深緑色のエプロンの胸にとまっているテントウ虫のブローチが雨水に濡れて光っている。
まずいわ。急に本降りになってきた。これじゃお花が…
とりあえず、一時的な避難場所を探すしかないわね。
周囲を見渡すと数件先に準備中の小さな蕎麦屋があった。店の軒下を拝借して、一旦心を落ち着かせる。空を見上げ、無情にも降り続ける華雨を眺めた。
今年の桜たちとは、もうお別れね…
どうしよう。引き返して出直した方がいいかな。でも早く配達を終わらせないと今日は月曜日だから店長が一人で大変な思いをしてるはず。
オフィス街に店舗を構える花屋は週末よりも週初に注文が多く入るのだ。
呼吸を整えてスピードダッシュする瞬間を見定めていると、右隣からしゃがれた低音ボイスが聞こえた。
「雨にぬれた花かい。切ないねえ。テレサ・テンの曲にもあったじゃないか。ああ、切ないものこそ美しいってもんよ…」
なるべく直視しないように横目で確認すると、女らしき人物が花束に向かってブツブツと何か言っている。
独り言かな。それにしては声は大きいし、距離も近い。
湿気のせいか長い髪はボサボサで、雨の日の通学路でよく見かけるような黄色いレインコートを羽織っている。白い靴下にインされた黒いオーバーサイズのパンツは、ストリートコーデ風のファッションというよりもニッカポッカを彷彿とさせる。
不審者には近づかないことが一番。
さりげなく花束で顔を隠しながら、左へ数歩移動して距離を置いた。
すると、女も一緒に移動してきた。
恐怖で背筋が寒くなった。
「お客さん、どこまで?」
花束の横からちょこんと顔を出し、私の顔をまじまじと覗き込む。
今度は背筋が完全に凍り付く。
女は大きなエコバッグから花柄の傘を取り出した。
「早く乗りな。大丈夫、若い子には若輩割引があるからね」
「は、はあ…」
何が起きているのだろう。展開の速さについていけない。
何故か逆らえない強いエネルギーを感じる。
信用してよいものか。見た目は十分怪しい。でも人は見かけによらないって言うし。
女は傘を差すとスタスタと歩き出し、3秒後にふり返った。
「早くしないとおいてくよ!」
女の鋭い視線に吸い寄せられるように、身体が動く。
思わず傘に入ってしまった。
一度深呼吸をして状況を整理してみる。
そうか、きっと生活のために頑張ってるのね。小銭入れに千円くらいならあるはず。花が濡れなければ私も助かるし、お届け先までお願いしてみよう。
「あのう、私この近くの花屋の者で今、配達中なんです。ここからすぐの所なのでお届け先までいいですか?お代はそんなに多くは払えないんですけど…」
私の目を真っ直ぐ見つめ、満面の不気味な笑みを浮かべ、女はこう言った。
「ガッテン承知の助!」
女の高笑いが、静かな雨音に弾ける。
一体どんな世界に自分から飛び込んでいってしまったのか。
女と相笠で歩く。
しばらく沈黙が続き、少し気まずくなる。
私って駄目ね。初対面の人には緊張してしまって。こんな時は何を話したらいいのか。
一人で考えを巡らすが、すぐにその心配はなくなった。
「あんた、さっき花束見つめながらため息ついてたね」
ぎょっとして女の横顔を見た。
一体いつから見られていたんだろう。
私の反応を気にする様子もなく、女は前を真っ直ぐ見ていた。
蘇る恐怖。されど乗ってしまった舟はもう出発してしまった。とにかくお届け先まで乗り切るしかない。
「この花束の贈り主様は先週も同じ花束をご注文くださって、受取主様も同じ方なんです。前回も私がお届けに伺ったんですけど、受取主様はどうやらご迷惑みたいで」
「愛のメッセージかい」
「だと思います。99本の薔薇なので」
「切りが悪いね」
「99本の薔薇には永遠の愛を誓うっていうメッセージが込められているんです」
「へえ。ってことは、今のところ永遠の愛は報われていないわけか。そりゃまた切ないねえ」
ゆっくりと頷いた。
「受取人様が『いらないから持って帰って』とおっしゃられたので、お受け取りいただけないと困る旨をお伝えしたら、『じゃあ捨てるわ』って玄関前に置かれてしまって」
「ほう。こんな美しい薔薇を受け取らない輩がいるのかい。しかし受け取ってもらえなかったのにまた贈るなんて、ストーカーじゃないだろうね。贈り主はなんて言ってるんだい」
「それが…」
「伝えてないのかい」
「はあ、はい」
女はチラリと私の方を見たが、戒めるわけでもなく静かに私の話に耳を傾けていた。
「どうお伝えするべきか悩んでしまって、なかなか贈り主様にお伝えできずにいたら、すぐに二度目の注文が入ってしまって。良くない事とは分かっているんですけど、店長にも言ってなくて…。私は花が大好きなんです。けど、全ての人に喜ばれるものじゃないんですよね。なんだかそれが悲しくて」
「花思いな子だね。いつからそんなに花が好きなんだい」
少し胸が締め付けられる。見ず知らずの人に話すべきか…
どうせもう二度と会わないのだから隠す必要もないわね。よくある話よ。
「子供の頃、一人で図書館で過ごすことが多かったんです。図書館の庭には大きな花壇があって、閲覧室の窓から花が見えて。一番よく見える窓際の角が私の特等席で、読書するより花を眺めてる時間の方が多かった。あの頃からずっと花に囲まれながら働ける仕事に就きたいって思ってたんです」
「へえ、しっかりした子だ。私が子供の頃はね、押しくら饅頭で遊んでばっかりいたよ。こう見えても強かったんだよ。今、饅頭と言えば押し競べじゃなくて食べる饅頭専門だけどね。ハッハハッハハ」
高笑いする女の横顔をしばらく眺める。
こんな風に大きな口を開けて、周囲も気にせずに平気で笑うことができたなら、どんなに気持ちがいいものだろうか。
女に心を許していく自分がいた。
「花の何がそんなに好きなんだい」
「花はいつも優しくて、どんな私でも受け入れてくれるような気がするんです。私はたくさん花に助けられました。私もいつか花のように誰かを救える存在になりたいなって思ってます」
「ほう。それは素晴らし志だ。でもね、お嬢ちゃん。誰かを救いたいなら、まずはあんたを救ってやんないとね」
「私を…?」
意味を考える間もなく女は訊ねてくる。
「一体どんなあんたを受け入れられないんだい」
受け入れられない私…
10年以上も前のことなのに、今でも喉と胸が締め付けられる。
今まで誰にも打ち明けなかった話。
でも、何故か女には打ち明けられる気がした。
「じ、実は、小学生の頃…」
上擦る声を整えるために、一度深呼吸をして覚悟を決めた。
「クラスメイトからいじめに合っていたんです。それでも幼稚園から仲の良かった親友がいれば大丈夫って思ってたんですけど、ある日突然その子も口を聞いてくれなくなってしまって。私は引っ込み思案で、その子にどうしてって尋ねることもできなかった…」
「大人は誰も助けてくれなかったのかい」
「当時の担任に勇気を振り絞って伝えたら、いじめられる方にも原因があるから、私の気の弱い性格を変えるようにって窘められて。自分でも確かにそうだなと思ったんです。でも、なかなか自分を変えることができなくて、気の弱い自分も変われない自分も大嫌いで」
「なんだい、その役立たず。助けを求めている生徒に寄り添うどころか追い詰めて。教師やめちまえ!」
お薔薇と同じくらい真っ赤な顔で憤怒している。
「親は?」
「私にはひとり兄がいるんです。私は勉強もスポーツも苦手だったんですけど、兄は私と違って優秀で。いつも母に言われてました。女の子だってちゃんと良い大学に通って、良い会社に就職して自立しないと駄目よ。もっとお兄ちゃんも見習って勉強しなさいって。私も兄と同じ有名な進学塾にも通わせてもらっていたんですけど、全く母の期待には応えられなかった。だからイジメのことで、もっと母をがっかりさせたくなくて。父は仕事で忙しくて家に殆どいなかったし、もし父に話したら、絶対母にも伝わると思って」
「話せなかったってわけか。それは切ないね」
「でも、もう昔の話ですから。それに、あの経験があったからこそ花の良さを知ることができたし、今は毎日花に囲まれて幸せです」
可笑しくもないのにヘラヘラと笑った。
母の話をするときは、無意識に笑顔をつくってしまう。
「昔話じゃないね」
「いえ、小学生の時の…」
「あんたの心はまだ閲覧室にいるじゃないか」
激しい衝撃が身体中を走った。襲ってくる悲しさを必死にこらえる。
大丈夫。大丈夫。いつものように。
しばらくしたら通り過ぎていくわ。
溢れ出しそうになった感情を宥めていると、突然脳裏にフラッシュバックが起こった。消し去ったはずのあの日が、蘇ってしまった。
いつもの図書館からの帰り道。
花屋から小さな花束を持って出てきた私。
嬉しそうに家路に急ぐ。
勢いよく玄関の扉を開けて靴を脱ぎ、台所で夕食の準備をしている母の後ろ姿を探した。
鍋から出る温かい湯気。
甘いさつまいも入りのカレーの匂い。
『お母さん!』
母の喜ぶ顔が浮かぶ。
『これ!今日、母の日だから』
振り返る母の目の前に、赤い花の花束を差し出す。
『あ、そうだったわね。どこへ行ったかと思ったら。今、手が離せないから洗面所に置いてちょうだい。それよりちゃんと宿題終わらせた?塾の中間テストもうすぐなんだから、もっと勉強しないと。そうだ、クリーニング屋にお父さんのスーツを取りに行くんだった。早くしないと閉まっちゃう。お母さんちょっと出掛けてくるわね』
母はそそくさとエプロンを脱ぎ捨てて玄関へと向かった。
勢いよく玄関の扉が閉まる音。
静まり返った家の中に取り残された赤い花と私。
母に褒めてもらいたかった。
母に喜んでもらいたかった。
母を笑顔にしたかった。
私は誰にも愛されない。
私は誰も愛してはいけない。
私はあの瞬間から、花だけに心を許すようになった。
そう、あの日の赤い花。
花屋のカーネーションは売り切れていたんだっけ。
あの赤い花は、そう、美しい深紅の薔薇だった。
遠くの方からしゃがれた低音ボイスが聞こえてくる。
「花は誰かのために咲いているわけじゃない。自分のために咲いているんだ。己の愛があって初めて他の誰かに愛を与えるんだ。誰かを救いたいなら、まずあんたの花を咲かせてごらん」
大きな一粒の涙が頬を伝い、花冠に滑り落ちてゆく。
私の花を咲かせる?私にそんなことできるかな…
「砂漠だって大雨が降れば花が咲くんだ。今どんな場所にいたって大丈夫。あんたには花を愛する心がある。あんたなら大輪の花を咲かせることができるさ」
また一粒、そしてまた一粒。
花びらが次々に揺れていく。
でも、どうやって…
「閲覧室にいるあんたを心の底から愛おしいと思えたとき、大雨を降らせることができる。しょっぱい雨じゃ花は咲かないよ。甘ーい雨じゃないとね」
胸がいっぱいになって張り裂けそうになる。
この不思議な女に花のような愛を感じた。
「おや、雨がやんだね。私はそろそろこの辺りで」
いつの間にか、お届け先のマンションの前に立っていた。
女は花柄の傘を畳む。
「あ、有難うございました」
片手でポケットにある小銭入れを出そうとした瞬間。
「お代はこの花束でいいよ」
「え、あ、でも、これは今からお届け…」
「どうせ受け取らないよ。今回は贈り主にちゃんと正直に言うんだよ」
「はい。ありがとうございます!」
深々とお辞儀をする。
女はあの満面の不気味な笑みで、その場から去っていった。
後ろ姿を見つめながら、心の中で何度も『ありがとう』と呟く。
雨上がりの匂いが優しかった。
私はずっと待っていたのかもしれない。あの人を。
雲の間から光が差し込み、青い空が顔を出した。
アスファルトにヒラヒラと動き回る影が映る。
空を見上げると半透明の羽に薄紅色の羽が光る蝶が頭上をダンスするように飛び回っていた。
「綺麗な蝶だわ。まるで私を応援してくれているみたいね」
無我夢中で蝶を追った。
そうだ!花の種を蒔こう。
新しい私への誕生日に。
やっと涙が乾いた頃、空を見上げると薄い雲がフワフワと揺れていた。
雲を眺めてこんなに穏やかな気持ちになったのは生まれて初めて。あの蝶も、あの雲も。愛をくれていたのは花だけじゃなかったのね。
図書館に置いてきぼりにした私を早く迎えに行かなくちゃ。
笑う春風のようにせわしく帰っていくと、
薄紅色の蝶も遠くの空へと飛び立っていった。