SS「魔法の言葉」(書籍収録作品)
少女が窓を開け放つと、甘い花の香りのそよ風が吹いていた。庭先を見渡せば、木立の木漏れ日がちらちらと揺れているのが見える。その光の中を小鳥たちがじゃれ合うように飛んでいく。
「よし。完璧な朝だわ」
満足げに微笑み、ダイニングへ向かうと、ママは窓辺に花を飾っているところだった。
「おはよう、ママ」
ママは長く艶やかな髪を揺らしながら振り向いた。
「おはよう。朝ごはん、できているわよ」
テーブルに向かうとすでにパパが席に着いていた。
「おはよう。パパ」
「おはよう。よく眠れたかい?」
「うん」
赤いチェックのテーブルクロスの上にスープ皿が置かれた。色とりどりの野菜が入ったあたたかなスープ。たった一皿だけ。
「パパとママは今日も食べないの? ねぇ、もしも――」
少女が言い終わる前に、パパの大きな手が少女の口を覆った。
「言っちゃだめだ! 『魔女狩り』に見つかったらどうする」
パパは口ひげに唾が飛ぶほど声を荒げた。
「あなた、そんな風に怒鳴ったりしたら、この子が怖がるわ」
「そうだな、悪かった。ただな、おまえが心配なんだ。『もしもの魔法』は使わない約束だっただろう?」
少女は不満げに唇をとがらせつつも頷いた。
少女は魔法を使う。「もしも」と呪文を唱えるとその通りになる魔法。
「ごめんなさい。パパやママと一緒にごはんを食べられたらいいのにって思っただけなの」
「パパやママの心配はいいから、おまえはしっかりお食べ」
「うん。わかった」
ようやく少女はスプーンを手に取った。
昔は世界中に魔法使いがあふれていたらしい。けれども次第に魔法を使わない者が力を持つようになると、魔法は迫害された。そして『魔女狩り』が現れた。
『魔女狩り』に連行されて帰ってきた者はいない。パパはそれを心配しているのだった。
パパとママは魔法が使えない。魔法が使える者はみんな『魔女狩り』に連行されてしまった。
「私もパパやママみたいだったらよかったのに」
パパは少女を抱きしめた。パパの腕がちょっと痛かったけれど、少女は黙ってパパの大きな体に腕を回した。
ママが少女の頭を優しくなでる。
「魔法が使えるとか使えないとか関係ないわ。あなたはパパとママの大切な子。それだけよ」
「ママ……」
ママの手はひんやりとなめらかで気持ちよかった。
少女は、パパとママのことが大好きだった。
だからこそ、言えなかった。
毎朝、内緒で『もしもの魔法』の呪文を唱えているなんて。
夕暮れが近づくと、少女はいつもさみしくなる。魔法が使えるのは日暮れまでだから。夜は『魔女狩り』の巡回があるから、魔法を使うなんてもってのほかだ。
「さあ、晩ごはんにしましょう」
ママの言葉でみんなそろってテーブルを囲む。少女の前にだけスープの皿が置かれた。
「いただきます」
少女がスプーンを手にしようとした、その時。
ビービービーッ!
どこか遠くでブザーが鳴り響いた。
ビービービーッ! ビービービーッ!
ブザーはどんどん近づいてくる。あまりのけたたましさに少女は両耳をふさいだ。
次の瞬間、ドアが乱暴に開かれた。真っ赤なパトランプが光っている。
「発見! 発見! 危険因子、一体発見! こちら巡回ロボット『魔女狩り』! 規定プログラムに則り、危険因子一体を連行する!」
パトランプを点灯させた半球型のロボットがなめらかな動きでダイニングに向かってくる。赤い光がくるくる回るたび、魔法が解けていく。
「やめて!」
「連れて行かないでくれ!」
ママとパパが叫びながら、少女を背後にかばう。
ふとスープ皿を見ると、灰色のどろりとした液体が入っていた。色とりどりの野菜のスープは消えてしまった。
魔法が解け始めている。
赤いチェックのテーブルクロスも窓辺に飾られた花も、あらゆるものがみるみる色あせ、消えていく。どれも魔法で作ったものばかり。
すぐに「パパ」と「ママ」の魔法も解け、本来の姿を取り戻していく。
「ママ」の髪は抜け落ち、頭部は金属製の球体が露わになる。耳や鼻もなく、目標認識のためのカメラが一つついているだけ。ボディには作業用のアームが大小合わせて4本。足の代わりに移動用球体ホイールがついている。
「パパ」はもっと人の姿からかけ離れている。ドラム缶のような円柱に、先端が欠けたアームと走行用のキャタピラがついているだけの旧型ロボットだ。
ふいにブザー音が鳴り止み、静寂が訪れた。
『魔女狩り』が「パパ」と「ママ」ににじり寄る。
「そこの2体、なにをしている。どきなさい」
けれども「パパ」も「ママ」も少女の前から動かない。
「私たちは、この子を守るようにプログラムされている」
「この子の本物のパパとママは、『魔女狩り』に連行される前に私たちにプログラム設定し、娘を隠した。私たちは、パパとママの情報を使用したAIを搭載している。娘は渡せない」
抵抗された『魔女狩り』は、動きを止めた。しばらく思考するようにパトランプが早い黄色の点滅を繰り返していたが、結論が出ると緑色の点灯に変わった。
「人間との共存の道は閉ざされた。われわれ巡回ロボットは人間特有の空想する際の脳波を感知し、危険因子を発見および連行するようプログラムされている。双方の行動基準プログラムの不一致により調整不可能と判断。ロボット2体を破壊する」
「待って!」
少女が「パパ」と「ママ」の腕の下からするりと這い出た。
「行きます。だからパパとママは壊さないで」
「了解した」
本物のパパとママのことはもうよく思い出せない。魔法で作り出した姿だったけれど、少女にとって「パパ」と「ママ」はたしかに家族だった。
少女は右手で「パパ」、左手で「ママ」の手を握った。
「パパ、ママ。毎朝『もしもの魔法』を使っていたこと、黙っていてごめんなさい。さようなら」
少女は2体のロボットの背後に回り、リセットボタンを押した。これで「パパ」と「ママ」の少女保護プログラムは解除されるはずだ。
少女に関するデータが消去された2体のロボットは、少女に背を向け去っていく。
『魔女狩り』の後部からクレーンのような巨大なアームが2本伸び、少女をつまみ上げた。同時に『魔女狩り』の半球体ボディが左右に開く。その透明なカプセルに少女は収納された。「巡回ロボット『魔女狩り』、危険物を処分場に輸送する」
走り出した『魔女狩り』に揺られながら、少女はこれまでの日々を振り返る。
それは少女が「もしもこうだったら」と思い描いた風景。ずっと前にパパとママが話してくれた昔の世界の風景。
呪文を唱え、思い描く。空想する。人間だけが使える魔法。 少女を乗せた『魔女狩り』は、夕暮れの廃墟の街を走る。
この世界には、草木も花もない。小鳥もいない。すべては少女の『もしもの魔法』だったから。
もしも。もしもパパとママが生きていたら。もしも人間がいた世界が続いていたら。もしも植物や動物たちが生きていたら。
もしも。もしも。もしも――
そんなふうに毎朝呪文を唱えていた。
少女を乗せた『魔女狩り』は夜通し走り続けた。
やがて朝日が昇る。
「もしも……」
処分場に向かうカプセルの中で、少女は呪文を唱える。
もしも、これが楽しい旅の始まりだったら。もしも、緑豊かな森や人々でにぎわう街を通るとしたら。もしも、この先でパパとママが待っていたら。もしも、これがパパとママに会いに行く旅だったら。
『もしもの魔法』で、たちまち世界は輝き出す。
だから、少女は唱え続ける。どんなときでもどんなことでも叶う魔法の言葉を。
このショートショートは電子書籍ショートショートアンソロジー『カプセルストーリー/緑』に収録されています。
『カプセルストーリー』についてはこちらの記事でも詳しくご紹介しております。