【相笠の女#4】時代に翻弄される男
相笠の女【第4話】時代に翻弄される男
そう、それは、にわか雨とともにやってくる。
「だから傘を忘れちゃいけないよ」
街であの鮮やかな花柄の傘を見つけたら、あの女かもしれないからね。
もし無人島にこの女と取り残されたら、何日生きていられるだろう。
ふとそんなことを考えながら、しとしと降る雨の中を行きずりの謎の女と一緒に相笠をして歩いていた。
一体なんでこんなことになっちまったのか。
10分前の記憶を辿る。
俺はコンビニで大量のカップ酒とつまみを買い込んでいた。
店の自動ドアから外へ出ると、ちょうど雨がポツポツと降り始めた。
傘を買うか、急いで帰るか。
辺りを見回すと、店先に設置されている飲料自動販売機の横に人影が見えた。どういうわけか気になって、その人影を注視した。
自販機にもたれかかっている女らしき人物は、鮮やかなブルーのジャンパーを羽織り、清潔感とは程遠い黒いパンツを履いていた。頭には薄いベージュのハンチング帽を被っている、というよりも乗せている。帽子のサイドからはボサボサの髪がはみ出し、水色のキャップのついた赤鉛筆を右耳にかけている。女はクシャクシャになった競艇新聞を熟視しながらブツブツ何かを呟いていた。
奇抜な女だな。まっ、俺には関係ないが。
その瞬間、女は俺の目を直視した。
俺は蛇に睨まれた蛙ように、足が竦んだ。
静かな雨音だけが聞こえてくる。
目を逸らしたいのに逸らせない。
どんどん女の強い視線に釘付けになる。
何が起こってるんだ。
雨は徐々に強くなる。
年々後退していく頭頂部がひんやりと冷たくなる。
女が視線を逸らした途端、蛇の魔法が解けたように、やっと俺の身体が解放された。
俺は慌ててその場を立ち去った。
あの女、一体何なんだ。俺はホラーは苦手なんだよ。
明らかに寒さのせいではない寒イボが出ている。
10メートルくらい歩いたところで、怖じ恐れていた気持ちが少し和らいできた。気が付けば頭皮を打つ水滴が止んでいる。
なんだ、もう雨が止んだのか。
空を見上げる。
うわ、なんだこりゃ!空が花だらけだ!
まるで万華鏡のように花がクルクル回ってら。
なんて綺麗なんだ。でも目が回る。
未曾有の事態だ。
いや、まてよ、冷静になれ。空に花なんてあるわけない。酒の飲みすぎで俺はとうとう幻覚を見るようになっちまったのか。
あ、そうか!ってことは、さっきの女も幻か。そうだよな。あんな奇妙な女いるわけない。酒で幻覚を見るなんて俺はもうおしまいだ。
肩を落とし項垂れていると、見覚えのないスニーカーが目に入った。
遥か昔は真っ白だったであろう薄汚れたスニーカー。
こんなの履いてたっけな。
すると、いきなりドスの効いた低音ボイスが聞こえた。
「お客さん、どこまで?」
「うおあ!スニーカーが喋った!」
結構なボリュームで吃驚の声が出た。後退りした拍子に足を滑らせ尻もちをついた。手に持っていたコンビニ袋の中身が道端に散乱している。
「まるでドリフだね」
奇妙な女は花柄の傘をクルクルと回しながら呆れた顔で俺を見ている。
お願いだ。幻であってくれ。
女は散乱している酒とつまみを一つ一つ吟味しながら回収し始めた。
「こんなにカップ酒ばっかり買って。割れなくて良かったよ。で、ツマミはスルメ、ジャーキー、小魚アーモンド… 乾きもんばっかりだね。こりゃ酒もすすむわ」
全部袋に入れ終わると、女は俺に手を差し伸べてきた。
一人で立ち上がろうとするが、長年にわたって蓄積された腹周りの脂肪の重みが邪魔をしてなかなか立ち上がれない。悔しさいっぱいで女の手を借りた。
そこから、どういうわけか女と相笠をして歩き始めた。
「あんた酒臭いねえ。相笠するならお口のエチケットってもんがあるんだよ」
いつ俺は相笠したいと言ったのだろう。全力で記憶を呼び起こすが思い出せない。やっぱり酒のせいでどこかの記憶を失ったのか。
呆然と女の横顔を見ていると、女は肩にかけていたエコバッグから片手で爪楊枝を取り出した。大きく口を開けシーハーシーハーと言いながら、虫歯だらけの黄色い歯を掃除している。
しばしエチケットの定義を考える。
この女と無人島に残されたら3日がいいとこだろう。
こんな強引で奇妙な女に今まであったことがない。でも、なんだか憎めないのは気のせいだろうか。それに、どこか懐かしくて愛着さえも感じるような…
「なんで昼間っからそんなに酒をかっ食らってるんだい」
女は使った爪楊枝をジャンパーのポケットに仕舞いながら言った。
「あんたに関係ないだろ。どうだっていいんだよもう。どうせ俺は何やったって…」
「そうかい。じゃあ一生黙って酒を食らうしかないね」
そう言われてしまうと話したくなるのが人間の性である。
「家の女房が突然離婚するって言ってきかねえんだ。そりゃあ昔遊んだこともあったけど、あれはもう何十年も前の話だ。あの頃は家に居場所がなかったんだ。あれから女房の機嫌が直るように努力もしたってのに、今になって離婚だなんて言われてもな。だいたい俺らの時代は甲斐性のある男は女遊びをしたもんなんだ。何が気に入らないか知らないが、俺はろくに休みもなくずっと会社と家族を守るために必死にやってきたんだ」
話すつもりはなかったはずが、だんだんヒートアップしてくる。
「だいたい俺の人生いいことなんて一つもありゃしない。仕方なく家業の三代目を継いだって、親父は一度だって俺を認めてくれなかった。結婚だって殆どお袋が仕組んだようなもんだ。おまけに長男は四代目を継ぎたくないと言って、とっとと家を出て行っちまった。俺は人生を犠牲にして会社を継いだってのに。親に逆らうなんて俺らの時代には考えられなかった」
女はチラリと自分の腕時計を見た。
「しかも今時の若い社員ときたら、冗談を言えば老害だとか社長の俺を敬うこともしないし、飲みに誘ってやってもすぐ断ってきやがる。ちょっと叱っただけでも都合よくパワハラだとか言いかねない。今の時代はろくなもんじゃねえ」
女は再び腕時計を見た。
「そういえば、この間の取引先の若造も…」
「しかし一人でよく喋る男だねえ」
聞くに堪えないとでも言わんばかりに女は俺の話を遮った。
「あんたが訊いてきたんだろ」
不満気に口を尖らせる。
「まあね、あんたのやるせない思いが時代に置いてけぼりになっちまったってのは分かったよ。でもね、時代、時代って、時代を悪用するもんじゃないよ。日本を代表する歌姫、中島みゆき様に失礼ってもんさ」
なんなんだ。この女。
「まあね、腹が立つもんは仕方ない。あたしもね、スポーツジムに化粧バッチリでくる女は信用しないね」
「何の話だ」
「でもさ、そんなに結婚生活に執着して何の意味があるんだい。相手が駄目だって言ってんなら仕方ないじゃないか」
「何も知らないくせに。説教じみたこと言うな。根掘り葉掘り俺のこと訊いて、あんた探偵か」
「呆れるね。あんた調べて何の価値があるってんだい」
「なんだと!」
何なんだこの女。偉そうに俺の人生に口を挟みやがって。打ち明けて損したな。
でも、心の奥底で女の無礼な物言いに少し喜びを感じていた。三代目社長という肩書を手にした日から、俺はずっと孤独だった。
「本当は何をしたかったんだい」
俺のしたかったことか…
そんなことを訊いてきたのは、この女が初めてだ。
「俺は漫画家に憧れてたんだ。ガキの頃、ノートの端はイラストだらけだったな。小6の時に将来漫画家になりたいって言ったら、祖父さんに漫画本を全部捨てられて、その日からテレビアニメを観るのも禁止された。夢を描くことも許されない少年時代さ」
怒りが悲しさに変わってゆく。
「今頃そんなこと言ったって意味ないけどな」
女は一つため息をついて、俺を見た。
「あんた最後にありがとうって言ったのはいつだい」
ありがとうか…
思い出せなかった。
「仕方ないね。あんたみたいなツアモノには荒治療さ」
「ほれ」
女はエコバックから丸い手鏡を出して、俺の顔を鏡に映した。
「はい、言って」
「何を」
「何をって、ありがとうに決まってるじゃないか」
「なんで俺が」
「あんたが欲しかった言葉だろ」
「そうだよ。でも言われたかった言葉だ。言いたい言葉じゃない」
「同じことだよ。この世は写し鏡さ」
「どういう…」
「つべこべ言わずに言っちまいなよ」
長年会社を経営していると、一瞬で選択と決断を迫られることがある。俺は、今まさにその局面に陥っている。人生とは選択の連続だ。
「そんなに考え込んじゃて、大袈裟だね。減るもんじゃないんだから。ほら、早く」
言わないと長引きそうだ。この女とはまともに話すことはできない。
「あ、ありがとよ」
「もっと大きく」
「ありがとよ」
「ちゃんと自分の目をみて」
仕方なく自分の目を直視する。
自分の目を見つめるなんて、いつぶりだろう。
俺はいつからこんな死んだ魚の目になったんだ。ため息を吐き、
新しい息を吸った。
「ありがとう」
なんだ心臓の辺りが急に熱くなり、身体がフワッとする感覚になった。なんだか気持ちがいい。こんな恍惚感は久しぶりだ。なんだか子供の頃、最高の漫画に出会えた時に感じた、あの幸福感に似ている気がする。
死んだ魚の目から一筋の涙が零れる。
慌てて涙を拭った手をズボンのポケットに仕舞い込んだ。
「おい、なんだよこれ!鏡に変なもの仕込んだな」
女は俺を見ながら哄笑している。
「時代が変わって嘆く者もいれば、時代が変わって喜ぶ者もいる。時代に抗うのはもうやめなよ」
「どういうことだ」
「描いたらいいじゃないか、漫画」
「何を今更。もうすぐ定年前のオッサンだぞ。今から漫画なんか描いたって笑われて恥をさらすだけだ」
「今の時代を素直に受け入れたらいいじゃないか。」
「今の時代…」
「年齢なんて関係ないよ。皆求めているものは、それぞれ違うんだ。あんたが納得できるものを描いたらいいじゃないか。昭和と平成の時代を生き抜いたあんただからこそ、この令和に描ける作品がある」
「でもな…」
「あんたには貫く覚悟はあるのかい」
雷が頭上に落ちた。どこかで聞いたことのある台詞。
俺が社長に就任する前夜。
普段口数の少ない親父が珍しく俺を呼び出して言った。
「お前には貫く覚悟があるのか」
一言そう言って、親父は自分の書斎に入っていった。
漫画家の道を目指す覚悟。
三代目として人生を捧げる覚悟。
あの日の俺には、どちらもなかった。
漫画家になりたかった。でも漫画家で食っていく自信がなかった。俺は家業を仕方なく継ぐことを言い訳にして、漫画家を目指すことを断念したんだ。
漫画家を諦める覚悟のないまま、三代目になった。中途半端な俺はいつも時代のせいにしていた。
またあの日と同じことを繰り返すのか?
また明日も同じ不平不満を並べるのか?
身体の内側が熱くなる。
「なんだよ、酒の飲みすぎで目から酒が出てきたぜ」
心底からマグマが湧いてきた。
「俺、漫画を描く!離婚して会社も辞める」
女は黙って頷いた。
「春の晩飯後三里。あんたの人生、まだ夕飯を食べたばかりさ」
女は一人で高笑いしている。
「夕飯か…昨日食べたのは確か湯麵だったな…」
コンビニ袋を地面に置いて、パンっと大きく手を叩いた。
「早速いい漫画のタイトルが思いついた!俺は天才か!」
「ほう、どんなタイトルだい」
「まだ誰にも言うなよ。アイデアを盗られちまうからな」
急に小声になった。
「わかったよ。っで?」
「題して『名湯麵クルン』だ。主人公が湯麵を食っている間に、髪が麺みたいにクルンってなるんだ。すると難解事件を解決する糸口が閃くんだよ!な、いいアイデアだろ?俺って天才だな。ワッハハハハ ワッハハハハ」
相笠の女は天を仰ぎ、そっと目を閉じた。
「こうしちゃいらねえ。早く家に帰ってメモしないと!最近物忘れがひどいから忘れちまうよ。なんだか知らないけど、あんた、ありがとな」
「たまには物忘れってのも役に…」
着火したばかりの情熱の炎で女の声は打ち消された。
そこにはもう肩を落とし、背中を丸めて歩いていた男の面影はない。
雨上がりの空に鮮やかな二本の虹がかかる。
慌てて家路へと急ぐ新人漫画家の後ろ姿を女はしばらく眺めていた。
「これはもう必要ないね」
行き場をなくしたコンビニ袋は新しい主人に懐いている。
5年前に天へと旅立った親父。
不平不満を一切言わずに会社経営に尽力し、定年まで立派に二代目を貫いた男。
親父は本が好きだった。会社から帰ってきて、少しでも時間があるときは書斎にこもって読み物をしていた。
あの頃は考えもしなかった。本当は親父にも他の志があったのだろうか。
だから親父はどちらの覚悟もない俺を認めてはくれなかったのだろうか。
もっと親父と話せば良かった。
長い間ずっと解けなかった謎が解けたような気がした。
親父!俺、今度こそ貫くよ。
そうだ、あの女!分かったぞ『意地悪ばあさん』だ。風貌は違うが、あのキャラクターにどこか似ていたんだ。だから懐かしかったのか。俺が納戸の天井に隠して、祖父さんに唯一捨てられなかった漫画だ。まだ納戸に眠っているかもしれない。よし、実家に帰ってまた読み直すぞ!
彩雲が輝く青空の下。
意地悪ばあさんのテーマソングをハミングしながら、スキップする少年が虹のアーチを駆け抜けていった。